矢川~国立散歩 4月1日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第177回 矢川~国立散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は矢川駅から。

 

 

まずは、出発前に「ina21国立矢川駅前店」でおやつを調達。

 

買い物後、南養寺へ。

 

 

南養寺は、国立市谷保にある、谷保山と号する、臨済宗建長寺派の寺院。

正平2年(1347)、立川・国立一帯の有力武士であった立川入道宗成が大檀那となり、鎌倉の建長寺から禅師·物外可什を招いて開山したと伝えられています。

その後、天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした合戦の戦火で焼失しましたが、文化元年(1804)、中興の僧によって本堂が再建。

現在の本堂は当時のままで、谷保天満宮と並んで、国立で最も古い建物の一つです。

 

境内の様子はというと…

 


 

本堂(市指定有形文化財建造物)。

文化元年(1804)に地元の大工·佐伯源右衛門、北島安右衛門等によって建築。

昭和56年(1981)に修理が行われたとき、屋根は入母屋造りの茅葺から銅板葺に変えられました。

禅宗の方丈型本堂として、国立市における貴重な建造物で、本尊は釈迦如来座像です。

 


 

大悲殿(市指定有形文化財建造物)。
寛政5年(1793)に、千丑(城山の東方向の地域)にあった藤井山圓成院の観音堂を移築したもの。

屋根は宝形造りの銅板葺です。

観音堂は矢澤大堅がその師·実山道伝より贈られた「十一面千手観音坐像」(市指定有形文化財)を安置するため、享保3年(1718)に建立したものと伝えられており、また現在は壁面に移動されている天井画は相沢五流の手によるものとされ、壁画二十八部衆は絵画としても非常に優れたものです。

 


 

総門(市指定有形文化財建造物)。
安永9年(1780)に地元の大工·佐伯源太によって建築。

形式は薬医門、屋根は切妻造りで銅板葺です。

前南禅僧録司大川祟達の書による「谷保山」の扁額を掲げています。

建立は、江戸後期における南養寺伽藍整備の一環を示す貴重なものです。

 


 

鐘楼(市指定有形文化財建造物)。
天明8年(1788)の建立で、屋根は入母屋造りで銅板葺。

関東大震災による被害の復旧が行われた大正14年(1925)に、茅葺からトタン屋根に変えられ、さらに昭和56年(1981)の修理時、現在の銅板葺になりました。

梵鐘は、安永6年(1777)、谷保鋳物三家(関・森窪・矢澤氏)の関氏によって鋳造されたものです。

 

他にもこんなものも…

 


 

南養寺遺跡敷石住居跡。

昭和57年(1982)に庫裡改修工事の際に発見された縄文時代中期末(約4,000年前頃)の住居跡。

この住居は、竪穴の平面形が柄鏡形をしていて、床に石が敷かれています(柄鏡型敷石住居跡)。

本体部は直径約3mの円形となり、中央に炉がつくられ、入口部と推定される張出部は長さ約2.5m。

現地は非公開ですが、くにたち郷土文化館の敷地内に復元展示されています。

 

南養寺の次は、滝乃川学園へ。

 

 

滝乃川学園は、国立市矢川3丁目にある、日本聖公会系の社会福祉法人。

児童福祉法に基づく知的障害児施設「滝乃川学園児童部」、障害者総合支援法に基づく知的障害者支援施設「滝乃川学園成人部」などを設置・運営し、社会福祉法に定められた主に知的障害児を対象とした各種福祉サービスを提供する社会福祉事業者で日本初の知的障害児者のための教育・福祉施設。

学園は、濃尾地震(1891)の罹災孤児の保護と教育を目的に、明治24年(1891)に開設された聖三一孤女学院を母体とし、明治30年(1897)に至って、知的障害児に関する研究、教育、そして生活支援を行う施設に転換し、現在の名称である「滝乃川学園」に改称。

創立者の石井亮一(立教女学院教頭)が、立教大学の出身で、同大学の創立者チャニング・ウィリアムズ聖公会主教と師弟関係にあったことから、創立以来、日本聖公会(プロテスタント系)との関係が深く、現在でも日本聖公会系の学校法人立教学院および学校法人立教女学院などとは姉妹関係にあります。

また創立者の石井亮一(初代学園長)・筆子(第2代学園長)夫妻の事績の他、渋沢栄一が第3代理事長、沢田廉三(外務事務次官、初代国連大使)が第4代理事長、そして細菌学者の高木逸磨が第5代学園長を務めたことでも知られ、さらに貞明皇后以来、明仁上皇・美智子上皇后に至るまで、伝統的に皇室との関係も深く、戦前には、昭和天皇から御下賜金を受け、近年においても、明仁天皇・美智子皇后の二度の行幸啓がありました。

 

滝乃川学園では文化財建物の外観を見学。

 

