面倒や負担を引き受ける | 市民社会づくりの日々

面倒や負担を引き受ける

二日間の大きな研修が何とか無事に終了しました。


さすがに、余力がなく、ブログはパスしました。


今年度はピンチヒッター事務局の仕事を引き受けているわけですが、まずは第1の山場である相談支援従事者研修の基礎研修前期講義の二日間でした。


受講者が400名という規模もあるのですが、メイン会場から5か所同時でインターネットの生中継をするという全く新しい試みがあったこともあります。


組織としてはこれまでも実施してきた仕事ですが、私は研修の一部を手伝ったことはあるものの、全体の運営は初めてです。


初めてのことは、準備をしている段階でも順調なのかどうなのかという判断基準もなく、ぎりぎりまで「今、こんなことやってるなよ?!」と自分で突っ込みを入れたくなるような進み具合でした。


ただ、いろいろな人たちの協力もあり、おおむね無事に終えることができました。


インターネット配信については、FFPの若者たちが手伝ってくれ、講師の方たちがパワーポイントを流すのに合わせながら、配信用のパソコン画面を操作し、多少のカメラワークや会場運営などの全般も手伝ってくれ、大活躍でした。


このインターネット配信が私にとってもかなりのドキドキでした。


何せ、生中継ですから、通信トラブルがあれば運営が止まります。


事前に何度か中継先とテストをしたのですが、うまくいかないこともたびたびあり、丸二日間は大丈夫か?!ということもありましたが、一部、不具合が短時間起こることはあったものの、運営に影響がでるほどのこともなく、進めることができました。


それにしても、デジタルな世界があまり得意とは言えない自分がインターネットの配信で研修をするとは少し客観的に振り返ると、不思議です。


そのちょっと不思議とも思えることを力を入れてやった背景にあるのは「地方の負担を減らしたい」ということでした。


自分自身がずっと釧路という北海道の東の端の方にいて仕事をしていたとき、研修や会議というといつも札幌が当たり前でした。


今回のような2日間、3日間という研修が札幌であり、その間は現場や家を離れ、泊りがけで研修に行かなくてはなりません。


地方の方が人手も厳しいし、事業をやる上でもハンディキャップがある中で、研修に行くのに泊りがけで職場を抜けていかなくてはならないなんてなんと不公平なんだ!と思っていました。


しかも、私の場合には長女の介護もあるので、子育て中の人や家で介護を抱えている人などは、日帰りの参加ならできても、泊りがけで参加となると負担が大きくなります。


それが、いつも地方の人の方が負担を強いられ、札幌にいる人はお金も時間もかけずに参加できることは同じ北海道という条件なのにおかしいと思っていました。


そんな思いがあり、この仕事を引き受けた際には「地方の人の負担を減らす」ことは自分の中では大きな目標で、今回の慣れないくせにインターネット配信するという方法へつながっています。


今回の研修は昨日、今日と行った前期の講義のあとに後期の演習3日間というのがあり、こちらは札幌で3回のほか、釧路、旭川で行うのですが、その調整の際にも地方の不平等を実感しました。


400名の受講生が5回の後期日程に分散するのですが、申し込みの際に希望をとって調整します。


今回の地方開催は釧路という離れたところであることもあり、釧路の希望者が定員よりも少なく、結局、希望が札幌に集中しました。


そこで、いろいろな基準をもって札幌を希望した人でも釧路の会場に振り分けざるを得ない人たちがいたのですが、その結果の反応の多くが「釧路まで研修を受けに行くなんて、信じられない」というもの。


もともと札幌の人たちにとってはその反応は当然ですが、ちょっと考えてもらいたいのは、「地方の人たちはいつもそれが当たり前なのですよ」ということです。


反対だったら、「信じられない」ということを地方の人たちは当たり前に負担を強いられているということを逆の人は想像することはできないのです。


こうやって、多数派(マジョリティ)の意見や感覚が当たり前になり、マイノリティは想像の外になり、悪気なく排除されていくんだろうなぁと実感したのです。


受講生の中には「たまには家や職場から離れて研修で札幌に行くのも楽しみだよ」と思っている人もいるとは思いますが、余裕のない職場や家で子育てや介護がある場合にはそれをフォローしてくれる人や体制がない弱い立場の人ほど、参加しにくくなることは配慮しないといけないと思うのです。


