板橋区役所前~中板橋散歩 1月13日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第181回 板橋区役所前~中板橋散歩」の初回の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は板橋区役所前駅から。

 

 

まずは、マルジュー 仲宿店に行き、おやつやお土産用のパンを購入して、遍照寺へ。

 

 

遍照寺は、板橋区仲宿にある不動明王を本尊として祀る真言宗智山派の寺院。

創建年代は不明ですが、江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院でした。

そして、明治14年(1881)に旭不動堂と称して成田山新栄講の道場に、昭和22年(1947)に真言宗寺院となり、現在は成田山新勝寺の末寺となっています。

また、寺は板橋宿内に所在し、境内は宿場時代の馬つなぎ場として活用されました。

そのことは寛政10年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型に名残をとどめており、加えて所蔵している絵馬50点も馬の絵柄のものが最も多く、遍照寺と馬のゆかりの深さを物語っています。

 

遍照寺の次は、いたばし観光センターへ。

 

 

いたばし観光センターは、板橋区板橋3丁目にある施設。

区内の名所、旧跡など板橋の魅力をPRする観光パンフレットの配布や観光グッズの販売、パネル展示などを行っています。

また、いたばし観光ボランティア「もてなしたい」による、無料の区内観光ガイドも行っています。

(この日は、センター内の展示を見ながら、ボランティアガイドさんに板橋宿の歴史や特徴について詳しく解説をしていただきました)

 

いたばし観光センターの次は、とちぎやへ。

 

 

マルジュー 仲宿店に続いて、こちらでもおやつ用のパンダやきや、たいやきを購入。

 

購入後、植村冒険館へ。

 

 

植村冒険館は、板橋区加賀1丁目に所在する、令和3年(2021)12月に植村記念加賀スポーツセンター内に移転し、リニューアルオープンした冒険家·植村直己を紹介する施設。

「今もここにいる植村直己」を展示のコンセプトとして、どのような状況におかれても目標に向かって努力する彼の冒険精神「ウエムラ・スピリット」を永く後世に伝えるため、植村記念財団が平成4年(1992)、区によって設立。

平成24年(2012)に公益財団法人に移行されました。

財団では、植村氏の活動を伝える写真や家族から譲り受けた装備等を展示するとともに、冒険に関する図書の閲覧や貸し出し、自然を体験する事業等を行っています。

 

 

植村冒険館を見学し終わったところで記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

植村冒険館の次は、東板橋公園へ。

 

 

公園に着いたところで、おやつタイム。

 

おやつを食べた後は、板橋こども動物園へ。

 

 

板橋こども動物園は、板橋区板橋3丁目、東板橋公園内にある動物園。

昭和50年(1975)に開園し、施設の老朽化に伴う改修工事のため、平成30年(2018)年7月から長期休園。

令和2年(2020)12月に草屋根や壁面緑化による環境負荷軽減への取り組み、キッズルームやおむつ交換スペースなどの施設機能を充実させ、リニューアルオープンしました。

園内では、ヤギの橋渡り、リスのトンネルなど動物の習性を活かした行動観察ができる他、モルモット抱っこ、ポニー引馬体験、ヤギ・羊の餌やりといったふれあい体験もできます。

 

板橋こども動物園の次は、板橋宿本陣跡へ。

 

 

板橋宿本陣跡は、板橋区仲宿にある板橋宿本陣·飯田新左衛門家の屋敷跡。

本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より2里半(約10㎞)の近距離にある板橋宿では、主に休憩所として利用されました。

また、その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場としても機能。

板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたようで、宝永元年(1704)、当家は飯田本家より別家していますが、その際、世襲名「新左衛門」と本陣・問屋役を引き継いでいます。

また併せて、広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。

なお、当家3代目·新左衛門珎儀の遺言状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の「御本陣家」に指定されたことが窺えます。

 

板橋宿本陣跡の次は、菓匠 新月堂へ。

 

 

こちらで、中山道板橋宿にちなんだ和菓子をお土産に購入。

 

お土産購入後、急にみぞれが降り出し、逃げ込むように文殊院へ行って、しばし雨宿り。

 