 

石井亮一・筆子記念館(国登録有形文化財)。
昭和3年(1928)年に竣工された昭和初期を代表する教育建造物。

滝乃川学園が同年、西巣鴨町から現在地に移転以来、知的障害児の教育・福祉の実践を支えてきた建造物で、災害時の避難を想定した造りの廊下、各段が低く、ゴム張りの工夫がされている階段、採光に配慮した窓等、創立者夫妻による知的障害児への配慮が具現化された木造のモダンな近代建築となっており、当時1階には教室(学園利用者用、付属保母養成所用)、2階には講堂等を備えていました。

また立面はアーチ付きの玄関ポーチを中心に広がる水平線を強調したデザインで、整然と配された窓と相まって明快な印象を与えますが、講堂上部のドーマーと赤い屋根がポイントとなって全体を引き締めています。

建物は支援者により平成19年(2007)に保存修復工事を着工、平成21年(2009)、新たに「石井亮一・筆子記念館」としてよみがえり、現在では、1階の教室は、学園や石井亮一・筆子夫妻を紹介する展示室として、2階の講堂は、研修、講座、コンサート等に活用されています。

 

 

聖三一礼拝堂(市登録有形文化財)。
昭和3年(1928)に学園が西巣鴨町から谷保村に移転した際、本館建物とともに建設され、昭和4年(1929)に聖別式が行われたものであり、日本における最古の知的障害者施設の主要な建物の一つとして貴重な文化財です。

構造は鉄筋コンクリート造、スレート葺き、ロマネスク風の簡素な礼拝堂であり、都内でも最も古い時期に属するRC造の建物の一つ。

内部は漆喰塗仕上げ壁に木造の叉首組・繋ぎ梁付の小屋組、化粧屋根裏天井が露顕し、教会建築の原点を想起させる簡素な空間となっています。

 

滝乃川学園の次は、ママ下湧水公園へ。

 

 

ママ下湧水公園は、国立市矢川3丁目にある、東京の名湧水57選に選ばれている自然保護公園。

このあたり一帯は、多摩川の流れによってつくられた階段のような形をした崖で、高さ8m前後の段丘崖が連なっており、北側には青柳段丘が、南側には古来多摩川の氾濫原であった低地が広がっています。

このようなところをこのあたりでは「まま」とか「はけ」と呼び、そこから湧き出る地下水を四軒在家(農業集落名)では「ママ下湧水」と言っています。

また昔からこの一帯は豊富な湧水群で、昭和初期までは、わさび田が見られました。

このママ下湧水の湧き出る場所が「上のママ下」と呼ばれ、関係者の協力により、一帯を公園・緑地として残すことができました。

 

ママ下湧水公園の次は、矢川おんだしへ。

 

 

矢川おんだしは、国立市泉5丁目にある、ママ下湧水から湧き出した水が小川(「清水川」あるいは「ママ下川」と呼ばれている)となって東に流れ、北側から流れ出てきた矢川に行く手を遮られ、矢川と共に畑地を貫くように南へ流れて、府中用水の支流である谷保分水に合流する地点のこと。

「おんだし」とは「押し出し」の転訛だといわれ、矢川の流れが谷保分水とほぼ直角に合流する景観が特徴的です。

 

矢川おんだしの次は、くにたち郷土文化館へ。

 

 

くにたち郷土文化館は、国立市谷保にある、平成6年(1994)11月16日に開館した博物館。

メインテーマを「過去・現在・未来を結ぶ―多摩川が育んだ段丘(ハケ)とともに生きる私たち―」とし、生涯学習の一翼を担う場として、地域に根ざした博物館・文化館活動を目指しています。

また講座といった事業のほか、市民参加の事業も多く開催。

常設展示室は6つのゾーンに分かれた構成で国立市域の通史を見ることができ、特別展示室では年数回の館主催による展示を実施しているほか、館と共催での市民企画展なども開催しています。

その他、展示に関連した講演会や歴史講座、収蔵資料を活用した市内小学校3年生の体験学習「民具案内」など、年間を通じて様々な事業を展開。

さらに敷地内には3つの庭園があり、それぞれ「武蔵野庭園」「歴史庭園」「伝承庭園」と呼ばれ、来館者の憩いの場になっている他、様々な行事の会場、コンサートや発表会なども行われています。

 

 

くにたち郷土文化館では、屋外庭園に復元展示してある「南養寺遺跡敷石住居跡」もチェック。

 

くにたち郷土文化館の次は、旧青柳村古民家(旧柳澤家住宅)へ。

 

 

