お散歩ナビゲーター小島信康です。
今回は只今開催中の東京お散歩教室「第168回 東池袋~目白散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。
出発は東池袋駅から。
まずは、豊島の森へ。
豊島の森は、豊島区南池袋2丁目に所在する、豊島区役所の10階に設けられた憩いの場。
かつての豊島区の自然を再現したもので、植生や生態など自然の仕組みを学ぶことができます。
また、4階、6階、8階の庁舎フロア南側にはグリーンテラスもあり、豊島の森からは外階段でつながれ、自然環境を体感できる見学・学習ルートになっています。
豊島の森の次は、池袋大仏へ。
池袋大仏は、豊島区南池袋2丁目、日蓮宗松栄山仙行寺の沙羅浄苑(屋内墓苑併設の8階建ての本堂ビル)に祀られている大仏。
大佛師·渡邊勢山氏作の木曽檜を使った木彫の釋迦如来像で、高さ約4.6m、重さは約1.5tあり、大仏は台座の雲の部分に通した支柱で背面の壁に固定されており、正面から見ると空中に1mほど浮遊した姿で表現。
平成30年(2018)7月1日、体内に8,461巻の写経(現在は8,494巻)が収められ開眼されました。
なお、本堂ビル内には雑司が谷七福神の華の福禄壽も祀られています。
池袋大仏の次は、中野ビルの布袋尊へ。
途中、シャトレーゼ八ヶ岳のたまご 南池袋店で洋菓子を購入。
中野ビルの布袋尊は、豊島区南池袋2丁目にある布袋尊像。
像は大正6年(1917)に親子像として制作され、株式会社中野石材商店の店頭に祀られました。
そして、昭和62年(1987)、第六・七中野ビルが落成した際に当ビル前に安置され、平成22年(2010)、雑司が谷七福神の設置趣意に賛同して社を造営。
親の布袋尊像の右肩は、昭和20年(1945)の二度の空襲によって破損し、後に修復されたもので、戦禍の酷さを物語っています。
中野ビルの布袋尊の次は、豊島ふくろう・みみずく資料館へ。
途中、今度は御菓子司 紅谷に寄って、和菓子を購入。
豊島ふくろう・みみずく資料館は、豊島区南池袋3丁目、区立南池袋小学校内にある土・日のみ開館する資料館。
平成13年(2001)、世界中の梟に関する資料収集家でもあった、元東京大学名誉教授·故飯野徹雄氏が所蔵していた膨大な梟コレクションのうち、およそ4,000点が豊島区に寄贈されました。
豊島区では南池袋小学校の一室を「豊島ふくろう・みみずく資料館」とし、飯野氏のコレクションや他からの寄贈品を200から300点ずつ、平成16年(2004)から順次展示公開。
館内は、梟・みみずくの「生活」「イメージ」「かたち」といった3つのテーマで構成され、石・木・ガラス製の多彩な梟・みみずくの置物や、彫刻、玩具など、世界各国の珍しいコレクションが紹介されています。
豊島ふくろう・みみずく資料館の次は、威光稲荷堂へ。
威光稲荷堂は、豊島区南池袋3丁目、威光山法明寺の敷地内に鎮座する、開運威光稲荷尊天を祀るお堂。
由緒は、堂内の縁起之碑によると「西暦八百余年、慈覚大師がこの地を行脚中に、雑司が谷の森より一条の光明を見つけ、その場所に辿りつくと、素晴らしい姿の「稲荷尊神」が現れ、その光明が強いことから慈覚大師は『威光稲荷大明神』と名付け、堂宇を建立して安置したのが始まり…」とあり、開運スポットとして崇敬を集めています。
威光稲荷堂の次は、法明寺へ。
法明寺に着いたところで記念写真。
皆さん、撮影ご協力有難うございました。
法明寺は、豊島区南池袋3丁目にある日蓮宗の寺院で山号は威光山。
弘仁元年(810)、真言宗威光寺として開創。
正和元年(1312)、日蓮の弟子である日源が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました。
