潜在能力に働きかける対話
先日、トラウマと向き合う方法として大発見をしたと紹介しましたが、それに名前がつきました。
実際に一緒に取り組んだ若者二人に「あの方法が何なのかもう少し解明しよう」「名前を付けよう」と軽く声をかけたところ、ものすごい集中力で検討し始めたらしく、私がちょっと他の仕事をして戻ってくる2時間ほどの間に説明文、図解までしていました。
その名は「自己治癒力対話蘇生法」というもの。
若者たちがまとめた解説によると…
「自己治癒力対話蘇生法」とは
人間が生まれながらにして備えている自己治癒能力を対話によって回復させる方法のこと。
人間が本来、生まれながらにして持っているはずの自己治癒力は環境や社会、その人の特性によって阻害され、生きづらさが生まれる。
その生きづらさを対話によって、自己理解し、環境や社会自分の特性を自己認識する。
また、対話を繰り返し行うことで、自己を振り返り、過剰に備わった自己否定をほぐしていくことを目的とする。
その過程を「自己治癒力対話蘇生法」という。
だそうです。
これはかなりまとまっていると思います。
また、図解がとても分かりやすいのです。
どうやらデータ化してくれているようなので、まとまったら死にトリのサイトに掲載するなり、何かの形でもう少し公式に紹介したいと思います。
さっき、私として改めて考えたのは「蘇生法」というと、蘇生するための方法みたいだなぁと思ってちょっと引っ掛かりました。
私は対話をすることが目的であって、蘇生は結果なので、自分がもう少ししっくりくるのは「自己治癒力蘇生対話」の方かな?と。
おそらく、トラウマを抱えて自己が瀕死の重傷の若者にとっては、対話によって蘇生した感覚があるのだろうと思います。
私も関わっていて、確かに対話によって「蘇ってきた!」という感じはよくわかります。
メカニズムのポイントはそうした状況に陥っている若者たちは自己の中で自動的に「自己否定」をつくる実に見事な生産ラインが完成していて、生きていることで吸収するあらゆる刺激全てを材料にして、「自己否定」をどんどん作っていくということです。
放っておいたら、勝手に作ってしまうので、その装置を分解して、解体して、ラインをとめたり、材料を選べるようになるとか、その人にとってもっとも都合のよい方法で生産量を減らしたり、止めたり、作るものを変えたりするのです。
それを可能にするが「対話」なのです。
じゃあ、その場合の「対話」とは何かというと、これがまた説明が難しいのですよ。
もちろんカウンセリングでもないし、○○療法という感じではありません。
いろいろと調べてみるとナラティブアプローチにかなり近いような気がしますが、ちょっと(もしくは似ているけれど、ある意味ではかなり)異なるようにも思います。
今度もう少しナラティブアプローチを勉強してみなくちゃ。
最近、注目のオープンダイアログにも近いのか??
などなど、この取り組みの分析にはもう少し時間がかかりそうです。
自分なりのこだわりとしてはここでいう「対話」には単に対話すればよいのではなく、一定の条件が整った蘇生法として効果が発揮されるための質的な水準があると思っています。
平たく言ってしまうと「うまく対話をしなくてはならない」ということです。
どんな対話が「うまい」のか?
それを言葉にすることは今後の宿題ですね。
それから、自分でやってみて思うのは探索的に聴くということです。
何かを探りながら、私の予想ではその人が生きてきた道筋、川の流れに例えるのなら、山奥の水源から海に流れ込むその川がどのようにしてできて、そこを流れ、そのような形になって、ここの海に流れてきているのか、その必然性を解明していく感じです。
自分の中では「なるほど、そうやって流れて来たんだね」「なるほど、だから川の水はこんなに濁っているんだ」というイメージです。
当事者はその濁っている水を汚れたいイメージや否定的な評価でみることが多いですが、それは自然にある泥や意思や葉っぱやその他の物がぐちゃぐちゃに混ざっていたり、流れが急でいつも川底の泥が浮かんでいたり、流れが詰まって堆積物がたくさんになってしまっているだけで、それを本来の川の状態に戻す方法はあるはずだと伝えたい気持ちになります。
それから、従来の療法やアプローチと異なるだろうと思うもう一つの点は「社会的な視点」「市民意識」だと思います。
私はソーシャルワーカーであり、市民活動家です。
どんな組織に属しても、どんな肩書を持とうとも、スタンスとしてはソーシャルワークに取り組み、市民として社会参加をしています。
だから、個人が抱えている辛さや困難を個人的なものとして捉えるのではなく、社会課題が投影されているものとして捉えて、それがどう投影されているのか解明します。
課題を個人の物から解放して、社会の物として捉えなおすのです。
そして、そのプロセスは私自身の社会参加に他なりません。
つらさや困難を経験した当事者を通じて、ともに社会に参加しているのです。
そして、その社会参加は個人的なものにとどまらず、社会に還元していくものです。
そうしたスタンスが私のこだわりです。
説明するとそんな感じなのですが、そう説明されて「なるほど、わかった」と思える人はなかなかいないかと思ったりしています(苦笑)。
社会的な存在として、自ら社会参加をするという経験は今の時代に普通に生きていたら、そう簡単にはできないからです。
近年、社会においていろいろな意味で分断が進み、ソーシャルを感じたり、体得する機会が本当に喪失してしまっているからです。
そう考えると、若者たちと取り組んできた活動はずっとソーシャルな存在であることを感じるための機会を重ねているだけなのかもしれません。
したがって、死にトリのサイトも同じです。
参加することで個人の問題を社会の問題として捉えなおし、自分たちがソーシャルな存在であり、その自分たちがちょっと変わることや、連帯や協力をすることで社会が変わっていくのだと実感できる機会にしたいと思っています。
もう少し正確に言うと、そうした市民一人ひとりの社会参加がなければ、本当の意味で社会は変わらないと私は思っているのです。
自己治癒力を蘇生するのも、大切な社会参加のための第一歩なのです。
私は本当につらくて、死にたいと思っていたり、自分なんてどうでもいいと思っている人たちの話を聞くにつけ、その話の隅々にあふれる潜在能力のエネルギーを感じます。
もともと備わっている潜在能力が高く鋭いからこそ直面する理不尽さや不当さに対して全力で抵抗し、それが死にたい気持ちの源なんだろうと、分析しているところでした。
いつまでも自己治癒力対話蘇生法はたまた自己治癒力蘇生対話のネタは尽きませんが、続きはまた今度にします。
最後にこえサーチ第2弾、第3弾への協力を重ねてお願いします!(2弾は100件近くなりました!)
また、いよいよ明日にでも掲示板サイトの「とりコミュ」と全国の仲間からのコラムをリレーでつなぐ「いるネット」をアップできそうです。
死にトリは皆さんの社会参加で創造するコミュニティです。
たくさんの人たちの参加をお待ち&歓迎しています!