旧青柳村古民家(旧柳澤家住宅)は、国立市泉5丁目にある、甲州街道沿いの青柳村(現在の国立市青柳)に建てられていた農家を移築し、復元した古民家。

この古民家は江戸時代後期の建築と推定される典型的な茅葺・入母屋造りの家屋で、昭和60年(1985)10月に柳澤勇一郎氏から国立市が寄贈を受け、解体調査後、平成3年(1991)3月に城山公園南側に復元。

同年10月に市の有形民俗文化財指定を受け、一般公開を開始しました。

復元にあたっては、当時の農家の様子をなるべく忠実に再現し、敷地内には茶の木や柊など生垣を周囲にめぐらし、屋敷の南側には白樫の高垣(かしぐね)を設け、鬼門(北東)には、魔除けのエンジュの木が植えられています。

またこの民家の間取りは、土間部分のダイドコロ、床上部分のアガリハナ、カッテ、ザシキ、オクからなり、喰い違い四ツ間取りで作られています。

柳澤家は屋号を「たくあん屋」といい、明治以降、養蚕を盛んに行うとともに漬物業も営んだ家で、内部には明治から昭和初期にかけての生活道具も展示されています。

 

 

古民家を見学した後、記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

旧青柳村古民家(旧柳澤家住宅)の次は、城山公園へ。

 

 

城山公園は、国立市の谷保地区にある公園。

都内とは思えないほど自然が残された公園で、森林浴や野鳥観察スポットとして知られています。

園内には遊歩道が整備されており、また水辺もあり、初夏にはザリガニを釣る子供たちの姿も見られます。

他にも農業体験などを行っている城山さとのいえや、隣接して古民家もあり、国立の自然と歴史が感じられるスポットになっています。

 

 

城山公園でおやつタイム。

「ina21国立矢川駅前店」で買っておいた菓子パンや和菓子などをみんなで頬張りました。

 

城山公園の次は、谷保の城山歴史環境保全地域へ。

 

 

谷保の城山歴史環境保全地域は、東京都が保護する、昭和50年(1975)12月26日に指定された面積15,217㎡の歴史環境保全地域(国立市の南部の谷保地区で、青柳段丘のほぼ中心部に位置する区域)。

この区域は中世の館跡などの歴史的遺産と、雑木林が一体となって自然地を形成。

クヌギ・コナラ林の他、シラカシ・ケヤキ林やイヌシデ林が見られるとともに、様々な希少植物も生育しており、季節によって変化に富んだ植物を観察することができます。

都は館跡の遺構と樹林を一体として現状のまま保全し、段丘上の屋敷林及び段丘下に続く常緑広葉樹林は自然の遷移に委ねて、この地域本来の植生に戻し、一部の雑木林は明るい林として現状を維持する方針です。

 

谷保の城山歴史環境保全地域の次は、三田氏館跡へ。

 

 

三田氏館跡は、国立市谷保にある東京都指定旧跡。

多摩川に向かって張り出した青柳段丘の台地上縁辺にある「谷保の城山」は、中世の城館跡であったという伝承があり、この地は従来から「三田城」あるいは「三田氏館」と呼ばれ、中世三田氏との関連が推測されてきましたが、鎌倉幕府の御家人であった津戸三郎為守が城主であったとする資料も存在します。

現在、土塁や堀の跡を確認することができますが、発掘調査などは行われておらず、城館の性格や城主などその詳細は不明です。

 

三田氏館跡の次は、谷保にある日用雑貨店「高柳商店」へ。

 

 

高柳商店には、駄菓子コーナーがあり、こちらで駄菓子を買って、その場で食べたり、お土産にしたりしました。

 

高柳商店の次は、谷保天満宮へ。

 

 

まず、裏口から境内に入ったところで、常盤の清水をチェック。

こちらも東京の名湧水57選に選ばれています。

 

 

谷保天満宮は、国立市谷保に鎮座する、菅原道真公と菅原道武公を御祭神として祀る神社。

東日本最古の天満宮で「亀戸天神社」「湯島天満宮」と合わせて「関東三大天神」と称されています。

 

その歴史はというと…

 

昌泰4年(901)、菅原道真が太宰府に左遷され、このとき道真の子息たちも配流となりました。

配流された子息の中に道真の三男·菅原道武という人物がおり、道武は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現在の谷保)に配流されたといいます。


延喜3年(903)、菅原道真が薨去。

三男の道武は、思慕の情から自ら道真の像を刻み天神島(現在の府中市日新町)に祀りました。

これが当社の起源とされています。


延喜21年(921)、道武が亡くなると道武は相殿に祀られました。
 

天暦元年(947)、「北野天満宮」造営の際、村上天皇の勅命により当社にも社殿が造営され、官社に列格。
 

養和元年(1181)、道武の末裔である津戸三郎為守が霊夢を見たため現在地へ遷座。

その際に太宰府に倣って「梅香山安楽寺」(現・廃寺)を興し、 社務六院が置かれました。


建治3年(1277)、後宇多天皇の勅により藤原経朝筆の「天満宮」の扁額が奉納。

これが現存しており、国の重要文化財に指定。

また鎌倉時代には木造獅子狛犬が奉納。

当初は本殿に安置されていたといい、現在は国の重要文化財として宝物館に移されています。


江戸時代に入ると、谷保村が上谷保村・下谷保村に分村。徳川将軍家より、朱印地13石5斗を賜りました。

 


