両国~浅草散歩 7月17日(日) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「夏企画 両国~浅草散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は夕方の両国駅から。

 

まずは、両国橋へ。

 

 

両国橋は、中央区東日本橋と墨田区両国を結ぶ隅田川に架かる橋で、明暦の大火(1657)後、江戸の市街地拡大のため本所・深川を開き、万治2年(1659)に架橋されたのが始まりです(1661年架橋とも)。

初め「大橋」と名付けられましたが、隅田川が当時、武蔵と下総両国の境界であったことから両国橋と呼ばれ、後に正式に両国橋と改められました。

その後、数度の火災、水害で修改築し、明治37年(1904)に鉄橋に架け換えられ、昭和7年(1932)に桁橋に改修されたものが現在の両国橋。

東京都選定歴史的建造物に選定されています。

 

 

場所柄、柵に軍配が施されていたり、土俵型のテラスがあったりと凝ったつくりをしています。

 

 

橋上からの眺めを愛でた後は、柳橋へ。

 

 

柳橋は、神田川が隅田川に流入する河口部に位置し、中央区東日本橋と台東区柳橋を結んでいる橋。

最初の架橋は元禄11年(1698)で、昔、一帯は隅田川の船遊び客の船宿が多く、花街として賑わい、柳橋芸者が有名でした。

橋は明治20年(1887)に鋼鉄橋になりますが、関東大震災で焼失。

現在の橋は永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1929)に完成。

中央区の区民有形文化財に登録されています。

 

 

こちらでは、多数の屋形船が停泊する神田川の様子を見てから、浅草橋へ。

 

 

浅草橋は、神田川に架かる橋で、中央区日本橋馬喰町と台東区浅草橋を結んでいます。

江戸城の見附「浅草御門」設置の際、見附橋として架けられたのが始まりとされていますが、架橋の正確な年代はわかっていません。

現在の浅草橋は、昭和5年(1930)に関東大震災の復興事業として建設。

浅草橋周辺は古くから問屋街として栄え、今では人形やビーズアクセサリー、雑貨、店舗用品等を取り扱う店が建ち並び、賑わいを見せています。

 


 

浅草橋の橋上から、柳橋を振り返り、銀杏岡八幡神社へ。

 

 

途中、「鳴門鯛焼本舗 浅草橋店」に立ち寄って、おやつタイム。

 

 

銀杏岡八幡神社は、台東区浅草橋1丁目に鎮座する、誉田別命(応神天皇)と武内宿祢命を御祭神として祀る神社。

由緒は、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝が川上より流れてきました。

その枝を丘の上に挿して戦勝を祈願し、奥州平定の帰途、成長した銀杏の木に神恩を感じ、康平5年(1062)に源氏の氏神である八幡様を勧請して創建したと伝えられています。

そして、江戸時代に入ると、当地は福井藩松平家の屋敷地となり、邸内社として祀られますが、享保10年(1725)に土地が接収され、屋敷の跡地は福井町という町家となり、当社は町の産土神になりました。

なお、大銀杏は延享2年(1745)の台風で中ほどより折れ、高さ6mくらいを残して繁茂していましたが、文化3年(1806)の江戸の大火で焼失してしまいました。

 

銀杏岡八幡神社の次は、須賀神社へ。

 

 

須賀神社は、台東区浅草橋2丁目に鎮座する、素戔嗚尊を御祭神として祀る神社。

由緒は、当社所蔵の『當社牛頭天王縁起』によると、尾張国の津島牛頭天王社(現 津島神社)から分社されたようで、創建は推古天皇の御代(600年頃)。

推古天皇9年(601)の夏にこの地で疫病が流行した折、森の中にあった牛頭天王を祀った神祠に郷の人々が病気平癒を祈願したところ、ことごとく快気したとのこと。

また別に所蔵する『天王塚碑文』等によれば村上天皇の御代(950年頃)の創建ともあり、このころに再建されたようです。

そして、江戸時代になると、蔵前には札差が軒を並べ、当社の氏子にも札差が多く、祭礼は彼らの財力を背景に大いに賑わい、その様子は『江戸名所図会』にも描かれました。

明治時代の神仏分離令発令以降は、天台宗東叡山寛永寺末真鏡山宝現院大円寺から分離し、須賀神社と改称。

その後、関東大震災や戦災の被害を受けますが、昭和36年(1961)に鉄筋コンクリートの社殿や社務所等が再建され、現在に至ります。

 

須賀神社の次は、榊神社へ。

 

 

榊神社は、台東区蔵前1丁目に鎮座する、天神第六代坐榊皇大御神・面足尊・惶根尊を祀る神社。

由緒は、第12代·景行天皇の御宇40年(110)、日本武尊が勅命により東国の鎮定に下向の折、国土創成の祖神である皇祖二柱の神を鎮祭し、自ら奉持した白銅の宝鏡を納め、国家鎮護の神宮としたのが創祀といわれており、古来より「第六天神宮」と称されてきましたが、明治6年(1873)に社号を「榊神社」に改称。

昭和3年(1928)に、柳橋1丁目の旧地から東京高等工業学校(現 東京工業大学)の跡地である当地に遷座。

境内には、社殿の他、七福稲荷神社、事比羅神社・豊受神社、繁盛稲荷神社といった境内社や浅草文庫(※)跡碑が立っています。

 

