Zektbach叙事詩 Apocalypse 歌詞考察Ⅸ | Liber Kukulcan

Liber Kukulcan

いつの間にかZektbach考察が主になっちゃってたブログ

過去の考察をお読みになる際には
更新された日付に基づいて書いているのでご注意を

さて、今回は締めくくりという事でこの曲のテーマである『罪と罰のパラドクス』の辺りの話を哲学的に書こうかなと思います。

ちょっと小難しくなるかも。
元の和訳から思い立ってUPした時間から2か月と6日に5時間27分19秒後、秒数に直すなら580,8439秒後これを書いている訳ですねw

・・・ってそんな数字に魅了される人そんなにいないわな・・・



でもってこの歌詞が何を言おうとしていたのか・・・

この謎は皆様方それぞれにあると思いますが私はこう思います。


罰は罪を償う為に行われる物

しかし、罰を生み出すのも人であるならば、罪を生み出すのも人であるが故に、罰は罪と表裏一体である

罰を与えることは罪を生み出す事にもなり兼ねる事を裁く者は心得なければならない

また、罪を与える時はそれ相当の者にしなければならない

それが行き過ぎた場合、行うのは正義という名の盲目に陥る



たとえば「一所懸命一つのことを粘り強くやれる子」と「一つのことを拘りすぎる頑固者」

両者とも同じ事を言っているのではないでしょうか?

見方の違いですね。

なので裁く者は中立でなければならないのもあるかと思います。

事実、この日本でも裁判所は第三者機関としての位置づけにあります。

個人的にはアンネースが言う「神」はこの審判にアンネースを使わしたのが失敗に思えてなりません。

両者の目線で見れるアンネースの場合、裁く基準が解らずに暴挙に走ってしまった所があるように思えます。


裁きを表すものに天秤があります。

天秤はその重さと見合っただけ傾き、両者が吊り合う時のみ答えを出してくれるものです。

罪と罰は元々は同じことなのかもしれません。

天秤をつりあわせるものとしては同じものですから

また、罪と罰の原点はこの見合うだけという事が元々の意味ではなかったのでしょうか?

悪いことは悪いことをしただけ償う。

元々は、罰はそう意味ではありませんでしょうか?

私はこのファラリエンの人々にそれほど重い罪であるとは思えませんでした。



アンネースは天秤を使う時、「神」という名の重りを片側だけ乗せてしまい、天秤の誤差を見誤ってしまったのが個人的な見解。

更に、そこから重りを乗せっぱなしになっているような気がします。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように全てが悪の人でもいいことは一つでもあるはず。

せめて、アンネースには天秤の傾きに少しの変化も見てもらいたかったなぁ。



今後のアンネースの動向が気になりますね。

自らの手で重しを外す事ができるのか?

個人的にはそう思います。



今後の予定はブラジャス辺りを考察予定

色んな方向で切り込んでいこうと思います。



最後に、

長い間考察を呼んで下さいましてありがとうございました