ビンの中の蚤の話
週末の天塩から帰ってきたと思ったら、昨日から3日間研修が始まり、時間が過ぎるのがそれはそれは早いです。
特に昨日は急きょの書類提出の仕事が飛び込んだり、夜には事務所で道庁の会議もあったりして、夜遅くに家に帰りつくと、頭がガンガンしました(苦笑)。
今日も昼間なかなか頭が働かない感じでしたが、中日を乗り切りました。
夜は長く理事をやっているのにもかかわらず、なかなか理事会に行けない札幌のNPOの理事会があり、久々に顔を出せる日程だったので、研修会場から直行。
久々の顔ぶれの理事会で疲れも忘れて、いろいろ盛り上がってしまいました。
さて、昨日の研修の講義の一つで福祉現場の実践報告をしてくれた若手の講師が「ビンに入れた蚤の話」をしていました。
どうやら、けっこう有名な話らしいのですが、今の私にはヒットしていろいろと考えるところがあったので紹介します。
あの小さな蚤は通常1メートルぐらい跳ぶらしいのですが、30センチぐらいのビンに入れてふたをすると、最初は普通にぴょんぴょん跳ぶんで、ビンのふたにぶつかるそうです。
何度かぶつかると、やがてぶつからないように30センチしか跳ばなくなるそうな。
そして、ビンのふたを開けても、本当は1メートル跳べるはずなのに30センチしか跳ばなくなるんだそうです。
でも、そこにビンに入れられていない普通の蚤を入れてやって、そいつが普通に1メートルぴょーんと跳ぶのを見ると、それまで30センチしか跳ばなくなっていた蚤はまた1メートル跳ぶようになるんだそうです。
鎖につながれた象の話もありますが、こうした現象は生物にとって自然な反応なのでしょう。
人間においても、学習された無気力、適応的選好形成など、生き物たちは自分たちを守るために制限された環境に慣れていってしまう。
社会適応という言葉は自立でしばしば必要な能力として肯定的に語られることがありますが、自由を手放すこと、自ら自分の限界を設定しまうこと可能性を阻むんでしまうことと表裏一体なのではないかと。
今の社会に自分という存在がマッチしない、どうもうまくいかないという時に、確かに「自分が悪いんだろう。自分が変わって社会に必要とされないといけない」と思うかもしれません。
でも、社会の側に課題があるとしたら、そうしてみんな適応していくと課題性が増していきます。
すると、社会に自分がマッチしていないと思っていた人が変わろうと努力をすればうするほど、社会の排除性が高まり、頑張っても追いつかずにやっぱりマッチしない。
それどころか、ますます苦しくなったり、むなしくなったりします。
ビンの中の蚤の話を聞いて、私たちが生きる社会にものすごく重なり、ビンの蓋を開けなくちゃと思いました。
さぁ、札幌は例年よりも早い根雪模様。
そうそう、昨日、凍り付いてカギが開かなかった自転車のカギを無事に開けることができて、家の駐輪場に持ってくることができました。
でも、今日の路面を見ると今シーズンはもう無理な感じがします。