立場の弱いものにできるだけ配慮する、負担を減らそうと思うと、運営する側にはコストや負担はかかります。


今回も実際には、会場を複数確保し、インターネットの配信のために札幌のメイン会場もかなりお金をかけましたし、機材などの環境も準備をして、さらには人手をかけて、神経もかなり使いました。


運営する側にはほぼメリットはありません。


ちょうど、今回の研修の最初の講義で「社会モデル」についての話で講師の先生が話していたことを思い出しました。


社会モデルで考えたときに障がい者が生きづらいのは障がい者自身の問題ではなく、社会に原因があるのだということで、障がいがあってもそれがハンディにならないような環境づくりをしましょうということが基本的な概念になります。


しかし、そう考えたときに私たちが抱く当たり前の感情、感覚として「それって、ちょっと面倒だよね。負担だよね」ってものがあるだろうと。


その「面倒だな、負担だな」という気持ちや実際の負担を引き受けることが社会モデルの前提になるんだという話があり、なるほどと思いました。


地方へ配慮するということのまさにそういうことです。


つまり、多数派ではない人たち、特に社会的に弱い立場の人たちに配慮するということは多数派が何かしらの負担を引き受けることを意味します。


実際にある種の負担は必須なのです。


ある種の負担というのは、おそらくお金だったり、手間だったり、時間だったり、つまりは物理的なコストという意味です。


社会保障とか福祉とか、社会制度というのはそういう人の支えあいを仕組みとして公的に備えて、作られています。


おそらく、日本社会も社会保障などを備えて、立場の弱いものを放置したり、見殺しにしないような制度を持っている国です。


一方ではそうした仕組みを人々がどう思うか、認識するかはまた別の問題なのだろうと思います。


一部の人たちのために、自分が享受できるはずのメリットを譲るとか、ちょっと我慢をするとかそうしたことへの意味や主体性が薄れてしまったときには社会の仕組み(ハードどいってもいいですね)を運営する人間の心のありよう(つまりソフトといってもいいかもしれません)がついていかないということが起こります。


今の社会はおそらく、そのあたりの難しさがあるのではないかと感じています。


どんな人たちも、特に放置されると不利益が生じてしまうような状況をいかに想像し、自分のことや身近なことに置き換えて考えて、ちょっとずつ負担しあえるかがとても重要だと思います。


公的なお金が潤沢にあったり、全体に余力があるような状況から少しずつ人々の生活が厳しい中ではなおさら、心のありようが厳しくなります。


格差社会と呼ばれるような状況になると厳しい人同士でシビアな排除が始まることもありますし、格差によって離れた人たちはお互いを想像するのが難しくなることもあります。


障がい者の問題はいわゆる社会的弱者の問題だけではなく、さまざまな不平等や不公平を社会的に考えていくことの一部であり、それは地方にいる人たちが都会の人が負わなくてもいい負担を負って参加していることとつながっていると私は思っています。


また、それは女性だけが妊娠、出産を引き受けることへのハンディとも重なります。


女性だけに負担がある以上、その負担を当たり前ととらえるのではなく、その負担を補い、埋め合わせをするだけの配慮がないのはおかしいのですが、実際には負担を強いられるうえに、それゆえに起こる更なる差別や不利益が生じることもあります。


まさに、私たちの今の社会は「ちょっと面倒なこと」「ちょっと負担なこと」をどうやって想像し、理解し、分け合えるのかという問題を突きつけられているのだと思います。


今回の研修でほかにもいろいろなことを感じたり、気づいたりしましたが、振り返ってみるとこのあたりが一番考えさせられたことでした。


さて、まだまだいろいろと書きたいこともありますが、疲労感とともに実際の寝不足もあり、このあたりでやめておきます。


この二日間、運営に協力していただいた人たちに心からお礼を伝えたいと思います。


ありがとうございました。お疲れ様でした。