御成門~虎ノ門散歩 11月27日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第163回 御成門~虎ノ門散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は御成門駅から。

 

まずは、有章院霊廟二天門へ。

 

 

有章院霊廟二天門は、港区芝公園3丁目にある重要文化財。

現在の東京プリンスホテル敷地には、戦前、六代将軍•徳川家宣の文昭院霊廟と並んで、七代将軍•徳川家継の有章院霊廟がありました。

二天門は有章院霊廟の惣門で、霊廟は八代将軍•徳川吉宗が享保2年(1717)に建立しましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲によって焼失。

焼け残った二天門は銅板葺き、切妻造りの八脚門で、左右に広目天、多門天が祀られています。

 

有章院霊廟二天門の次は、「ル・パン・コティディアン 芝公園店」へ。

 

 

「ル・パン・コティディアン 芝公園店」は、ベルギー発祥のベーカリーレストラン。

今回は出発して早々におやつタイム。

当初は公園で食べる予定でしたが、タイミングよくお店のテラス席が空いたので、こちらでパンをいただきました。

 

「ル・パン・コティディアン 芝公園店」の次は、青松寺へ。

 

 

途中、芝公園4号地から東京タワーをチェック。

 

 

青松寺は、港区愛宕2丁目にある、萬年山と号し、釈迦牟尼仏を本尊として祀る曹洞宗の寺院。

江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺(青松寺、泉岳寺、総泉寺)の1つで、太田道灌が雲岡舜徳を招いて文明8年(1476)に創建。

開山当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)にありましたが、徳川家康による江戸城拡張に伴い、現在地に移転。

境内に「獅子窟学寮」を擁し、幾多の人材を輩出した青松寺は、明治8年(1875)、学寮内に「曹洞宗専門学本校」を開校。

翌明治9年(1876)、曹洞宗専門学本校は文京区駒込にある吉祥寺に移転し、学寮「旃檀林」と合併。

これが後の駒澤大学の前身となりました。

 

青松寺の次は、愛宕神社へ。

 

 

愛宕神社は、港区愛宕1丁目にある愛宕山(標高約26m、自然の地形としては23区内で一番高い)の山頂に鎮座する神社。

火産霊命を主祭神として祀り、他に罔象女命・大山祇命・日本武尊を配祀。

創建は慶長8年(1603)、徳川家康が幕府を開くにあたり、江戸の防火・防災の守り神として奉斎したのが始まりで、慶長15年(1610)には、社殿をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等が、将軍家の寄進によって建立。

祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。

その後、江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に社殿は焼失しますが、氏子中の寄付により、昭和33年(1958)に本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。

また、愛宕神社には、数々の有名なエピソードが残っています。

まず、境内にある急な石段(男坂)は「出世の石段」と呼ばれ、これは、寛永11年(1634)、三代将軍・徳川家光が増上寺参詣の帰りに、当社の下に差し掛かり、愛宕山に咲く源平咲きの梅を見て「誰か馬にて取って参れ」と家来に命じたものの、石段の険しさに誰もが尻込みしていたところ、讃岐国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬で駆け上がり、境内に咲き誇る源平咲きの梅を手折って、将軍に献上しました。

家光は曲垣平九郎を「日本一の馬術の名人」と称賛。

彼の名はたちまち全国にとどろき、石段は「出世の石段」と呼ばれるようになりました。

続いて、万延元年(1860)に起きた「桜田門外の変」のときは、当社は水戸の浪士たちの集合場所になっており、彼らは神前で祈念をした後、桜田門へ出向き、大老井伊直弼を討ち、目的を果たしました。

そして、明治元年(1868)には、勝海舟が西郷隆盛を誘い、愛宕山の上で江戸市中を見渡しながら会談し、江戸城を無血開城へと導きました。

このように、こちらでは後世に語り継がれる様々な事件が起きています。

 

愛宕神社の次は、NHK放送博物館へ。

 

 

NHK放送博物館は、港区愛宕2丁目にある日本放送協会(NHK)が運営する博物館。

NHK発祥の地である愛宕山(※)に世界初の放送専門ミュージアムとして、昭和31年(1956)に開館。

玉音盤など約3万件を超える音声・映像資料を所蔵し、それぞれの時代のラジオ受信機やテレビ受像機を展示。

各機材の動態保存(通電すれば作動する状態で保存・展示すること)に努めています。

 

