住吉~門前仲町散歩 1月8日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第164回 住吉~門前仲町散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は住吉駅から。

 

まずは、福どらへ。

 

 

福どらは、江東区住吉2丁目にある、16種類のどら焼きがウリの人気和菓子店。

こちらで、散歩中に食べるおやつを購入。

 

続いて、猿江神社へ。

 

 

猿江神社は、江東区猿江2丁目に鎮座する、天照大御神と宇迦之御魂神を御祭神として祀る神社。

創立の年代は不詳ですが、康平年間(1058~1065)の創建といわれ、もとは稲荷社として信仰を集めており、社名の「猿江」の由来は、源頼義・義家父子の奥州遠征において、家臣の「猿藤太」が、この地の入江で力尽きて亡くなり、地元の漁師たちが当社の境内に塚を建て、手厚く葬り、これに因んで、猿藤太の「猿」と入江の「江」の字を取り結び「猿江」の社名になったといいます。

また社殿は、大正12年(1923)の関東大震災で旧社殿が焼失したため、昭和6年(1931)に鉄筋コンクリート造で再建。

その甲斐あって、昭和20年(1945)の東京大空襲では、焼失を免れることができました。

そして、昭和21年(1946)に伊勢大御神を合祀し、「猿江稲荷神社」より社名を「猿江神社」と改称。

現存する「稲荷神社」の社号碑はこれを今に伝えています。

 

猿江神社の次は、扇橋閘門へ。

 

 

江東区は、東側が地盤が低く、西側が高い地形になっていて、扇橋閘門は小名木川の中間に当たる新扇橋と小松橋間に位置し、東西の水位差を調節して船舶の航行を可能にしている施設。

30億円の事業費と5年3ヵ月の歳月を費やし、昭和52年(1977)に築造されたもので、パナマ運河と同じ方式を採用しています。

 

扇橋閘門の次は、小名木川クローバー橋へ。

 

 

小名木川クローバー橋は、江東区猿江・大島・北砂・扇橋の4地区を小名木川と横十間川の合流点で結ぶ、歩行者と自転車専用の橋で、橋の真ん中には四つ葉のクローバーが描かれています。

この橋は、地域社会に快適な生活と、人と文化の交流を提供できるランドマークとして計画され、平成6年(1994)12月に完成。

現在はドラマのロケ地としても利用されています。

 

小名木川クローバー橋の次は、横十間川親水公園へ。

 

 

横十間川親水公園に着いたところで、早速一回目のおやつタイム。

福どらで買ったどら焼きをみんなで食べました。

 

おやつタイム終了後は、東京大空襲・戦災資料センターへ。

 

 

東京大空襲・戦災資料センターは、江東区北砂1丁目に所在する、民間の学術研究機関である公益財団法人政治経済研究所付属の戦争博物館。

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月10日未明、約300機のB29による下町地区を中心とする無差別爆撃の罹災者は100万人を超え、推定10万人もの命が失われました。

また東京都全体では100回以上も空襲にさらされ、市街地の6割を焼失。

民間の「東京空襲を記録する会」は、この空襲や戦災に関する文献・物品を広く収集。

政治経済研究所は、これらの資料を保存し、都民が被った戦争の惨禍を次代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つ場をつくりたいと願い、「記録する会」とともに民間募金を呼びかけました。

すると4,000名を超える方の協力があり、平成14年(2002)3月9日、戦禍の最も大きかったこの地に、当センターが完成しました。

 

 

東京大空襲・戦災資料センターの見学が終わったところで記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

東京大空襲・戦災資料センターの次は、再び横十間川親水公園へ。

 

 

横十間川親水公園は、江東区内を流れている横十間川の多くの部分を埋め立てて、昭和59年(1984)に開園した区立の親水公園。

総延長約1.9㎞、面積は約50,583㎡あり、貸しボート場や水上アスレチック、野鳥の島、また花菖蒲園や田んぼのある「生物の楽園」などがある他、ボランティア団体「和船友の会」による木造和船の運行もあり、櫓漕ぎを体験することもできます。

 

横十間川親水公園の次は、仙台堀川公園へ。

 

 

仙台堀川公園は、江東区内を流れている仙台堀川の多くの部分を埋め立てて造られた区立の親水公園で、総延長約3.7㎞、面積は約103,850㎡あります。

仙台堀川は、江戸時代、沿岸に仙台藩伊達氏の蔵屋敷があったことからその名がつき、仙台堀川が流れる区部東部は特に地盤が低く、「天井川」で常に水害の危険にさらされていた地域でした。

そのため防災性を考慮し、緑に重点を置き「区民の森」として公園を造成。

園内には、桜並木、花の小径、サイクリングロード、多目的広場、親水池などに加え、彫刻や護岸ギャラリーなど、芸術作品も多く配置されています。

 

仙台堀川公園の次は、木場公園へ。

 

 

木場公園は、江東区にある面積約238,711㎡の都立公園。

木場は、江戸から昭和にかけて、江戸・東京へ材木を供給して栄えてきた「材木のまち」で、昭和44年(1969)には、江東再開発構想のなかの防災拠点の一つとして位置づけられ、木材関連業者が現在の新木場へ移転したのを機に、水と緑の森林公園として整備されました。

