小江戸 川越散歩 12月9日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「年末企画 小江戸 川越散歩」の初回の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は本川越駅から。

 

まずは、中院へ。

 

 

中院は、天長7年(830)、慈覚大師円仁によって創立された天台宗の寺院。

星野山無量寿寺の中にあった三院(北院・中院・南院)の一つです。

当初の中院は現在の仙波東照宮の地にありましたが、寛永10年(1633)、東照宮建築の際に現在地に移りました。

中院は島崎藤村の義母、加藤みきの墓があることでも知られており、また、狭山茶発祥の地でもあります。

 

中院の次は、仙波東照宮へ。

 

 

仙波東照宮は、元和2年(1616)、駿府で徳川家康が没し、その遺骸を久能山(駿府)から日光へ移葬する途中、天海僧正によって喜多院で4日間の法要が営まれました。

そこから、この地に家康を御祭神として祀るため、寛永10年(1633)に建立されたのが始まりです。

社殿は寛永15年(1638)の大火後、徳川家光の命で寛永17年(1640)に再建。

国指定重要文化財に選定されています。

 

仙波東照宮の次は、喜多院へ。

 

 

喜多院は、天台宗の寺院で山号は星野山。

阿弥陀如来を本尊とし、良源(元三大師)を祀り、川越大師の別名でも知られています。

創建は、平安時代初期の天長7年(830)、淳和天皇の命で慈覚大師円仁が寺を建立。

当初は無量寿寺と号しました。

無量寿寺には北院、中院、南院の3院が存在していましたが、中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治初めの廃仏毀釈運動により、廃院となっています。

そして、慶長4年(1599)に27世を継いだ天海僧正が徳川家康の厚い信頼を得、そこから大いに栄え、寺号も天海僧正の入寺の際に「喜多院」と改められています。

また寛永15年(1638)の火災後の再建時には、江戸城紅葉山の別殿を移築して客殿や書院等にあてました。

「徳川家光誕生の間」や「春日局化粧の間」があるのはそのためです。

その他、小江戸川越七福神めぐり第三番でもあり、大黒天が祀られています。

 

 

喜多院に着いたところで、鐘楼門の前で記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

記念撮影後、慈恵堂にお参りした後、有料エリアを拝観。

 

 

「徳川家光誕生の間」や「春日局化粧の間」など、建物内は撮影禁止。

ただし、お庭の撮影はOKでしたので、美しく整備された庭園の写真を縁側から撮りました。

 

江戸城紅葉山の御殿を移築した客殿・書院・庫裏などを見学した後は、五百羅漢へ。

 

 

五百羅漢は、僧侶志誠の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)まで、約40年の歳月をかけて作られた全538体の石像。

深夜に羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているといった言い伝えが残っています。

 

有料エリアを拝観した後は、境内にある売店へ。

 

 

ちょうど5本入りの川越大師厄除け団子があったので、一人一本ずつ食べました。

 

お団子を食べた後、喜多院を出て、続いて成田山川越別院本行院へ。

 

 

成田山川越別院本行院は、成田山新勝寺の別院で真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王。

地元では「川越のお不動様」として親しまれています。

創建は、両目を失明した石川照温が成田山新勝寺での修行で、これを完治。

出家して、諸国巡歴の末、ここ川越の地に本行院を再興し、嘉永6年(1853)、成田山新勝寺の別院となりました。

また小江戸川越七福神めぐり第四番でもあり、恵比寿天が祀られています。

 

成田山川越別院本行院の次は、川越熊野神社へ。

 

 

川越熊野神社は、天正18年(1590)蓮馨寺二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請したことに始まり、もとは蓮馨寺の一部でしたが、明治2年(1869)の神仏分離により寺の管理を離れ独立しました。

御祭神は熊野大神で、すなわち伊弉諾命・伊弉册命・事解之男命・速玉之男命の四神。

境内には、もと蓮馨寺に縁ある神社として、加祐稲荷神社、厳島神社と宝池、秋葉神社、大鷲神社などがあります。

また社殿西側には、連雀町の太田道灌の山車蔵があります。

 

川越熊野神社の次は、大正浪漫夢通りへ。

 

 