 

文殊院は、板橋区仲宿にある、文殊菩薩を本尊とし、幡場山大聖寺文殊院と号する真言宗豊山派の寺院。

江戸時代初期、板橋宿本陣飯田家の菩提寺として信仰を集めていた延命地蔵尊の境内を拡張して建立。

山門脇に延命地蔵堂、境内に板橋二大閻魔の一体を祀る閻魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現があります。

また、板橋七福神の毘沙門天も奉安されている他、墓地には飯田静の碑や史跡として有名な宿場時代の遊女の墓があります。

 

雨脚が弱まったところで文殊院を出て、板橋中宿脇本陣跡へ。

 

 

板橋中宿脇本陣跡は、板橋区仲宿にある板橋中宿の名主を務めた飯田家の屋敷跡。

当家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通じて「宇兵衛」の世襲名で名主・問屋・脇本陣を務めました。

そして、名主家と本陣家の両飯田家は、お互いに養子縁組を行うなど、その機能を補完し合いながら、中山道板橋宿の維持・運営にあたってきました。

そのような中で、文久元年(1861)、14代将軍·徳川家茂へ降嫁する皇女和宮が下向の際、宇兵衛家が本陣役となっています。

また、その後も、慶応4年(1868)、岩倉具定率いる東山道軍の本営となったり、明治元年(1868)に明治天皇が氷川神社(大宮)に行幸したときは、宇兵衛家が休憩所として本陣を務めました。

 

板橋中宿脇本陣跡の次は、氷川町氷川神社へ。

 

 

氷川町氷川神社は、板橋区氷川町に鎮座する、素戔男尊と稲田姫命を御祭神として祀る神社。

創建は、元久3年(1206)頃、このあたりの領主·豊嶋左衛門尉経泰が、氷川神社(大宮)から御分霊を石神井川沿いの景勝地である当地に勧請したことに始まるといい、江戸時代は板橋宿の鎮守として広く信仰を集めました。

また境内には、板橋区登録記念物(史跡)である「氷川町氷川神社富士塚」があり、この富士塚を造成したのは、平尾宿に住んでいた永田長四郎を講祖とする永田講中で、塚の頂部にある石祠の建立年代から、19世紀半ばに築造されたものと考えられます。

この富士塚は、後の中山道(現在の国道17号線)の拡幅工事に伴い一部が削られていますが、板橋の富士山登拝講の歴史や民間信仰を知るうえで、貴重な史跡となっています。

 

氷川町氷川神社の次は、氷川つり堀公園へ。

 

 

氷川つり堀公園は、板橋区大和町にある区立公園。

石神井川の旧河道を利用して造られた釣り堀公園で、無料で釣り体験ができます。

魚種は和金・タナゴ・クチボソ・ウグイ・フナ。園内は散策もできるように整備されており、散歩も楽しめます。

(閉園時間の16時に間に合わず、園内散策は諦めました)

 

氷川つり堀公園の次は、板橋へ。

 

 

板橋は、板橋区にある石神井川に架かる橋。

板橋という地名は、この橋に由来するといわれており、板橋の名称は、既に鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場名となり、明治22年(1889)に市制町村制が施行されると町名になりました。

そして、昭和7年(1932)に東京市が拡大して板橋区が誕生したときも板橋の名称が採用されました。

なお、江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(約16.2m)、幅3間(約5.4m)あり、幾度か修復が行われました。

近代に入ると、大正9年(1920)に新しい橋に架け替えられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年(1932)にコンクリート橋に架け替えられました。

現在の橋は、昭和47年(1972)、石神井川の改修工事の際に、新しく架け替えられたものです。

 

板橋を渡り、続いて縁切榎へ。

 

 

縁切榎は、板橋区本町にある、区登録文化財に指定されている御神木。

江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本·近藤登之助の抱屋敷がありました。

その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうち榎がいつの頃からか「縁切榎」と呼ばれるようになり、嫁入りの際、縁が短くなることを恐れ、その下を通らなかったといいます。

