大塚~白山散歩 11月6日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第162回 大塚~白山散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は大塚駅から。

 

 

まずは、大塚の老舗和菓子店「千成もなか本舗 大塚店」に行って、おやつを調達。

 

続いて、大塚天祖神社へ。

 

 

大塚天祖神社は、豊島区南大塚3丁目に鎮座する、天照大御神を御祭神として祀る神社。

由緒は、鎌倉時代末の元亨年間(1321~1324)に、領主の豊島景村が伊勢の皇大神宮の御分霊を迎えて祀ったのが始まりとされ、明治6年(1873)に天祖神社と改称されるまでは、「神明社」や「神明宮」と呼ばれ、旧巣鴨村の総鎮守として崇敬を集めました。

また、境内には社殿や社務所の他、稲荷社、三峯社、榛名社、熊野社、菅原社、厳島社といった境内社、「縁結びの大イチョウ」として知られる推定樹齢600年のご神木「夫婦鴨脚樹」、子供に授乳している姿が珍しい「子育て狛犬」、サンシャインシティーから分割奉納された「さざれ石」などがあります。

 

大塚天祖神社の次は、大塚バラロードへ。

 

 

大塚バラロードは、豊島区南大塚3丁目、東京さくらトラム(都電荒川線)の大塚駅前から向原停留所まで、都電沿線700mにわたるバラの小径。

国内外の700種1190株のバラが植えられているこの小径は、地域住民による団体「南大塚都電沿線協議会」が管理。

かつて、この線路沿いは、まるでゴミ捨て場のような状態で「大塚をもっときれいで、活気ある街にしたい」という地域住民の声が高まり、平成20年(2008)に南大塚都電沿線協議会が発足。

協議会のメンバーでごみ拾いを始めたところ、線路沿いにバラが100本植えられているのが見つかりました。

これは当時より30年前に豊島区の公園緑地課が街の美化のために植えたもので、そんなバラを見つけた協議会のメンバーは、線路沿いにもっとバラを植えて「バラロード」を作る案を思いつき、区の公園緑地課に相談。

プロジェクトの実行が決まり、平成22年(2010)にバラの植樹が開始されました。

また、通常バラは年に一度だけ花を咲かせる「一季咲き」のものが多いのですが、バラロードには、なるべく長い期間、楽しんでもらいたいという協議会メンバーの想いから四季咲きのバラが植えられています。

そんな計らいのおかげで、5月頃に花が咲き始めると、その美しい景色は12月の終わり頃まで見ることができます。

 

大塚バラロードを歩いた後は、鈴木信太郎記念館へ。

 

 

鈴木信太郎記念館は、豊島区東池袋5丁目にある区指定有形文化財。

鈴木信太郎記念館は、20世紀前半の日本のフランス文学研究黎明期に、フランス文学・語学の研究体制を確立し、研究者及び教育者として活躍した鈴木信太郎(1895~1970)の旧宅を改修・整備したもので、信太郎はステファヌ・マラルメなどの19世紀象徴派の詩人や、ヴィヨンを中心とする中世文学を研究し、フランス文学者として功績を遺す一方、稀覯本蒐集家としても知られ、記念館では、その蒐集資料のうち18世紀にフランスで刊行された辞書類や、谷崎潤一郎をはじめ、信太郎と交流のあった文学者からの謹呈本など、貴重な書籍を所蔵しています。

また、旧宅は、昭和3年(1928)建築の書斎棟、昭和21年(1946)建築の茶の間・ホール棟、明治20年代の建築で昭和23年(1948)に現在の埼玉県春日部市の鈴木本家から移築した座敷棟の全3棟からなり、大谷石の擁壁の上に所在。

建物は池袋という都市化された住宅街において、歴史的建造物としての希少性が高いため、平成24年(2012)に「旧鈴木家住宅」として区指定有形文化財に選定されました。

