高幡不動~聖蹟桜ヶ丘散歩 6月10日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第178回 高幡不動~聖蹟桜ヶ丘散歩」の初回の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は高幡不動駅から。

 

まずは、高幡不動尊の参道を抜けて高幡不動尊金剛寺へ。

 

 

ちょうど高幡不動尊のあじさいまつりの最中で、雨も降っていなかったことから、参道も賑わっていました。

 

 

高幡不動尊金剛寺は、日野市高幡にある、高幡山明王院金剛寺と号する真言宗智山派別格本山で古来関東三不動の一つに挙げられ「高幡不動尊」として親しまれている寺院。

草創は古文書によれば大宝年間(701~704)以前とも、或いは奈良時代、行基菩薩の開基とも伝えられますが、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王を安置したのが始まりといいます。

のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧·儀海上人が康永元年(1342)、麓に移して建てたのが現在の不動堂。

続く室町時代の仁王門ともども関東稀に見る古文化財として重要文化財に指定されています。

そして足利時代は「汗かき不動」と呼ばれて、鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊崇を集め、江戸時代には関東十一檀林・火防の不動尊として広く庶民の信仰を集めました。

当時門末三十六ケ寺を従えた大寺院でしたが、安永8年(1779)の業火により、大日堂をはじめ、大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失。

その後、歴代住持の尽力により、徐々に復興に向かいましたが、殊に昭和50年代以降、五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・奥殿・大師堂・聖天堂などの工事が相継ぎ、往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになりました。

なお総重量1,000㎏を超える巨像で古来日本一と伝えられた、重要文化財の丈六不動三尊(平安時代)は修復作業が完了し、現在奥殿に安置。

さらに当山は新選組·土方歳三の菩提寺としても有名で、近藤勇・土方歳三顕彰碑や、土方歳三の銅像、また大日堂には土方歳三の位牌や新選組隊士慰霊の大位牌、奥殿には歳三の書簡ほか多くの新選組資料が展示されています。

 

我々はまず仁王門をくぐった後、平成9年(1997)に造立された新丈六不動明王像が安置されている不動堂を参拝。

 

その後、千年ぶりの修復を終えた丈六不動三尊像を中心に、たくさんの文化財を収蔵・展示している奥殿(拝観料300円)を見学。

続いて、高幡山の総本堂である大日堂(拝観料200円)に行って、有名な鳴り龍天井を体験したり、江戸時代の優れた彫刻群、新選組の近藤・土方の位牌、後藤純男の豪快な襖絵等を拝観しました。(どちらも建物内撮影不可)

 

有料施設を巡った後は、紫陽花観賞スタート。

 

 

高幡不動尊の裏山不動ヶ丘には、山内八十八ケ所の大師像が祀られ、桜、あじさい、彼岸花、紅葉など四季とりどりの自然が楽しめます。

ちなみに境内から裏山にかけて咲き乱れる、あじさい・山あじさいは約200種以上、7,500株余りといわれており、多くの人があじさい観賞を楽しんでいました。

 

 

裏山散策後、五重塔内にある無料休憩所で一休みをし、一息ついた後、敷地内にある松盛堂などで、各々おやつやお土産を購入。

 

そして、次の目的地である百草八幡宮に向かいました。

 

 

途中、見晴らしの良い高台にある枡井西公園でおやつタイム。

 

 

百草八幡宮は、日野市百草に鎮座する、誉田別命(応神天皇)・息長足姫命(神功皇后)・武内宿禰・源義家を御祭神として祀る神社。

創建年代は不詳ですが、社宝の石造狛犬に天平の文字がある古社で、康平5年(1062)、源頼義が安倍貞任、宗任征討の後、この地に再建したといい、建久3年(1192)には、源頼朝が武運長久を祈願した太刀一振の奉納があり、古くは祭田五百石あったといわれています。

なお現社殿は昭和45年(1970)に建て替えしたものです。

 

 

また境内にある小さな奉安殿の中には、像高40㎝の重要文化財「銅造阿弥陀如来坐像」が安置されています。

この坐像の背部には建長2年(1250)の銘があり、作風からも鎌倉期の制作と認められ、背銘には「真慈悲寺」の文字も見えます。

真慈悲寺は『吾妻鏡』に登場する鎌倉幕府の祈祷寺で、百草周辺に存在していたと考えられる中世の大寺院。

本像はこの真慈悲寺にあったと伝えられていますが、鎌倉幕府滅亡以降、真慈悲寺は資料上に現れなくなり、いつ廃寺になったかも定かではありません。

その後、本像は土中より掘り出されたともいわれています。

そして現在では、八幡神社の本地仏として、毎年9月の祭礼に際して、一日のみ公開されています。

 