寛延2年(1749)、本殿を造営(市指定有形文化財)。

現存する本殿は三間社流造で上谷保村の佐伯源七により建築。

桁行三間(5.4m)、梁間二間(3.6m)、6坪(約20㎡)の母屋の前に一間(1.8m)の庇をつけたもので、屋根は母屋の切妻造がのびて庇に続き、長く緩やかに流れるような曲線となり、ここから流造の名が起こっています。

外観は彩色調査の結果、きらびやかな極彩色が施されていたことがわかりました。

 


嘉永4年(1851)、拝殿を造営(市指定有形文化財)。

現存する拝殿は入母屋造りで桁行五間(9m)、梁間三間(5.4m)、22坪(約73㎡)、正面の向拝は軒唐破風付入母屋造りです。


明治の神仏分離の際は、別当·安楽寺の住職が還俗して神職となり、明治6年(1873)、村社に列格。明治14年(1881)、郷社に昇格。

さらに明治18年(1885)、府社に昇格しました。
 

明治41年(1908)、「自動車の宮様」とも称された有栖川宮威仁親王が運転する「ダラック号」の先導により、甲州街道を通って立川まで走る日本初の「自動車遠乗会」(ドライブツアー)が行われました。

日比谷公園を出発し、当社梅林で昼食をとり、昇殿参拝した後、無事に帰還したことから、谷保天満宮は交通安全祈願発祥の地となりました。

 

 

また立地も大変興味深く、甲州街道から表参道を下りると本殿、拝殿があるという珍しい立地となっています。

普通、神社は高台に鎮座するものですが、拝殿等が街道に背を向けているのは、かつて甲州街道が境内の南側を通っていたためです。

 

谷保天満宮を参拝した後は、谷保天神停留所から京王バスに乗って、国立駅まで移動。

 

 

バスの窓から眺めた大学通りの桜並木が大変素晴らしかったです。

 

国立駅に着いたところで、次は「たましん歴史・美術館」 へ。

 

 

たましん歴史・美術館は、国立市中1丁目、多摩信用金庫国立支店6階にある、平成3年(1991)6月に開館した美術館。

財団法人たましん地域文化財団設立と同時に、「たましん美術サロン」を改称し、「たましん歴史・美術館」として博物館登録したもの。

地域の住民が気軽に立ち寄れ、美術や地域の歴史に親しめるような施設であるよう、多摩地域を代表する作家の作品展示や、多摩地域に関連した美術・歴史の展示をしており、またその他、絵画・古陶磁・浮世絵・写真などの所蔵品の中から、美術・歴史に関する企画展を年4~5回行なっています。

 

こちらで『工芸×絵画 ―たましん蔵出しコレクション展―』(撮影禁止)を鑑賞後、旧国立駅舎へ。

 

 

旧国立駅舎は、国立市東1丁目にある市指定有形文化財。

旧国立駅舎は箱根土地株式会社(現在の株式会社西武・プリンスホテルズワールドワイド)が建築し、当時の鉄道省に寄付した、大正15年(1926)開業の請願駅で、箱根土地株式会社と東京商科大学(現在の一橋大学)が理想の学園都市を目指し、国立大学町を開発。

整然とした街路はこのとき造られ、駅・駅前広場・大学通りを一体的に造り、街の景観に据えてきました。

しかし、国立のシンボルとして、長らく市民に親しまれてきた駅舎は、平成18年(2006)、市指定有形文化財に指定された後、中央線連続立体交差事業に伴って解体。

解体した部材は市が保管し、平成30年(2018)に再建築工事が開始され、令和2年(2020)に復原駅舎が完成。

外観意匠は屋根窓が4ヶ所あり、大屋根が西側に大きく流れた非対称の三角形で、正面はロマネスク風のアーチ窓、その両端に柱型が取付き、個性的で瀟洒なデザインとなっています。

また構造形式は木造平屋建ての切妻屋根で、キングポストトラスの洋小屋組み、庇部分の柱には1900年頃のイギリスやアメリカの古レールが用いられており、「街の魅力発信拠点」という新たな役割を得て、現在は人々に利用されています。

 

こんなふうにあちこち巡った後、国立駅でお散歩は終了。

 

 

その後、有志のメンバーさんと「水炊き・焼き鳥 とりいちず酒場2 国立南口駅前店」で懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

http://tokyo-osampo.com