※明治7年(1874)7月に創設された官立の図書館。

明治8年に開館し、公私の閲覧に供しましたが、明治14年(1881)5月に閉鎖。

跡地は明治15年(1882)設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現在の東京工業大学)の敷地の一部となりました。

しかし、関東大震災で罹災し、大正13年(1924)、当時の東京高等工業学校は大岡山(目黒区)に移転しました。

 

榊神社の次は、浅草御蔵跡碑へ。

 

 

浅草御蔵跡碑は、台東区蔵前2丁目に立つ記念碑。

浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地、すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫で、ここの米は、主として旗本、御家人の給米(給料として支給される米)用に供され、勘定奉行の支配下に置かれました。

また江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいました。

現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和9年(1934)のことで、碑は、昭和31年(1956)6月1日に浅草南部商工観光協会によって建立されました。

 

浅草御蔵跡碑の次は、蔵前橋へ。

 

 

蔵前橋は、台東区蔵前と墨田区横網を結ぶ隅田川に架かる橋で、蔵前橋通りを通しています。

昭和2年(1927)に、関東大震災の復興計画により架橋。

それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場がありました。以前は橋全体が稲の籾殻を連想させる黄色でしたが、ツートンカラーに変更。

また昭和29年(1954)から昭和59年(1984)まで西詰に蔵前国技館があったことから、高欄には力士などのレリーフが施されています。

 

 

蔵前橋から隅田川を眺め、厩橋へ。

 

 

途中、墨田区側の親水テラスに下りて、川沿いをぶらぶら。

 

 

厩橋は、台東区蔵前・駒形と墨田区本所を結ぶ隅田川に架かる橋で、春日通りを通しています。

架橋以前は「御厩の渡し」があった場所で、最初の橋は、明治7年(1874)に架けられた民間の手による木橋でした。

その後、明治26年(1893)に、東京府によってプラットトラス形式の鉄橋に架け替えられますが、関東大震災で被災。

現在の下路式タイドアーチ橋は、震災後の復興計画によって、昭和4年(1929)に完成しました。

橋名は、西岸にあった「御厩河岸」(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)に因んでおり、橋全体に馬を連想させるレリーフなどが施されています。

 



厩橋を渡り切ったところで、パブリックアートかと思わせる厩橋際公衆トイレをチェック。

 

続いて、諏訪神社へ。

 

 

諏訪神社は、台東区駒形1丁目に鎮座する、建御名方神と八坂刀売神を御祭神として祀る神社。

由緒は、承久の乱(1221年)の後、信濃国諏訪郡に住んでいたある神主が諏訪大社の神霊を当地に奉斎したことに始まるといわれ、また江戸時代に入ると浅草寺の衆徒十二院の一院である修善院が別当寺として奉仕。

なお当地は現在「駒形」となっていますが、江戸時代以来の当地周辺「浅草諏訪町」の地名は諏訪神社からとられているそうです。

 

諏訪神社の次は、バンダイキャラクターストリートへ。

 

 

バンダイキャラクターストリートは、台東区駒形1丁目、バンダイ本社ビル横にある、人気キャラクターたちの立像が並ぶストリート。

ドラえもん、アンパンマン、ウルトラマン、仮面ライダーなど、有名キャラクターが勢揃いしており、撮影スポットになっています。

 

 

初日はこちらに立つウルトラマンの像と一緒に記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

バンダイキャラクターストリートの次は、駒形堂へ。

 

 

駒形堂は、台東区雷門2丁目にある浅草寺の伽藍の一つ。

浅草寺の本尊である聖観世音菩薩が隅田川より示現し(※)、初めて奉安された地に建つお堂で、本尊は馬頭観世音菩薩です。

天慶5年(942)に、平公雅によって浅草寺の堂塔伽藍が建立された際、駒形堂も建立。

現在のお堂は、平成15年(2003)に再建されたもので、別名「こまんどう」とも呼ばれ、毎月19日に開扉。

また境内には、当地が霊地であることから、付近の魚類・鳥類の殺生を禁じた「浅草観音戒殺碑」が立っています。

 

※「浅草寺縁起」によると、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟が江戸浦(現 隅田川)で漁撈中、1躰の仏像を感得。

郷司・土師中知がこれを拝して、聖観世音菩薩の尊像と知り、自ら出家。

屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられ、これが浅草寺の始まりといわれています。

 

駒形堂の次は、浅草文化観光センターへ。

 

 

途中、隅田川西岸の親水テラスに下りて、駒形橋から吾妻橋まで、夕涼み散歩。

 

 

そして、吾妻橋交差点に到着。

 

 

浅草文化観光センターは、台東区雷門2丁目に所在する、平成24年(2012)4月20日にリニューアルオープンした地上8階・地下1階建ての観光案内所。

独創的なデザインは隈研吾氏によるもので、最上階の展望テラスからは、東京スカイツリーや浅草の街を一望することができます。

 

 

浅草文化観光センターを出た後、雷門前の賑わいを見て、浅草駅でお散歩は終了。

 

その後、有志のメンバーさんと軽く打ち上げ懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

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