また、昭和52年(1977)には、昭和天皇御在位五十年記念公園に国が指定。

公園は、葛西橋通り、仙台堀川によって南、中、北の3地区に分けられており、木場公園大橋が各地区を連絡。

主な施設は、テニスコート、バーベキュー広場、東京都現代美術館、ドッグラン、都市緑化植物園、木場ミドリアムなどがあります。

 

 

木場公園で二回目のおやつタイム。

売店で売られている、こちら限定の角乗りチュロスなどを買って、一息つきました。

 

木場公園の次は、木場親水公園へ。

 

 

木場親水公園は、江東区木場にある、平成4年4月1日に開園した総延長約0.9㎞、面積約18,912㎡の区立公園。

江戸情緒を感じさせる木場の面影を再現した公園で、絵巻のモニュメント、石積みの掘割、木製の太鼓橋、岸辺の燈籠、筏を操る川並の像、和船など、江戸の昔にタイムスリップしたような雰囲気を漂わせています。

 

木場親水公園の次は、八幡橋(旧弾正橋)へ。

 

 

八幡橋(旧弾正橋)は、江東区富岡にある、東京市で最初に架けられた国指定重要文化財の鉄橋。

橋は明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した長さ15.2m、有効幅員2mの単径間アーチ形式の鉄橋で、もとは京橋区(中央区)の楓川にかけられ「弾正橋」と称しましたが、大正2年(1913)の市区改正事業により、新しい弾正橋が架けられたため、「元弾正橋」と改称。

その後、関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和4年(1929)5月に現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣りであるので「八幡橋」と改めました。

材質はアーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋であり、かつ独特な構造手法で施工。

この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁技術史上価値の高い橋です。

 

八幡橋(旧弾正橋)の次は、富岡八幡宮へ。

 

 

富岡八幡宮は、江東区富岡1丁目に鎮座する、応神天皇ほか8柱を御祭神として祀る神社。

由緒は、寛永4年(1627)、当時「永代島」と呼ばれていた現在地に御神託により創建。

その際、周辺の砂州一帯を埋め立て、60,508坪(約20万㎡)の社有地を得、江戸時代は、源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、町民層にも「深川の八幡様」と親しまれ、「江戸最大の八幡様」として知られました。

また明治維新に際しては、朝廷が当宮を准勅祭社に指定。

現在は東京十社の一社に選ばれており、8月の祭礼は「深川八幡祭り」と呼ばれ、日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。

 

 

また、富岡八幡宮は、江戸勧進相撲発祥の地としても有名です。

江戸時代の相撲興行は京・大阪から始まりますが、トラブルが多く、しばしば禁令が出ていました。

その後、禁令が緩み、貞享元年(1684)幕府の許しにより、春と秋の2場所の勧進相撲が開催されます。

その場所が富岡八幡宮の境内でした。

以降、約100年間にわたって本場所が行われます(後に本場所は本所回向院に移行)。

そうしたことから、新横綱誕生の際の奉納土俵入りなどの式典が執り行われるほか、横綱力士碑・大関力士碑など、相撲にまつわる数々の石碑が立っています。

 

 

横綱力士碑・大関力士碑を見た後、伊能忠敬像と三等三角点「富岡八幡宮」をチェック。

この像は、平成13年(2001)、境内大鳥居横に建立されたもので、江戸時代後期の測量家である伊能忠敬は、50歳を過ぎてから天文学、測量術を学び、深川黒江町(現在の門前仲町1丁目)に住み、遠国の測量に出発する際は、必ず富岡八幡宮に参拝していたといわれています。

そこから、ゆかりの地である富岡八幡宮に銅像が建てられました。

また銅像の横には、新地球座標系に準拠した国内第1号の三等三角点「富岡八幡宮」も設置されていて、写真のモニュメントは、カーナビゲーションなどに使われているGPSの基準点にもなっています。

 

富岡八幡宮の次は、成田山東京別院深川不動堂へ。

 

 

成田山東京別院深川不動堂は、江東区富岡1丁目にある真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院。

通称「深川不動尊」、「深川不動堂」と呼ばれています。

江戸時代、元禄年間(1688~1704)は江戸市民を中心に不動尊信仰が急激に広まりました。

それにより、成田山新勝寺は信徒数も増え、いよいよ成田山の不動明王を江戸で拝観したいという町人の気運が高まり、ついに元禄16年(1703)、江戸で1回目の成田不動の出開帳(秘仏特別公開)が富岡八幡宮の別当•永代寺で行なわれました。

これが深川不動堂の始まりです。

明治に入ると、永代寺は神仏分離令によって廃寺(後に再興)となり、旧境内は深川公園になりました。

しかし、不動尊信仰は止むことがなく、明治11年(1878)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、深川不動堂として存続することが東京府より認められ、明治14年(1881)には本堂が完成。

その後、関東大震災、東京大空襲と、本堂は2度にわたって焼失しますが、本尊(大日大聖不動明王)は焼失を免れました。

そして、昭和26年(1951)、千葉県本埜村(現在の印西市)の龍腹寺にあった地蔵堂を深川に移築して本堂とし、深川不動堂は甦りました。

さらに、平成14年(2002)には内仏殿が落慶し、平成24年(2012)9月には外壁に梵字(不動明王真言)を散りばめた新本堂が落慶しました。

 

こんなふうにあちこち訪ね歩いて、門前仲町駅でお散歩は終了。

 

その後、有志のメンバーさんと懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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