大正浪漫夢通りは、かつては銀座商店街と呼ばれたアーケードのある商店街でした。

平成7年(1995)にアーケードが外され、御影石の石畳を敷き、電線を地中化。

大正ロマンの香り漂うレトロモダンな街並み「大正浪漫夢通り」に生まれ変わりました。

 

 

大正浪漫夢通りで2回目のおやつタイム。

食べ歩きに程よいサイズの川越タルトをみんなで食べました。

 

大正浪漫夢通りの次は、旧山崎家別邸へ。

 

 

旧山崎家別邸は、川越の老舗菓子店「亀屋」の5代目・山崎嘉七の隠居所として、大正14年(1925)に完成した建物で、設計は丸の内赤煉瓦オフィス街の設計を行った建築家・保岡勝也が担当。

敷地内には木造モルタル仕上げ洋瓦葺きの洋館と数奇屋造りの和室を備えた和館で構成された和洋折衷の母屋をはじめ、庭園や茶室もあり、建物は平成12年(2000)4月に市指定文化財となった後、令和元年9月30日に母屋が国の重要文化財(建造物)に指定。

庭園は国登録記念物(名勝地)に指定されています。

 

旧山崎家別邸の次は、一番街 蔵造りの町並みへ。

 

 

蔵造りの町並みの出現は、明治26年(1893)の川越大火がきっかけとなっています。

この火災では、町の全戸数の3分の1以上が焼失。

そんな大火の中で焼け残ったのが、蔵造りの建物でした。

このことにより、耐火性に優れていた土蔵が見直され、次々に蔵造りの店舗が建てられ、明治末期には蔵造りの町並みが完成しました。

川越の蔵は倉庫としての蔵ではなく、「店蔵」として使われているところが大きな特徴です。

 

一番街 蔵造りの町並みの次は、時の鐘へ。

 

 

時の鐘は、寛永年間(1624~1644)に川越城主・酒井忠勝が、城下に建てたものが最初といわれています。

現在の鐘楼は、明治26年(1893)の川越大火の翌年に再建されたもの。

3層構造の塔で、高さ約16m。

寛永の創建から「時」を告げてきた川越のシンボル。

現在、1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、自動鐘撞機を使って蔵造りの町並みに鐘の音を響かせています。

また平成8年(1996)6月には、環境庁(現在の環境省)主催の残したい「日本の音風景100選」に選ばれました。

 

時の鐘を見た後は、3回目のおやつタイム。

 

 

熱々の川越銘菓いも恋をみんなで頬張りました。

 

いも恋を食べた後は、菓子屋横丁へ。

 

 

菓子屋横丁では、明治の初めから菓子を製造していました。

大正時代、関東大震災で被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するようになり、昭和初期には70軒ほどの業者が軒を連ねていたそうです。

現在は20軒程度の菓子屋などが集まり、横丁が醸し出す雰囲気と下町風の菓子の懐かしい香りが漂うスポットとして、環境省が実施した「かおり風景100選」に選ばれています。

 

菓子屋横丁の次は、蓮馨寺へ。

 

 

蓮馨寺は、天文15年(1546)の河越夜戦(北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍との戦い、北条軍が勝利)の後、川越城の城主となった大道寺政繁が、母の連馨尼を追福するために、感誉上人を招いて天文18年(1549)に開山した浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。

また小江戸川越七福神めぐり第五番でもあり、福禄寿神が祀られています。

他にも江戸時代に多くの人々の命を救ったことから、尊敬と信仰の対象となった呑龍上人がいたことでも当山は知られています。

 

蓮馨寺の次は、小江戸蔵里へ。

 

 

小江戸蔵里は、明治8年(1875)に創業した旧鏡山酒造の建物を、当時の面影を残しつつ改修して、平成22年(2010)10月に誕生した商業施設。

施設は明治・大正・昭和の時代に建てられた酒蔵を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、ききざけ処(昭和蔵)の3つの蔵で構成されており、これらの蔵は国の登録有形文化財に指定されています。

 

小江戸蔵里のおみやげ処で、各々川越土産を買って、本川越駅でお散歩は終了。

 

 

その後、全員で「目利きの銀次 本川越駅前店」へ行き、軽く打ち上げをして解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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