そして、記念館では、鈴木信太郎の研究業績と蒐集資料及び旧宅を紹介し、彼の功績を顕彰。

さらに、当地が日本のフランス文学研究発祥の地であることを発信しています。

 

 

今回は、予約を入れて学芸員さんに案内を依頼。

おかげで、ためになるお話をたくさん聴けた上、通常一般公開していない書斎棟の2階部分まで見学せていただきました。

 

 

見学終了後、座敷棟の縁側で記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

 

鈴木信太郎記念館を出た後は、私お気に入りの階段坂&極細路地を通過して、パティスリークルールへ。

 

 

パティスリークルールは、独創性溢れる南大塚のスイーツ店。

クロワッサンなどのパンも扱っていて、こちらでもおやつを購入し、大塚公園へ。

 

 

途中、少しだけ遠回りして、文京区大塚5丁目にある、私お気に入りの階段坂を通過。

 

 

大塚公園は、文京区大塚4丁目に所在する区立公園。

公園の歴史は、嘉永年間(1848~1854)、このあたり一帯は、松平長門守の下屋敷が設けられており、その後、明治29年(1896)に東京市立養育院(現:東京都健康長寿医療センター)が、この地に移転。

そして、関東大震災が起こると、罹災した傷病者救護のため、東京市は東京市立養育院を大塚簡易療養所として使用し、東京市立養育院は板橋町(現:板橋区栄町)に移転しました。

そして、大正15年(1926)、東京市は、この地に市立病院(現:東京都立大塚病院)、婦人授産場、隣保館、託児並び児童健康相談所を設立。

このとき、取得した土地(4,028坪)が、利用しにくい崖地と窪地であったため、東京市公園課長•井下清が、市街地の画期的な公園とすべく、欧米風の設計施工を行ない、昭和3年(1928)3月31日に開園。

60年後の昭和63年(1988)から平成3年(1991)に大規模な改修が行われ、この改修で「みどりの図書室」が設置されました。

 

 

園内に祀られている大塚子育地蔵尊。

こちらは、年代が判明しているものは、文字塔が延宝2年(1674)、地蔵が寛文5年(1665)、観音が延宝6年(1678)。

往時の里人が豊作と子孫安楽を祈願し奉造したものであり、大塚辻町(現:大塚5丁目)の路傍に置かれていたものが、昭和20年(1945)、第二次世界大戦の戦火で被災し、その後、大塚公園に移されました。

 

 

露壇。

露壇とはテラスのこと。

この露壇は昭和3年(1928)に造られ、長い年月の間に老朽化が進みましたが、平成元年(1889)、開園当時の姿に復元されました。

なお、文京区の公園では、大塚公園の他、元町公園(昭和5年開園)にも同様のデザインが見られます。

 

 

園内に祀られている住好稲荷社。

こちらは、御祭神は、宇加之御魂大神・豊川荼枳尼天・住好稲荷権現。

創建は明治43年(1910)6月。

当社はかつて松平家の下屋敷に邸内社として鎮座していたもので、久蔦作左衛門が祀っていたといい、明治43年(1910)に、町の人によって復興。

その後、当地は東京市の所有となり、社も残され、戦後は文京区の管理となり、荒廃するも地元崇敬者が集って勧請し、継承社の復興に努力し今日に至ります。

また、開運火防を始めとして、交通安全、事業繁栄、招福除災、学業増進、諸願成就等の御神徳があるといわれています。

 

 

ラジオ体操発祥の地の像。

文京区のラジオ体操は、昭和4年(1929)1月15日に大塚仲町(現:大塚4丁目)の本伝寺境内に町内有志が集まったのが始まりで、その後、隣接各町会の有志が合流し、3月27日、会場を当地に移し、大塚公園ラジオ体操会と称しました。

 

 

園内の見どころを巡った後は、おやつタイム。

「千成もなか本舗 大塚店」で買っておいた和菓子やパティスリークルールで買ったスイーツやパンを頬張って一息つきました。

 

