異文化はすごい | 市民社会づくりの日々

異文化はすごい

3年前から毎年やっている「まじくるフェスタ」はその前に全国へまじくるの旅に出かけていくなかで生み出されたものでした。


その旅は2009年、2010年と2年間にわたり取り組んだ「コミュニティハウス普遍化事業」というもので地域課題に取り組む仲間を探しに、全国のいろいろな分野の活動をしている人たちのところへ訪問したことがきっかけでした。


その旅と同時に2007年にオープンした「コミュニティハウス冬月荘」の秘密を探り出し、何が大切だったのか?を関わった人たちと話しをすることで振り返り、まとめた経過がありました。


その結果、いくつかのキーワードが確認されました。


それは、当事者性、異文化の融合、理解と共感、そして楽しくという4つでした。


翌年にはそれに、属性を超えたつながりと言うワードが加わって5つになりましたが、この5つはやっぱりどこまでいっても、いつまでたっても共通だよなぁといつも思っているのです。


そんな中で、先日の研究会でもキーワードとして改めて出て、私としては気になっていたのが「文化」という言葉でした。


文化と言うと、どうも私としては「文化祭」「文化芸術」とかそういったイメージがあり、絵画とか彫刻とか音楽とかそんなものを連想して、「どうも、私の専門分野とは離れた感じだよなぁ」と思ってしまい、どこかしっくりこない感じがあったのです。


でも、「異文化の融合」というキーワードを考えると、もう少し生活に根差したもののような気がしていました。


そんなもやもやっとした感じがある中で、最近読んでいた本にとてもすっきりすることが書いてあったので、紹介します。


無類の読書しない派な私が最近、ちょっと本が読みたくなっていくつか読んでいるのですが、最近のプチブームは北朝鮮の拉致被害者であり10年前に帰国を果たした蓮池薫さんです。


映画で知って、原作を読んだ「トガニ」の訳者が蓮池さんで、その訳者のコメントがとても印象的だったし、翻訳のタッチや表現もフィーリングが合っていたので、興味を持ちました。


その蓮池さんが書いたエッセイというのか韓国への訪問記「半島へふたたび」を隙間の時間に少しずつ、読んでいたのですが、最後の方で登場したのが「異文化コミュニケーション」という内容でした。


帰国して、いったんは郷里の柏崎市の市役所職員になったものの、いろいろな経過で翻訳家と大学教員という立場に転職した蓮池さんですが、ご自身の仕事を「異文化コミュニケーション」であるとおっしゃっています。


そのくだりで、「異文化コミュニケーションとは何か?」ということと学者の定義を引用して紹介していますが、そこがとても分かりやすく、私としても上記のもやもやが晴れました。


今日はそれを紹介したいと思います。


―文化とは「暮らしの仕方」をいう。


その暮らしとは、「こころ(暮らしのなかで育まれた感覚、感情、価値観)」と「言葉(言語)」と「仕事(それぞれの暮らしを成り立たせるための活動)」の三つに分けられる。


これらの文化は世界各国、地域によって違う。


つまりそれぞれが異文化を持っている。


一方コミュニケーションとはお互いに考えていることや感じていることを伝えあうこと。


この二つの概念を合わせた「異文化コミュニケーション」は、異なる文化を持った人たちが、心と言語をやり取りし、ともに活動する良好な関係を作っていくことをいう。―



もちろん、蓮池さんは朝鮮と日本の異文化のコミュニケーションということで、こう表現しているわけですが、私はこのことは国や地域ではなく一人ひとりに言えると思っています。


同じ日本であっても、同じ時代にいても、暮らしぶりが違えば当然「こころ」「言葉」「仕事」が異なるのです。


内容や文脈、そしてイメージなど一人ひとりが異なります。


その違うと言うことを前提に心と言語のやり取りをして、ともに活動する良好な関係を作っていくのはまさに私が「たまり場論」で言っている「対話と協働」そのものです。


ところが実際に難しいのは、同じ日本人で同じ時代に生きていると言うことで、異文化ではなく「当然同じだろう」「同じであるべき」と思われてしまうことだと思います。


なぜならば多くの人たちが同じと思っていることはつまりマジョリティ思想であり、マジョリティ思想の集団作用や暗黙のパワーがが排除の構造の核心であるからです。


日本社会は島国で単一民族と言われ(実際には違いますが)、多くの人たちがある一定程度の価値観や考え方や生き方にたいする構えや価値の均一性のようなものがあり、みんなと同じであることに安心感を覚え、右ならえをしている方が楽であるし、トラブルも起きないという状況にあります。


あからさまに特定の少数派の人たちが特定の多数派の人たちによって差別されていたり、対立していたりするのではなく、漠然としたマジョリティに対する妄信やマジョリティから外れる不安という目に見えないものに支配されています。


その目に見えない支配が実際の場面に即してバッシングや批判や差別的な対応やいじめの対象になります。


ある時は障がい者だったり、ある時は生活保護者だったり、ある時は外国人だったり、ある時は空気の読めない人だったり、ある時はお金持ちだったり、ある時は公務員だったり、理由も根拠も自分たちにあまりなくても、何となくの空気が誰かを排除しようと作用してしまいます。


そこがとても怖いし、厄介だと思っているのです。


私は今のそうした誰もが容易に排除する側にもされる側にもなりうる社会は非常に脆く、危険であり、今後にいろいろな問題が起こり、次世代に申し訳ないと思うので、何とかに一人ひとりが感じ、考え、地に足がついた社会にしたいとじたばたしながら、いろいろな活動や仕事をしているわけですが、その時の敵(標的)がまるで虚像であることを示しています。


撲滅する相手や倒すべき標的がはっきりしていて、実体ならば、その弱点を見つけたり、相手に応じて作戦も立てられますが、相手はどう考えても亡霊、虚像、妄信といった類の実態のないものなのですから、対策が立てられません。


おそらく、亡霊、虚像、妄信などの実体のないものだとすれば、その原因は私たち自身の中にあるのです。


倒すのは自分たちの一人ひとりの中にある何かなのです。


だから、私は誰かを批判したり、誰かのせいにしたり、誰かを責めることはしません。


おそらく、敵は自分自身の中にしかいないからです。


でも、自分の中に敵がいるからと言って、自分自身を攻撃するわけにもいきません。


それでは自分を守れなくなります。


他者も責めずに、自分も責めずに、みんなでどうしたらいいのか考えていきたい…そう思っています。


もっとも、自分の中にいるのは駆逐すべき敵ではないと思います。


自分自身の一部として当たり前に備わっている、あるいは培ってきたかけがえのないものであり、それを認めてうまく付き合っていくしかないのです。


それはまさに自分の文化と他者の文化のコミュニケーションによって、新しいものを生み出していくプロセス以外にはないと思います。


虚像は誰かに頼っても何とかしてくれません。


特定の人たちだけの力でもどうすることもできません。


一人ひとりが自分の文化を大切にし、大切にされ、そして他者の文化も大切にする、つまりはお互いの文化を尊重し合うかかわりの中でしか何ともできないと思っています。


そうした意味で、いろいろな人たちが自分の文化を構築できる機会、他者の文化と触れあう機会が非常に重要だと思っています。


そう言う意味で、私は英会話なんか推奨するより、まずは身近な他者と異文化コミュニケーションすることを奨励したいです。


それが、まさに最近ハマっているフィードバック研究会なのだと今気付きました。


英会話よりもフィードバック研究会…


自分の言いたいことにちょっと気付いた感じ。


蓮池さんのおかげです。


さて、明日は引き続き東京で仕事です。