※NHKの前身の一つである東京放送局が、愛宕山に放送局を置き、大正14年(1925)7月にラジオ本放送を開始しました。

 

 

博物館見学後、建物の前で記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

NHK放送博物館の次は、栄閑院へ。

 


途中、昭和5年(1930)に完成にした愛宕隧道を通過。

 

 

栄閑院は、港区虎ノ門3丁目にある、久遠山と号する阿弥陀如来を本尊として祀る浄土宗の寺院。

江戸時代初期、近くにある天徳寺の塔頭として創建された寺で、栄閑院は、寛永年間(1624~1644)、猿まわしの泥棒が寺の住職によって改心し、猿を残して諸国行脚の巡礼に旅立ち、残された猿が寺の飼い猿として可愛がられた逸話から「猿寺」と呼ばれ、境内の猿の像はこの逸話をもとに建てられたといいます。

また、境内には、杉田玄白(※)の墓があります。

 

※1733~1817。江戸中期の蘭学医で、蘭学の祖。中川淳庵、桂川甫周、前野良沢と4年の歳月をかけ、オランダの解剖書を翻訳し、『解体新書』を刊行。

 

栄閑院の次は、港区立みなと科学館へ。

 

 

港区立みなと科学館は、港区虎ノ門3丁目にある科学館。

我が国最初の公立小学校である東京府小学第一校の流れを汲む旧港区立鞆絵小学校の跡地に、令和2年(2020)6月、「まちに息づく科学の発見と探究」をコンセプトとして開館。

港区に立地する体験学習施設として「まちの科学」(「しぜん」「まち」「うみ」「わたし」)をテーマとした常設展示やプラネタリウムホールでの投影等を通じて、身のまわりにある様々な事象に焦点を当て、その不思議さに気づくきっかけを提供しています。

今回、我々は常設展示コーナーでいろいろな実験装置に触れ、「まちの科学」について学びました。

 

港区立みなと科学館の次は、「気象庁 気象科学館」へ。

 

 

「気象庁 気象科学館」は、港区虎ノ門3丁目にある、令和2年(2020)7月1日に虎ノ門でリニューアルオープンした気象に関する科学館(※)。

気象科学館では、防災の入口として科学的な探求心を育む「予報官体験コンテンツ」や臨場感あふれる360°体感シアターなどのほか、実際に触れて学べる様々な実験装置を展示。

日本の四季・自然・気象を体感しながら防災・減災を学ぶことができる科学館です。

 

※気象庁(国土交通省の外局)も令和2年(2020)11月に港区立教育センターとの合同庁舎に移転。

138年ぶりに明治政府が初めて気象・地震観測を始めたゆかりの深い場所である原点の地、虎ノ門に戻ってきました。

 

「気象庁 気象科学館」の次は、「虎ノ門 金刀比羅宮」へ。

 

 

「虎ノ門 金刀比羅宮」は、港区虎ノ門1丁目に鎮座する、大物主神と崇徳天皇を御祭神として祀る神社。

讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、領内に鎮座する金刀比羅宮の分霊を、万治3年(1660)に三田の江戸藩邸の邸内社として勧請したのが始まりで、延宝7年(1679)に現在地に遷座。

京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わったといいます。

当時は「金毘羅大権現」と称されていましたが、神仏分離令により、明治2年(1869)に「事比羅神社」、そして、明治22年(1889)に、「金刀比羅宮」に改称。

権現造りの社殿は戦災で焼失しましたが、拝殿・幣殿の部分は、昭和26年(1951)に伊東忠太の設計校閲によって再建。

ともに総尾州檜造り、銅板葺きで、日本古来の建築技法が随所に用いられています。

なお、幣殿奥の本殿は、昭和58年(1983)に復興されたもので、鉄筋コンクリート造、銅板葺きとなっています。

また、平成16年(2004)には、虎ノ門琴平タワーが竣工し、施設と一体化した姿に変わりました。

 

「虎ノ門 金刀比羅宮」の次は、領土・主権展示館へ。

 

 

領土・主権展示館は、千代田区霞が関3丁目にある、竹島および尖閣諸島、北方領土等の領有権問題に関する博物館。

日本の領土と主権のうち、島根県隠岐郡隠岐の島町の竹島と沖縄県石垣市の尖閣諸島、北海道の北方領土の主権問題についての国民世論の啓発、国際社会に向けた発信の一環として、説明資料等を展示するために政府の内閣官房領土・主権対策企画調整室が日比谷公園の市政会館内に平成30年(2018)1月25日に開設(※)。