大塚公園の次は、教育の森公園へ。

 

 

教育の森公園は、文京区大塚3丁目に所在する区立公園。

かつてこの地は、徳川光圀の弟•松平頼元が万治2年(1659)に屋敷を構えたところで、その子の松平頼貞は陸奥守山藩主(郡山市)や大学頭などの要職を歴任。

広大な屋敷の中には、「占春園」と呼ばれた庭園が造られ、江戸の名園の一つに数えられました。

そして、明治36年(1903)、それまで湯島にあった東京高等師範学校(後の東京教育大学)が当地に移転。

さらに、東京教育大学(現在の筑波大学)が昭和53年(1978)に筑波に移転(※)したことにより、跡地を文京区が国から払い下げを受けて、昭和61年(1986)に公園を開園。

園内には文京スポーツセンターなどの施設があります。

 

※完全に移転したわけではなく、一部にキャンパスも残存(筑波大学 東京キャンパス)。

 

教育の森公園の次は、カイザースラウテルン広場へ。

 

 

カイザースラウテルン広場は、文京区大塚3丁目にある窪町東公園の飛び地広場。

もともとは植え込み地でしたが、隣接する区道と一体的に整備が行われ、ヨーロッパの開放的な都市広場をイメージした石張り舗装の広場が平成5年(1993)に誕生しました。

広場には「彫刻のあるまちづくり」事業の一環として、文京区とドイツのカイザースラウテルン市との「姉妹都市提携」のシンボルとなる彫刻を設置。

一角獣を中心とした「神話空間への招待」(※)というタイトルの作品は、カイザースラウテルン市出身の彫刻家ゲルノト・ルンプフ、バルバラ・ルンプフ夫妻の共同制作によるもので、「日本の子どもたちを、ドイツのおとぎ話の世界へ案内したい」という夫妻の想いが込められています。

 

※一角獣は、ヨーロッパ神話の主役として「偉大な力」を象徴。

魚は、カイザースラウテルン市の紋章にもあり、「幸運のシンボル」とされ、日本人に親しみのある鯉のイメージを重ねており、魚の頭部には「フリードリッヒI世」の頭像が付けられています。

アンモナイトは、「地球が発展してきた歴史の期限」や「日本文化の源」を象徴。

裏側は「日本のテクノロジーとその急速な発展」を表しています。

 

カイザースラウテルン広場の次は、「デカダンス ドュ ショコラ 茗荷谷店」へ。

 

 

「デカダンス ドュ ショコラ」のデカダンスは、フランス語で「退廃」を意味する言葉。

ロゴマークには、チョコレートに魅せられ虜となったある女性の姿が描かれています。

こちらでは、そんな大人の舌を麻痺させるチョコレートをお土産に購入しました。

 

デカダンス ドュ ショコラでお土産を買った後は、湯立坂へ。

 

 

湯立坂は、昔、この坂下には川があって簸川神社に渡ることができなかったため、神社の氏子は川の手前で湯花(※)を捧げたため、この名がついたといいます。

ちなみに、この坂は、その景観の良さから『タモリのTOKYO坂道美学入門』でも高評価を受けた文京区の名所で、坂上には、実業家•磯野敬(1868~1925)が建設した住宅で、銅板葺の屋根や銅板が張り巡らされた外観から通称「銅御殿」として知られ、主屋及び表門の2棟が国の重要文化財に指定されている「旧磯野家住宅」があります。


※お湯が沸騰した時に上がる泡のこと。神社で巫女などがこれを笹の葉につけ、参詣人にかけ浄めました。この儀式を「湯立」と呼びます。

 

湯立坂を下った後は、占春園へ。

 

 

占春園は、文京区大塚3丁目にある自然観察園。

この辺りは、幕末までの200年ほどの間、徳川光圀の弟を藩祖とする陸奥守山藩松平家の上・中屋敷の地で、占春園は、この屋敷内にひらかれた、当時、青山の池田邸、溜池の黒田邸と合わせて、江戸の三名園の一つに数えられた庭園の名残りです。