江戸時代には徳川家光より朱印を受け、代々将軍家から尊崇され、多くの寄進を受けましたが、大正12年(1923)の関東大震災では本堂が倒壊。
再興後、昭和20年(1945)、今度は戦災によって全山焼失。
戦後再建を果たし、現在に至ります。
境内には、日蓮聖人を祀る祖師堂(安国堂)、下縁に曲尺、算盤、枡、天秤などの珍しい紋様が描かれた梵鐘、酒井抱一(江戸時代後期の絵師・俳人)の朝顔の絵に添えて句が彫られた 蕣塚などがあります。
また、「鬼子母神堂」や「威光稲荷堂」といった諸堂も法明寺の堂宇です。
法明寺の次は、観静院へ。
観静院は、豊島区南池袋3丁目にある、平等山と号する日蓮宗の寺院。
威光山法明寺の塔頭として慶長年間(1596~1615)に創建(※)。
雑司が谷七福神の弁財天です。
※元禄年間(1688~1704)に創立とも。
観静院の次は、雑司ヶ谷鬼子母神堂へ。
雑司ヶ谷鬼子母神堂は、豊島区雑司が谷3丁目にある鬼子母神堂(国指定重要文化財)で、雑司が谷七福神の大黒天。
法明寺の飛地境内にあり、安産・子安の鬼子母神が本尊です。
由緒は、永禄4年(1561)に山村丹右衛門が清土(現在の文京区目白台)の地あたりで鬼子母神像を掘り出し、東陽坊(のちに大行院と改称した後、法明寺に合併)に祀ったのが始まりとされており、その後、天正6年(1578)、「稲荷の森」と呼ばれていたこの地に村の人々が堂宇を建立。
現在のお堂は、本殿は、寛文4年(1664)に加賀藩主·前田利常の息女で広島藩主·浅野光晟に嫁いだ自昌院の寄進によって造営されたもので、拝殿と幣殿(相の間)は、元禄13年(1700)に増築されました。
また境内には武芳稲荷堂、法不動堂、樹齢600年以上といわれる東京都指定天然記念物の大公孫樹などもあります。
境内に立つ鬼子母神像。
鬼子母神は、インドで訶梨帝母(カリテイモ)と呼ばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、多くの子供を産んだと伝えられています。
しかし、その性質は暴虐で、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れられていました。
お釈迦様は、その過ちから帝母を救おうと、彼女の末の子を隠しました。
帝母は嘆き悲しみ、そこではじめて自分が犯した過ちを悟り、お釈迦様に帰依して、その後、安産・子育ての神となることを誓って、人々に尊崇されるようになったといわれています。
※雑司ヶ谷鬼子母神は、鬼形ではなく菩薩形の美しい姿をしているため、角(ツノ)のつかない「鬼」の字を用いています。
鬼子母神堂では、境内にある、創業1781年の上川口屋で駄菓子を購入。
雑司ヶ谷鬼子母神堂の次は、大鳥神社へ。
大鳥神社は、豊島区雑司が谷3丁目に鎮座する、日本武尊を御祭神とし、倉稲魂命を配祀する神社で、雑司が谷七福神の恵比壽神。
由緒は、もと「鷺明神」と称し、正徳年間(1711~1716)に鬼子母神境内に創祀。
松江藩主·松平宣維の嫡男が疱瘡に罹ったときには、当地近くにあった松江藩下屋敷で療養中だった嫡男のところに鷺大明神が飛来し、嫡男の命を救ったといいます。
その後、明治政府の神仏分離政策により、鬼子母神大門ケヤキ並木の料亭·蝶屋敷地内に「大鳥神社」と改称して仮遷座。
これを憂いた旧幕臣·矢嶋昌郁が宅地を社地として奉献してから、境内地が次第に拡張され、現状となりました。
大鳥神社の次は、七曲りの水へ。
七曲りの水は、豊島区雑司が谷3丁目にある井戸広場。
「井戸広場」とは南池袋地区内に残っている井戸を保全し、災害時の水として利用できるように整備したもの。