竹島と尖閣諸島が歴史的にも国際法上も日本の領土であることの根拠や、韓国・中国及び台湾の主張に対する反論を説明するパネルや証拠資料(複製)のほか、政府が法と対話による問題解決を目指す立場にあることの説明などを展示しています。

 

※現在地での一般公開は令和2年(2020)1月21日からで、以前に比べて展示面積が約7倍になり、これまで少なかった北方領土の展示も大幅に増加しました。

 

領土・主権展示館の次は、溜池櫓台跡へ。

 

 

溜池櫓台跡は、千代田区霞が関3丁目にある、江戸城外堀に3つ設けられた隅櫓のうちの1つ。

江戸城隅櫓はいずれも主要な道に面した場所に造られており、残る2つの隅櫓は、筋違門(現在の千代田区神田須田町1丁目)と浅草門(浅草橋門)に所在していましたが、どちらも取り壊されていて、唯一この石垣だけが現存。

ただし、この櫓台も、以前は西側に溜池落口の櫓がもう1つあり、一対だったようで、一対の溜池櫓台は、寛永13年(1636)に因幡鳥取藩の藩主•池田光仲によって構築されたという記録が残っており、かつて、この地点は近世初期には外桜田門を起点とする小田原道が通り、溜池上水の起点にもなるなど、江戸城の防備と都市政策の両方にとって重要な地域でした。

また、地形の上でも、この地点は西側に広がっていた溜池一帯を見下ろすことができる位置にありました。

溜池及び周辺の堀は明治時代に埋められましたが、近隣の文部科学省構内には3か所の石垣が残っており、かつての外堀の姿を偲ぶことができます。

 

溜池櫓台跡の次は、「江戸城外堀跡 地下展示室」へ。

 

 

「江戸城外堀跡 地下展示室」は、千代田区霞が関3丁目にある展示施設。

江戸城は、慶長9年(1604)から寛永13年(1636)にかけて造られた近世最大の城郭。

なかでも江戸城外堀は、築城の最終にあたる大工事で、これによって城下町を取り囲む延長14㎞の惣構が天下普請により完成しました。

展示室から見える石垣は、寛永13年(1636)に築かれたものですが、部分的に不揃いな積み方があることから、幾度も改修されたと考えられます。

また、石垣表面には石を割った矢穴や構築大名を示す刻印がみられます。

もともとこの堀は、石塁として高さ9mほどの石垣が続いていましたが、現在はその一部が点在して残るだけで、ここでは、長さ20m、高さ7.4mの石垣をすべて保存したうえで一部埋め戻して、変形をきたした石垣を伝統技法によって旧態に戻す解体修理を実施。

この展示室と旧庁舎中庭の石垣では、外堀の根底及び推定される水面の高さを表示し、正面の石垣は水面からそびえる石垣の姿を再現。

当敷地内では3カ所で石垣を公開するとともに、石垣のラインを表示し、これによって、江戸城外堀跡と現代の街区との比較が現地で確認できます。

なお、積替の石は同じ外堀の丸の内一丁目遺跡のものを使用しました。

 

「江戸城外堀跡 地下展示室」の次は、江戸城外堀跡へ。

 

 

江戸城外堀跡は、千代田区霞が関3丁目にある国の史跡。

この石垣は、合同庁舎整備に伴い平成16年度に実施した遺跡発掘調査によって発見。

遺跡は、江戸城外郭門の一つ虎ノ門と溜池に挟まれた江戸城外堀の一角にあたり、外堀に面した石垣が地下に点在して約70m残っていたことが明らかとなりました。

近代以降の市街地化によって埋められたこの地域の外堀にあって、これらの石垣は、江戸城の構造を知るうえで貴重な遺構として、国の史跡に指定。

庁舎整備後に合わせてこれらは保存され、敷地内3カ所で公開するとともに、点線で外堀の位置を示しています。

また、正面には、長さ33.5m、高さ4.5mの石垣を部分的に公開しています。

 

こんなふうにあちこち訪ね歩いて、虎ノ門駅でお散歩は終了。

 

 

その後、全員で懇親会を開いて、いろんな話題で盛り上がり、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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