アウシュヴィッツ子どもたち | 市民社会づくりの日々

アウシュヴィッツ子どもたち

詩の紹介の前段はこちら  http://ameblo.jp/n-salon/entry-12184820658.html


アウシュヴィッツ

子どもたち



背をのばして、120センチの棒をくぐってみよう。

くぐれただろうか?

もと棒に頭がぶつかっただろうか?

50年ほど前、棒の下を歩かされた子どもたちがいた。。

棒にぶつかった子は左へ行けといわれ、くぐりぬけた子は右へ行けといわれた。右へ行ったこどもたちは、もどってこなかった。

1940年。ヨーロッパの東、ドイツのとなりにポーランドがある。この国の南にオシフィエンチムという町とブジェジンカという村がある。この年、ここに建てられた施設を、ドイツ語でアウシュヴィッツ収容所と呼んだ。

1942年。アウシュヴィッツはふしぎな場所だった。ほとんど毎日、貨物列車がやって来た。10両も20両もつながってくることもあった。そして一日になん回もくることがあった。

列車はレンガづくりの大きな門を潜って行った。門の中はとても広くて、たくさんの建物が立っていた。近くに大きな工場も見えた。煙突もあった。煙突はいくつも煙りをはいていた。

風のない日、このあたりにふしぎな「粉」が降った。白っぽい、こまかな粉だった。雨が降ると、粉はどす黒いどろになった。ぬるぬるして、あぶらぎっていた。服につくと、なかなか取れなかった。

そしてあたりいちめんにふしぎな「におい」がただようこともあった。いままでだれもかいだことのない、ぞっとするような、いやなにおいだった。

 「あそこで、なにをしているんだ?」

 人々は、はじめ、ふしぎに思った。でも、建物に近づくことはできなかった。

 「貨物列車はなにを運んでいるんだ?」

 やはり、わからなかった。もうこの村には人は一人も住んでいなかったからだ。

 機関車には、大きなマークがついていた。「わし」と「ハーケンクロイツ」。それは、第三帝国ナチス・ドイツの紋章だった。この時、ポーランドはナチス・ドイツに「支配」されていた。

3年前のことだ。193991日の朝はやく、ドイツ軍はとつぜんポーランドを襲った。これが第二次世界大戦のはじまりだった。ポーランドの人びとはドイツとたたかった。でも、だめだった。ひと月もたたないうちにポーランドはこうさんした。そうするしかなかった。

ナチス・ドイツの軍隊は世界でいちばん強かった。もし、うさんしなければ、みんな殺されてしまうだろう。ナチス・ドイツはポーランドを「占領」し、そして、「支配」した。

強いものが、弱いものを「力づく」でしたがわせるのが「支配」だ。軍隊がよその国を支配することを「占領」という。でも、ポーランドがうさんしてもしなくてもほんとうは、同じだった。なぜなら、ナチス・ドイツは、はじめから、そこに住む人たちを、みんな殺してしまうつもりだったからだ。

このとき、ドイツは、アドルフ・ヒトラーがひきいる「ナチス党」に支配されていた。だからナチス・ドイツとよばれていた。

 ヒトラーは、人間には「優れた人間」と「劣っただめな人間」がいて、そのちがいは、生まれた国やはだの色で決められていると信じていた。だから世界中の人間を、国籍やはだの色で優秀な人間とだめな人間のふたつに分けた。

生まれたときから優れているのはドイツ人だけで、ポーランド人やロシア人、ジプシーとよばれていたシンティ・ロマらは劣っただめな人間で、さらにその下のさいていの人間が「ユダヤ人」なのだときめつけた。

そして、「劣った人間」をさらに二つに分けた。ナチスのために炭鉱や工場で「働ける者」と「働くことができない者」にだ。

ヒトラーは、こういった。

 「優秀な人間が、劣っただめな人間を殺すことは、優れた人間だけの社会をつくるためには、正しい行いなのだ」

 「ただし、だめな人間でも、ナチスのために働くならば生きていてもよい」

 「だめなうえに、働くこともできない者は役立たず

 「役にたたない人間は、生きていてはいけない」

 必要のないものはいらない。たとえ人間でも・・・。

 必要な者は奪え。殺してでも・・・。

ナチスは、ドイツを「「強くて優秀な国」にするために占領した国の人たち、そこに住むユダヤ人を一人のこらずつかまえて、そのなかの「働ける人間」は精神も体もぼろぼろになって倒れるまで働かせた。

そして、「働くことができない人間」のすべての財産を奪ってから殺した。働くことのできない人間とは、お年寄り、心と体に障害のある人、病気にかかっている人、妊娠している女性、身長120センチ以下の子ども、そして赤ちゃん。アウシュヴィッツは、それを行う場所だった。

貨物列車の中は、ぎゅうぎゅうづめにされた人間だった。たくさん並んでいた建物は、「働ける人」を囚人のようにとじこめる宿舎だった。大きな工場は死ぬまで働かせる場所だった。

煙突からでていた煙りは毒ガスで殺した人間を焼く煙りだった。そして、降っていたふしぎな「粉」は焼かれた人間の灰だった。

いま・・・。

アウシュヴィッツには、親を探す子どもたちの泣き声も、子を探してナチス親衛隊とどなりあう親の声もない。収容所のあとはそのまま残され、博物館になっている。ドイツは、ナチスのしたことを認めて、いまでもつぐないをつづけている。

でも、アウシュビッツは「ほんとうに」終わったのだろうか?

ヒトラーは死んだ。ナチス・ドイツも滅びた。でも、ヒトラーを尊敬する人はいまでもいる。かれらは「ネオ・ナチ」と呼ばれ、その数は増えつづけている。世の中がふけいきになり、人びとの暮らしが苦しくなると、かれらは、私たちの心のなかに入りこんでくる。

あの時のように・・・。

なぜだろう・・・。

いま、私たちの、心の中に、「優秀な人間」と「だめな人間」とを分けようとする考えがないだろうか?

みんなと同じことができない人を「だめなやつ」だときめてしまうことはないだろうか?

みんなと違う意見をいう人を「じゃまなやつ」だといって、仲間はずれにすることはないだろうか?

強い者にきらわれたくないので、いけないことが分かっているのに、やってしまうことはないだろうか?

自分さえ、とくすれば、「ほかの人なんか、どうでもいい」と思うことはないだろうか?

あの時のように・・・。

アウシュビッツは、狂った人びとが、まちがえてつくったものではなかった。ドイツ人がどうかしていたのでもなかった。

ただ、自分が困った時に、もっと困っている人びとを思いやれなかった。自分さえとくすれば、ほかの人が少しくらい困っても、少しくらい死んでもしかたがないと思っていた。

自分が優秀で正しいと思うあまり、自分とはちがう人びとを認めることができなかった。そして、自分は、「ほんとうは」何をしているのか、わからなくなっていた。 

もしかしたら、アウシュヴィッツで罪をおかした人たちは、みんなどこにでもいる、ふつうの人たちだったのではないだろうか?私たちと同じような・・・。

アウシュヴィッツはほんとうに終わったのだろうか?

ガス室は、ほんとうに消えたのだろうか?

120センチの棒だろうか?

私たちの心の中に、アウシュヴィッツは、ほんとうにないのだろうか?

(青木進々著 アウシュヴもうないィッツ・子どもたち 99.1発行)