ニットは今月の二十日で、二十五歳になる。

 ウールとニットは同い年。ウールは腰のあたりにとても美しい曲線を備えている。

 ニットはこの世の全てに、恐怖している。

 だから彼は、「怖い」という言葉が口癖だ。

 

 ウールはニットに「怖いものなんて何もないわよ」と言う。

 それは口癖に似ていて、口癖とは少し違うものだ。

 将棋の歩とと金みたいに、繫がってはいるけれど、明確に違うもの。

 きっとゲームに対する役割が違うのだ。

 

 1.

 ニットは幼い頃から、母親から酷い虐待を受けて来た。

 要らない子、と呼ばれ、殴られ、蹴られた。

 煙草の火を押し付けられ、髪の毛を掴んで床に叩き付けられた。

 母親は普段は優しくて、それが余計にニットには苦しかった。

 

 ニットが怖いのは、自分が生きていることだ。

 息をして、笑って、泣いて、食べて、眠って、働くことだ。

 自分は存在しなくて良い存在だと母が言っていたのに、ニットの身体は生命活動をする。

 創造主の意思に逆らって。

 

 十五歳の頃、ニットは煙草を吸い出した。

 「いきなり死ぬのは怖いから」

 ウールがその可憐な唇で質問すると、ニットはそう答えた。

 「ゆっくりと死んでいけば死ぬことも怖くない」

 にっこりと笑ってニットは、煙草の煙をぷかぷかと空に浮かべる。

 「命からゆっくり離れていける」

 環境破壊も出来るから、ついでに地球も道連れだしねとニットは自嘲した。

 

 ウールはふざけないでよ、と言った。

 「あんたみたいな人、無様に生き抜かせるわよ。そうして足掻いて死なせるわ」

 何の権利があって、と言ったニットをウールは睨みつけた。 

 あたしも副流煙で少し死なせられたから、その分の権利よ。

 

 結局ニットは、煙草を辞めた。

 ウールがいる限り、徐々にフェイドアウトはさせてもらえないと悟ったからだ。

 有害な煙がなくても、自分たちは毎日少しずつ死んでいっているのだし。

 生きるというのは、誰にも気付かれないほどの速度で別れを口にすることだ。

 

 2.

 ウールは拒食症だ。

 ウールはその所為で凄く痩せている。

 ニットは心配する。心配するというより、恐怖する。

 自分は存在してはいけないのに健康で、ウールみたいな美しい人が病んでいることに。

 ウールはとても痩せていて骨や目が浮き出ている。

 悲しみはウールから食欲を奪ったけれど、美しさまでは奪えない。

 

 だからウールは食事をしなくても、悲しみに敗北していない。

 ニットは食事をしていても、恐怖に屈している。

 

 ウールはニットを車に乗せる。

 小さくて可愛い、まるっこい形の車に。

 ウールがエンジンをかけると、ぶるるると大きな音を出して車は走り出す。

 その車はニットを狭い世界から連れ出す為に、ウールがローンで買ったものだ。

 

 車は小さな身体で、すいすいと一般道を走り抜けていく。

 ニットと走る時は、ウールは高速道路は走らない。

 高速での事故が怖いとニットが騒ぐし、ニットは曲線が好きだから。

 だから二人はドライブの時はなるべくカーブの多い、一般道を往く。

 

 曰く、地球がウールの身体だと思えたら、そんな安心することってない。

 

 「ほらね。どこまで行っても、怖いものなんて無いでしょう」

 ウールはハンドルを操作しながら、横目でニットを見る。

 ニットは窓の外を見ている。

 喫茶店、ファミリーレストラン、コンビニ、ガソリンスタンド。

 様々なものたちが後ろへ流れていく。

 ニットの意思と無関係に、全てが過去になっていく。

 

 「あんたの母親も、あんたも、あたしも、くそくらえだわ」

 世界はこんなに広いのに、小さいことでくよくよしちゃってさ。

 ウールがいつの間にか、隣でぐすぐすと泣いている。

 ニットは、ウールの曲線にそっと触れた。

 それは同意に似たものだったけれど、同意とは少し違うものだ。

 キャッシュカードと通帳のように、同じ役割だけれど、確実に違うもの。

 ゲームに対して出来ることの幅が違うのだろう。きっと。

 

 ニットを車に乗せる時は必ず、ウールは子供の感情に黒いプリーツスカートを合わせている。

 それは馬鹿げていてアンバランスなのに、ウールが身につけると奇妙にしっくりきた。

 香水をつけないウールの髪は、いつも洗い立ての匂いがする。

 ニットはその事実を誰にも喋ることのない秘密のように、大切にしまっている。

 

 ウールとニットの大きく小さな旅に目的地はない。

 いつも適当な場所で車を停めて、ウールが作ったお弁当を食べる。

 ウール自身は一口も食べないのに、いつもお弁当を作ってくれた。

 味見してないから、不味いかも。と口癖のように言って。

 