そして、明治36年(1903)、東京高等師範学校(戦後の東京教育大学、筑波大学に改組)が、湯島からこの地に移り、占春園は校地の一部となり、現在は筑波大学附属小学校の自然観察園として、同校が管理し、一般にも公開。

園内は、様々な樹木が鬱蒼と生い茂り、その中に「旧守山藩邸碑文」や「嘉納治五郎先生像」があります。

 

占春園の次は、簸川(ひかわ)神社へ。

 

 

簸川神社は、文京区千石2丁目に鎮座する素盞嗚命・大己貴命・稲田姫命を御祭神として祀る神社。

第5代孝昭天皇の御宇3年の創建と伝えられる古社で、もとは小石川植物園の地、御殿坂周辺の貝塚の上に鎮座。

源義家が奥州平定の祈願に参籠したといいます。

そして、元禄12年(1699)に現在の高台に遷座し、巣鴨の鎮守と定められ、江戸名所の一つに数えられました。

また、明治23年11月には、大正天皇(当時皇太子)が小石川植物園に御成りの折、当社に御参拝。

社号は古くは「氷川」を用いていましたが、大正時代、神主•毛利昌教が神社の由緒を出雲国、簸川(ひのかわ)(※)にあるとし、氏子中に諮り「簸川」と改称。

コンクリート造の社殿は、昭和20年(1945)の空襲で焼失後、昭和33年(1958)に再建されたものです。
 

※出雲神話の川。素盞嗚命が八岐大蛇を退治した伝説で知られています。

 

簸川神社の次は、網干坂へ。

 

 

網干坂は、文京区白山3丁目と千石2丁目の境、白山台地から千川の流れる谷に下る坂道。

昔、坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したのだと思われます。

また、明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯で、その後、住宅や工場が増え、大雨のたびに洪水となり、昭和9年(1934)に千川は暗渠になりました。

 

網干坂を上った後、しばらく住宅街を歩き、白山神社へ。

 

 

白山神社は、文京区白山5丁目に鎮座する、菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冊命を御祭神として祀る神社。

由緒は、天暦2年(948)、加賀国一宮•白山比咩神社から勧請を受けて、武蔵国豊島郡本郷元町(現在の本郷1丁目)に創建。

元和年間(1615~1624)に2代将軍•徳川秀忠の命で巣鴨原(現:小石川植物園内)に移りましたが、明暦元年(1655)、その地に館林藩主•徳川綱吉(後の5代将軍)の屋敷が造られることとなり、現在地に遷座。

その縁で綱吉とその母•桂昌院の崇敬を受け、以降、徳川将軍家から信仰されました。

そして、明治初期には准勅祭社に指定され、現在は東京十社の一つに数えられています。

また、白山神社は紫陽花が有名で、通常であれば毎年6月中旬に「文京あじさいまつり」が開催され、境内や隣接する白山公園では、約3,000株の紫陽花を見ることができ、まつりの会期中は富士塚が公開されます。

他にも境内には、複数の摂末社が鎮座する他、「孫文先生座石」(※)などがあります。
 

※石碑の下に置かれた黒っぽい横長の石が孫文(1866~1925)が座った石ということらしく、由緒書によると、それは明治43年(1910)5月中旬のことで、孫文は当時、白山神社近くの小石川原町にあった宮崎滔天(日本で孫文たちを支援して、辛亥革命を支えた革命家)宅に身を寄せており、2人はこの石に腰掛け、中国の将来や革命について語り合い、しかも、その時、夜空に光芒を放つ一条の流星が現れ、孫文は祖国の革命を心に誓ったということです。
(語り合った相手は、滔天の長男•龍介との説もあり、こちらの方が有力といわれています)

 

こんなふうにあちこち訪ね歩いて、白山駅でお散歩は終了。

 

 

その後、ご希望された方々と懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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