"近いんだから、頑張って帰りなよ”

ウィルキンソンの炭酸に溶けたウイスキーが私の胃袋の中でぶくぶくと呼吸をしている。

急行列車は駆け込み乗車を待たないし、恋は人をとても弱くしてしまう。

あなたは仕事の疲れを溜め息に溶かして、まるでそれがあたしに優しくしないで良い理由みたいに思ってる。

 

 酔ったふりするのも、楽じゃないのよ。

もっと楽な仕事に就けなかったことや、あんまり美人とは言えない見た目をしてること、頭だってそんなに良く無いこと。

自分にないものを指折り数えても悲しくなるだけだから、見ないようにしているけれど、やっぱりこういう夜は数えてしまう。

 

 あーあ、もっと美人だったらな。

鞄から文庫本を取り出して、読む。本の世界って大好き。だって主人公が才色兼備じゃなくてもいいし、不完全な人が多いもの。

現実世界みたいに取り繕ってなくて、みんな心の中の葛藤が文字になっているし。

 

 彼がくれた安物のアルパカのピンバッヂを失くした夜、あたしは久々に、本当に久々に、沢山泣いた。

彼があたしの好きな長い指で、あたしのアウターにつけたそのピンバッヂをもてあそぶ時の優しい微笑みが好きだった。

今朝アウターを換えた時に、あたしはピンバッヂを付け替えるのを少し面倒くさいと思ってしまっていた。

 

 あたし達はなんで、いつも当たり前の事を大事に出来ないの?

 

 絵がかけたらなぁ、って思う。

あたしが絵がもっと上手だったら、こんなに休みの少ない仕事に就いて、美人じゃないことを嘆かなくても済んだのかもしれない、って。

なにくそ、あたしには、絵があるわ!って言えたのかも。

でも、残念ながらあたしに絵はない。

 

 ボールペンで白い紙に線をひいていく。

キャンバスじゃなくて、単なるメモ用の紙に。

携帯電話越しに友達にくだらない話をしながら、とりとめもなくあたしは絵を描く。

誰にも見られない、何の価値もない絵を。

会話は宙に舞って、私達は終わるキッカケを探してるような、または続ける理由を探してるような声色で、ふーんとかへえとかそうなのとか言い合ってる。

 

 寒い季節は、なんだか寂しくなる。

でも人に会いたいってわけでも、何が欲しいってわけでもなくて、財布に一応お金だけ入れて、LED電球でカラフルに飾られた街をずっとぶらぶらしてみたりする。

ねえ、あたしは何が欲しいんだとおもう?

もしくは、なんで何も欲しくないんだとおもう?

 

 東京の街はなんでもあって、夜中まで電気がついてて、人がいっぱいで、そうしてこの国で一番寂しい。

渋谷駅前は混雑してるけど、あたしはもう今となっては手に入らないものを恋しがったりしていて、そんなのって老人みたいでなんだか恥ずかしいって思いながらやめることが出来ない。

 

 イルミネーションの間を、一人でヒールを地面に突き刺すように歩いていく。あたしの細い足首はぐらぐらと不安定に、それでも慣れた足取りで進行方向へ進む。

肩を寄せ合う恋人達も、本当は心の中におっきな寂しさの塊を抱えてて、その孤独な魂を寄せ合ってそれを愛って呼んでるんじゃないかしら。

 

 給与明細みたいに心細い気持ち。

あたしのこの不安も、国が源泉徴収してくれればよかったのに。税金ばっかりとって、酷い人達。

こんなイルミネーションも電気代のムダだわ。

青い電球を巻き付けた木を見て、みんな何が楽しいのかしら。

 

 でも、そうとわかっててもイルミネーションは凄く綺麗で、あたしの目にはアルパカのバッヂを失くした時と同じ位、涙が溢れていた。

君は疲れてるんだよ、少し休もうよ、ってあなたが微笑んで言ってくれたら良いのに。

エスパーみたいにあたしの心を読んで、こんなところにいたの、こんな電球見てないで早く家で一緒に毛布に包まって映画でも見ようよって、言ってくれたらいいのに。

 

 あたしは携帯電話をバッグから出して、別れよう、って打って、送れないで、消して、もう一回打って、もう一回消した。

あたしは彼と出逢う前はもっと勇気があった。

とても自立してたし、寂しさなんてへっちゃらだったのに。

急行列車は駆け込み乗車を待たないし、恋は人をとても弱くしてしまう。

 

 弱虫のあたしは携帯電話に二回消したメッセージの代わりに、会いたい、って打って、それを三回消したり打ち直したりして、最後は送信した。

 彼から、どこにいるの? ってラインがきて、渋谷、って返したら、今からいく、何か食べる?って返事が来た。

 

 それだけのことで、あたしは泣いてしまう。

平日の彼の嫌いなところを全て許してしまう。

来てくれても、どうせ彼はあたしの話なんて半分も聞かないし、自分の好きなものの話を夢中でするし、一人でお酒を飲んで顔を真っ赤にして帰るけど。

私は、リンゴみたいな彼の頬を冷たくなった指で撫でて、彼の輪郭を世界に描く。

 

 上手に描けない絵の代わりに彼の輪郭をなぞって、結末の用意されてる小説の中の代わりにうまくいかない現実を生きる。

今夜、頑張って帰りなよって言われたら、頑張れないわって言おう。あたし、あなたがいなくちゃ頑張れないわ。

急行列車も待ってくれないし、あたしは弱くなっちゃったから。

 

 白い息を吐きながらあたしを迎えに来たあなたに、ね、あのアルパカのバッヂ、もう一個買ってくれない?って言ってみた。

あなたが、不思議そうな顔で、あんなの安いよ、って言って、値段じゃないの、ってあたしは微笑む。

あたし、あたしで良かった。あたしじゃなかったら、あなたの肩にこうして寄りかかれないもの。

 

 夜が仕事や世間やどこかの国の紛争や孤独や、多くの悲しみからあたし達を守ってくれる。

今夜は双子座流星群が見えるかも、と言ったあなたの声が流れ星みたいにあたしの身体を通り抜けた。

あたしは流星群なんて見えなくて良いとおもう。

願い事、叶ってるから。

 

【流星群】了