 その日も小さな駐車場に車を停めて、近くの公園に二人で向かった。

 公園には数人の子供が遊んでいて、その周りを鳩がのどかに歩いている。

 ウールとニットはベンチに座って、いつも通りお弁当を食べ始めた。

 不味い? とウールが聞いて、美味しい、とニットが答える。

 味見してないから、不味いかも。ううん、美味しい。

 

 ニットはぱくぱくと、弁当を食べ進める。

 普段ならそのまま全て平らげてしまうニットの箸が、その日は途中で止まった。

 集団で遊んでいると思っていた子供たちの中に、一人だけ少し距離がある少女がいる。

 少女は周囲の子供と一緒に遊んでいるように、巧みに偽装していた。

 けれどよく見れば、彼女が子供たちの”仲間”ではないことは一目瞭然だった。

 

 3.

 ニットは少女を見つけてから、そっと目を逸らした。

 少女が仲間はずれにされていることよりも、彼女の巧みな偽装が苦しかった。

 惨めな自分が露見しないように、空気を悪くしないようにしている彼女が。

 ニットの異常に気付いたウールも、少し経ってから少女に気付いた。

 そしてウールは少女をじっと見つめた。

 

 少女を見つけてからというもの、お弁当は砂を噛んでいるようだった。

 少女は視線の焦点をどこにも合わせずに、ずっと漂わせている。

 子供たちの方を見ることも、子供たちに背を向けることも出来ないからだろう。

 どこを見るともなく、どこも見ずに、どこかを見ている。

 

 ニットは幼い頃、母親の横で同じ目をした。

 相手の機嫌を損ねないように、けれど惨めにもならないように。

 

 子供たちのひとりが、遊んでいるうちに勢いで遊具を落とした。

 少女はのろのろと、それを拾って落とした子供に手渡す。

 子供は遊具に汚いものがついたように顔を顰めて、少女を無視した。

 少女は遊具を差し出した格好のままで、固まった。

 砂が全て落ちた砂時計の中のような、砂場の上で立ち竦んだまま。

 

 数人の子供たちがくすくす笑いをして、遊具を落とした子供に何かを言う。

 遊具を落とした子供は、恥辱に塗れた顔を真っ赤に染めて、少女から遊具をひったくった。

 そして感謝の言葉の代わりに、少女を突き飛ばした。

 ニットにはスローモーションに見えた。ニットは泣き出しそうだった。

 

 少女は零れ落ちた時間の上に転び、その掌と膝が破れる。

 真っ赤な鮮血が滲んだ。

 子供たちがくすくす笑いのヴォリュームを少しあげた。

 ニットは身体を震わせて、目をお弁当に向けた。

 鳩の鳴き声と子供のくすくす笑いが、反響して歪む。

 

 ウールは少女をじっと見つめ続けていたが、不意にくるりと公園の入り口の方に首を回した。

 公園の入り口には一人の老婆が佇んで、子供たちを見ている。

 その目に悲しみと、ショックをたたえて。

 自分の手と膝に滲んだ血を見ていた少女も、ウールにつられて入り口を見た。

 少女はその瞬間にすくっと立って、たたたと入り口へ駆け出した。

 

 老婆に近寄って、少女はにっこりと笑う。

 転んじゃった、でも泣かなかったよと言って。

 転んだことは自分の不注意のせいであって、誰かに危害を加えられたわけではないと言う為に。

 老婆も偉かったね、と無理矢理に笑った。

 孫と祖母はお互いに嘘をつく。本当のことはあまりに苦しすぎるから。

 

 ざあと雨が降って来た。つい先刻まで晴れていたのが、嘘のように。

 子供たちはわあわあと叫びながら、雨から逃げ惑って走る。

 鳩たちは飛び立ち、雨の当たらない場所に行くのだろう。

 老婆と少女とニットとウールだけが、雨の中に取り残された。

 

 理不尽さと悲しみの上に、ゲリラ豪雨は容赦なく降り注いでいく。

 お弁当も台無しになってしまった。もう食べられないだろう。

 自分は食べ物を口に出来ないウールが、ニットの為に作ってくれた食べ物。

 けれど雨のおかげで、誰が泣いても、誰もその涙には気付かない。

 

 ウールは帰り道、何も言わなかった。

 ニットはびしょ濡れの膝の上で拳を握って、下を向いていた。

 通り雨のあがった街は、水滴に日光が砕かれて、きらきらと輝いている。

 ニットは少女の怪我に絆創膏を貼る、皺だらけの手を想像している。

 その温度や感触を。それがもたらす慰めや惨めさを。

 

 車はカーブを曲がって、二人に重力がのしかかる。

 ニットはウールの曲線だけを、頼りにしていた。

 ウールはニットを支えることを、自分の支えにしている。

 生きるというのは、誰にも気付かれないほどの速度で別れを口にすることだ。

 大切なものを増やして、そうしてそれを失うことに恐怖しながら。

 

 ニットはゆっくり、ゆっくりと、全てのものにさよならを言う。

 大切なものたちに、感謝を込めて。