特に文久元年(1861)に皇女和宮が14代将軍·徳川家茂に嫁ぐ際、「縁起が悪い」としてこの場所を迂回したという逸話が残っているほどです。

ところが、庶民の間では、男女の悪縁を切ることや断酒などの願いに霊験あらたかであると崇められるようになり、さらに、近代以降は「悪縁は切ってくれるが、良縁は結んでくれる」ものとして信仰が広がり、現在3代目の縁切榎は、板橋宿有数の名所として多くの人が参拝に訪れています。

 

縁切榎の次は、智清寺へ。

 

 

智清寺は、板橋区大和町にある、龍光山恵照院と称し、阿弥陀如来を本尊として祀る浄土宗の寺院。

創建は室町時代初期、見誉上人智清によって創建されたといい、天正19年(1591)、徳川家康より寺領5石を寄進された朱印寺です。

境内には、板橋上宿の名主·板橋市左衛門家歴代の墓碑や、明治初年の前田家下屋敷払い下げに活躍した小松了従の墓碑、そして、明治の歌人·相沢朮の墓碑などがあります。

また、山門前にある正徳4年(1714)の石橋(区登録文化財)は、江戸から大正時代に使用された中用水に架けられたもの。

中用水は、農業用水として石神井川の水を分水したもので、明治5年(1872)に板橋町と下流の上十条村以下七ヶ村との間で配水を巡って争いが起き、板橋の農民が当寺に立てこもるという事件がありました。

他にも「木下藤吉郎出世稲荷大明神」を祀る祠があり、これは高松半平が大坂城落城時にひそかに持ち出したという豊臣秀吉が崇拝していた十一面観音像を授かり、境内に稲荷社として祀ったのが起源といわれています。

 

こちら閉門時間を過ぎていたため、残念ながら参拝はできず。

門前で概要を解説した後、日曜寺へ。

 

 

日曜寺は、板橋区大和町にある、光明山愛染院日曜寺と号し、愛染明王を本尊として祀る真言宗霊雲寺派の寺院。

『新編武蔵風土記稿』によると開山は宥慶比丘で、正徳年間(1711~1716)に小堂を営んだのが始まりといい、その後、8代将軍·徳川吉宗の次男·徳川宗武(田安家初代当主)から、等身大の愛染明王像などの仏像や仏画、曼荼羅、什器類などの奉納を受けたことで、祈願寺として整備。

令和3年度に区登録文化財になった『日曜寺田安家奉納仏画』は宗武とその一族が奉納した仏画で、愛染曼荼羅、両界曼荼羅、弘法大師彫像が現存しています。

このような田安家からの奉納を機に、日曜寺では『開運愛染明王略縁起』が作られ、寛政11年(1799)に中山道と参道との分岐点に道標が建てられると、参詣者で賑わうようになりました。

また、山門に架かる扁額は、松平定信が父·宗武の生誕100年に合わせて奉納したもので、ケヤキの一枚板に定信揮毫の「日曜寺」が草書体で書かれ、周縁が彫り込まれて朱が塗られています。

さらに境内には、江戸幕府の連歌師·阪昌周歯髪埋納の碑や日曜寺に帰依する染色組合奉納の手水鉢・石造物等の文化財があります。

 

日曜寺の次は、双葉町氷川神社へ。

 

 

双葉町氷川神社は、板橋区双葉町に鎮座する、素盞鳴命を主祭神とし、相殿に蒼稲魂命を祀る神社。

創建年代は不明ですが、社伝によると応永年間(1394~1428)に大宮の氷川神社から勧請されたと伝えられ、かつては「松山氷川大明神」と称し、旧根村、板橋宿上宿の産土神として崇敬されました。

また、相殿として祀られている蒼稲魂命は、もと下板橋宿稲荷台の新堀山に鎮座していた新堀稲荷社で、板橋城廃城後、太田道灌の家臣·新堀氏がこの地で奉斎したもの。

下って、明治40年(1907)、合祀令によって氷川神社に合祀されました。

 

こんなふうにあちこち巡って、中板橋駅でお散歩は終了。

 

 

その後、有志のメンバーさんと鳥貴族 中板橋店で懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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