百草八幡宮の次は、京王百草園へ。

 

 

京王百草園は、日野市百草にある、京王電鉄株式会社が所有する日本庭園。

この地を含めた百草一帯には、平安時代末から鎌倉時代にかけて真慈悲寺という大寺院があったと推定されています。

そして、享保年間(1716~1736)に小田原城主·大久保忠増の正室·寿昌院慈岳元長尼が徳川家康の長男·信康追悼のため当地に松連寺を建立しました。

しかし、明治時代になって廃寺となり、明治20年(1887)に百草出身の生糸商人·青木角蔵が百草園を開園。

その後、昭和32年(1957)に京王電鉄株式会社の所有となり、現在に至っています。

(入園料300円)

 

京王百草園でもあじさい観賞をし、次はモグサファームへ。

 

 

モグサファームは、日野市で唯一の酪農家だそうで、牛舎の中には何頭もの成牛がいて、また道路側には3頭の可愛らしい子牛が柵越しに顔をのぞかせていました。

 

モグサファームの次は、アルティジャーノ・ジェラテリアへ。

 

 

アルティジャーノ・ジェラテリアは、モグサファーム直営のジェラート店。

毎朝とれたての新鮮なミルクを使用したイタリアンジェラートを販売しており、皆さんアップダウンの多かった散歩道での疲れをこちらのジェラートを食べて回復させていました。

 

アルティジャーノ・ジェラテリアで一息ついた後は、小野神社へ。

 

 

到着したところで記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

 

小野神社は、多摩市一ノ宮に鎮座する、天ノ下春命と瀬織津姫命を主祭神として祀る神社。

当社は第3代天皇·安寧天皇18年(紀元前531)の鎮座と伝えられ、武蔵国開拓の祖神である天下春命を主神として祀る古社。

社名は古くからこの地の呼び名であった小野の郷に由来するものですが、霊験が灼かなことで朝廷の耳にも届き、数々の奉幣にも預かり、元慶8年(884)7月には正五位上の神階を授けられました。

また『廷喜式』が作られた折には、武蔵国八座の一社として登載。

且つ国府が近在していることによって、国司や住民の崇敬も篤く、総社六所宮(大國魂神社)創建時には、東殿第一次の席を与えられて一之宮と称されました。

そうして当社の社伝には永承6年(1051)、源頼頼義が陸奥守に任ぜられて下向の途中、その子·義家と共に参籠され、太刀一振りと詠歌一首奉納の事績が繙かれ、『吾妻鏡』にも養和元年(1181)4月、一宮は吉富井蓮光寺と併記され、さらに建久4年(1193)8月の刻印ある経筒の銘に一宮別当松連寺が記録されています。

そして、やや時代も下り安居院の『神道集』並びに深大寺の僧·長弁の『私案抄』を尋ねると当社は中世以来、文殊菩薩を本地とした信仰も行われており、斯くなるところ、この近在は鎌倉末より戦国時代にかけて度々の戦乱や多摩川の氾濫があり、当社にも多大の被災が及び衰微しましたが、徳川2代将軍·秀忠により造営再興されたようです。

ちなみに現在の本殿・拝殿は昭和2年(1927)に再建されたものです。

 

 

社宝「木造随身倚像」。(東京都指定有形文化財)

武蔵一宮小野神社については、現存する資料が極めて乏しい中で、昭和49年(1974)にこの随身倚像に墨書銘があることが発見。

墨書銘によれば、この二体のうち古い方の随身倚像は、元応元年(1319)、因幡法橋応円・権律師丞源らにより奉納されたもので、その後、寛永5年(1628)に鎌倉の仏師·大弐宗慶法印によって色彩などの補修が行われ、その際新しい方の像が新調されたことを伝えています。

随身像は、どちらも檜材、寄木造、胡粉地に色彩が施され、頭部は挿首、玉眼。

都内では室町時代以前の随身像は数少なく、また武蔵一宮小野神社の歴史を伝える数少ない資料の一つとして貴重な文化財となっていますが、残念ながら非公開です。

 

小野神社の次は、聖蹟桜ヶ丘駅へ。

 

 

小野神社からしばらくは、通りの側溝部分に神南せせらぎ愛護会が管理している小川があり、水が澄んでいて小魚がたくさん泳いでおり、風情がある景観を眺めながら、ぶらぶら駅へと向かいました。

 

こんなふうにあちこち巡った後、聖蹟桜ヶ丘駅でお散歩は終了。

 

 

その後、有志のメンバーさんと「つぼ八 聖蹟桜ヶ丘南口店」で懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。

 

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