防災生活圏促進事業の中でまちづくりの会の発案によって行われたまちづくりの成果の一つで、「七曲り」とは、鬼子母神の参道から大鳥神社に抜ける路地の名称。
この七曲りの中ほどに昔から近所で共同井戸として使われていた井戸を整備し、「まちづくり井戸 七曲りの水」ができました。
七曲りの水の次は、並木ハウスへ。
並木ハウスは、豊島区雑司が谷3丁目にあるアパート。
建物は昭和28年(1953)築で、木造モルタル2階建て。
戦後のアパート建築として典型的な仕様となっていますが、現在では希少な存在。
漫画家の手塚治虫氏が昭和29年(1954)から昭和32年(1957)まで住んでいた建物で、歴史的、建築的価値により、平成30年(2018)に国の登録有形文化財に指定されました。
並木ハウスの次は、雑司が谷案内処へ。
雑司が谷案内処は、豊島区雑司が谷3丁目にある、雑司が谷の観光案内や地域交流の拠点施設。
平成22年(2010)に、並木ハウスアネックス(※)内に開設された施設で、1階が案内・休憩コーナー、2階は展示ギャラリーになっており、施設の管理は、公益財団法人としま未来文化財団が豊島区から受託して担っています。
※昭和7年(1932)築。「砂金家長屋」の名称で平成30年(2018)に国の登録有形文化財に指定。
雑司が谷案内処の次は、千登世橋へ。
千登世橋は、橋上に目白通りを通し、明治通りと立体交差になっている跨道橋。
東側に連続する千登世小橋で都電荒川線を跨いでいます。
竣工は昭和7年(1932)で、幹線道路同士の立体交差としては都内で最初期のもの。
今なお現役で土木技術的価値も高いため、「東京都の著名橋」の一つに選ばれており、橋上には、来島良亮(1885~1933/大正・昭和前期の土木技術者、東京府土木部長)を称える記念碑と平成2年(1990)改修時のプレートがあります。
こちらでは、千登世小橋の上から、都電荒川線をチェック。
千登世橋の次は、のぞき坂へ。
のぞき坂は、豊島区高田2丁目にある坂で、豊島区立高南小学校の西側を南北に伸びる区道の坂道部分の通称。
東京都内で自動車通行が可能な道路としては、傾斜・延長距離ともに最急の一つに数えられ、道路標識は22%勾配と表示。
都区内でも有数の勾配を持つ特徴的な坂であることから、アニメーション作品等の舞台として描かれることがあります。
のぞき坂の次は、切手の博物館へ。
切手の博物館は、豊島区目白1丁目にある、一般財団法人水原フィラテリー財団が運営する切手関係専門のミュージアム。
日本及び外国切手約35万種、ステーショナリー類約15,000枚、切手関連の書籍・カタログ約13,000冊、切手関連の雑誌・オークション誌約2,000タイトルを所蔵する博物館で、昭和63年(1988)に、切手収集家·水原明窗が運営母体·財団法人フィラテリーセンターを設立し、代々木にあった郵趣会館内に仮オープンした後、平成8年(1996)4月、目白に移転し、グランドオープン。
博物館は、郵便切手文化に関する資料を収集・保存し、研究調査を行うとともに広く一般に公開し、郵便切手文化の振興と発展に寄与することを目的としており、郵便切手の持つ魅力や面白さを伝えるため、さまざまな企画展、特別展、体験ワークショップなど、多岐にわたる公益事業を行なっています。
こんなふうに、あちこちご案内して、目白駅でお散歩終了。
その後、ご希望されたメンバーさんと軽く打ち上げをして解散となりました。
ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。
それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。
東京お散歩教室