早速、NHKラジオ講座「漢詩をよむ」第1回、拝聴しました。


まずは初回ということで、今後半年間の概略についてのお話でした。飛鳥時代から平安時代の終わりまでを、時代順に追っていきます。


奈良時代までの作品は、『懐風藻』に収められていますが、それほど数が多いわけではありません。


漢詩が特に盛んになったのは、平安時代に入ってからです。その最初の重要人物として、嵯峨天皇が挙げられます。嵯峨天皇の時代に、初めて勅撰集(漢詩集『凌雲集』)が編まれます。勅撰集といえば『古今和歌集』(醍醐天皇勅撰)が最初期のものとして有名ですが、実は和歌よりも漢詩が時代的には先でした。


さらに時代が進み、日本漢詩史上特に重視されるべき詩人の登場――菅原道真です。道真については、前時代である仁明朝(白居易周辺の文学が流入した時代)から始めて周辺人物等の詩も取り上げる予定です。


有名な藤原道長の時代である一条朝も、かな文学の隆盛ばかりが目立ちますが、実は漢詩の盛んな時代でもありました。一条天皇はじめ道長らの詩も扱っていきます。


ここで面白い話がちらりと紹介されました。藤原公任のいわゆる“三船の才”です。


道長が、大井川の遊びの際、


 作文船、管弦船、和歌船とわかたせたまひて、その道にたえなる人々をのせさせ給ひしに


公任は和歌の船を選び、見事な歌を詠んだ。

ところが、自ら言うには


 作文のにぞのるべかりける。さてかはかりの詩をつくりたらましかば、なのあるらむこともまさりなまし。くちおしかりけるわざかな


作文(さくもん)とは漢詩のこと。

道長が公任に「どの船にする?」ってわざわざ尋ねていて、どこでも対応OKな公任の多才が認められている(三船の才・誉れ)という逸話なのだけれど、ここで注目すべきは、「(同じ出来でも)作文ならもっと名をあげられのに」と公任が悔しがっていること。つまり、かな文学全盛の当時においても、和歌よりも漢詩のほうが文学的評価は高かった、ということが伺えるのです。


   ※原文の出典は『大鏡』頼忠列伝より(『国文学研究資料データベース 歴史物語 CD-ROM』岩波書店)


その後の時代では、藤原忠通を中心に見ていきます。忠通は、平安時代の掉尾を飾る詩人と言えます。




★★漢詩 ミニ基礎知識①★★


現代中国語の詩…………………新詩
文言(文語文、漢文)の詩……旧詩
   ※この旧詩がいわゆる「漢詩」


漢詩の種類
 おおまかにいって、六世紀(六朝時代)以前の詩を古体詩(古詩)、七世紀(唐)以後に平仄の法則に従ってつくられるようになった詩を近体詩という。


 近体詩

 (1)一編の句数……四句=絶句(ぜっく)
             八句=律詩(りっし)
             十句以上の偶数(普通は十二句)=排律(はいりつ)
 (2)一句の字数……五文字=五言(ごごん)
             七文字=七言(しちごん)

⇒五言絶句、五言律詩、五言排律、七言絶句、七言律詩、七言排律


平仄や押韻などについて細かいきまりがある。


 古体詩
四言古詩、五言古詩、七言古詩など。
唐時代以後にもつくられた。


 ※参考文献

  一海和義『岩波ジュニア新書 漢詩入門』岩波書店 1998

  『チャート式シリーズ 基礎からの漢文』数研出版 1989