◆◆◆くじょう みやび日録 第二期◆◆◆


*過去の別ブログの記事からご紹介*

 

斎宮女御・徽子女王が承香殿に局を賜った女御であることは述べました。今回は、ずっと後の時代に「承香殿女御」であった人物のおはなし。

 

 

100年後、同じ道をたどった承香殿女御

 

藤原道子白河天皇の女御です。道長の孫にあたる藤原能長(能信養子・実父は頼宗)の娘で、東宮(貞仁親王)時代からのきさきです。

貞仁よりも11歳も年上でした。最初のきさきでしたが、後から入内した藤原賢子が寵愛を一身に集めて中宮となりました。

結局道子が生んだのは娘ひとりだけで、その娘・善子内親王が斎宮に選ばれた際にそれに従って伊勢へ下ります

 

道子自身はもちろん藤原氏ですから斎宮ではありません

ただ面白いことに、100年以上前の承香殿女御である徽子女王と同じ道をたどることになったのです。


あとの時代のことですから、道子の頭の中には徽子女王や源氏物語の六条御息所のことはあったかもしれませんね。

 

 

 

わたしが道子を知ったのは、瀬戸内晴美『祇園女御』。

 

「自分の立場のわかる聡明さを持っていることと、自分を卑しめることが許せない自尊心のあることが、道子をいっそう不幸な道へ追いやるようであった。」

 

内攻された情念を秘め、美しく冷徹な面の人物描写で、非常に印象的でした(そして自分の好みの女性人物像であった……)。

 

 

 

 

 




なお、美しい料紙で知られる装飾写本・国宝「西本願寺三十六人家集」は、天永3年(1112)の白河法皇六十賀に献上されたという説が有力で、二十人の書き手のうちの一人が、この道子と推定されています。

 

ちなみに道子の筆は「躬恒集」の箇所と考えられています。(下図)

 

これが「斎宮女御集」だったら出来過ぎでした……