武蔵関~田無散歩 10月16日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第161回 武蔵関~田無散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は武蔵関駅から。

 

 

まずは、駅近くにある和菓子店「武州庵 いぐち」でおやつを調達して、井口稲荷へ。

 

 

井口稲荷は、練馬区関町北2丁目に鎮座する稲荷神社。

この稲荷社は、中世、三浦半島に勢力を張っていた三浦氏の系譜に連なる関町付近の井口氏が、代々祀ってきたもので、創建の年代について詳細はわかっていませんが、井口家では「永禄13年(1570)伊豆国伊東の地に、三浦氏(井口氏の出自)の始祖·三浦平太夫為道をはじめ18代の先祖を尊んで、井口但馬守平義久が領主となり、井口稲荷大明神を造立。

その後、慶安2年(1649)、伊東の地より、武蔵国豊島郡関村矢倉台(現在地の当時の地名と推定される)の地に移築され、開堂供養した。云々。」と伝わってきたそうです。

現在の社殿は昭和48年(1973)に移築され、境内には寄進された赤鳥居8基があります。

 

井口稲荷の次は、天祖若宮八幡宮へ。

 

 

天祖若宮八幡宮は、練馬区関町北3丁目に鎮座する神社。

由緒は、奈良時代、当地に武蔵関塞(関所)が設けられたとき、関塞の守護神として奉斎されたといわれ、関塞廃止後、慶長年間(1596~1615)に関村開村のおり、村民の氏神になったといいます。

また、天祖神社は、もとは「番神さま」と呼ばれていましたが、明治維新の神仏分離により天祖神社と改称。

昭和49年(1974)、若宮八幡宮と天祖神社を合祀して天祖若宮八幡宮と呼ぶことになりました。

御祭神は、天祖神社は大日霎女貴命、他に狭依姫命、倉稲魂命を合祀しており、若宮八幡宮は誉田別尊、仁徳天皇を奉斎。

天保14年(1843)に造営された現拝殿は、その後、一部を残して改築されていますが、8,000㎡余の境内には神楽殿、社務所などが整備され、四季の緑に覆われています。

 

天祖若宮八幡宮の次は、武蔵関公園へ。

 

 

武蔵関公園は、練馬区関町北3丁目に所在する、面積約48,966㎡の区立公園で、かつて湧水池であった景勝の地に昭和13年(1938)10月、武蔵野鉄道(現:西武鉄道)並びに武蔵関公園建設協賛会から約14,000坪が公園地として寄付され、東京市立の公園として開園し、昭和53年(1978)4月に練馬区に移管。

富士見池はもともと自然湧水による池でしたが、近年の都市化で湧水はなく、現在は石神井川の水を一時ためて、下流域の洪水を防止する遊水地に。

また、池には芦が茂り、魚の産卵場所となっており、自然樹木と水に恵まれた環境は飛来する野鳥たちの楽園にもなっています。

 

 

武蔵関公園の広場でおやつタイム。

「武州庵 いぐち」で買っておいた和菓子をこちらでいただきました。

 

 

おやつタイムの後は、引き続き武蔵関公園内を散策し、下野谷遺跡公園へ。

 

 

途中、石神井川沿いを歩いていると、前にいる人たちが何やら指をさしているので、見てみるとカワセミが!

皆さん夢中でカメラを向けていました。

 

 

下野谷遺跡公園は、西東京市東伏見6丁目に所在する、面積約3,172㎡の市立公園。

下野谷遺跡を保存・活用するために平成19年(2007)4月に開園した公園で、園内には竪穴住居の骨格復元、出土状況復元、地層状態を表す土層模型が建造されている他、公園中央部には「原っぱ広場」が整備されており、縄文時代の集落の学習を目的にクリやクルミの木も植えられています。

 

 

下野谷遺跡は、武蔵野台地のほぼ中央、石神井川の南岸の高台にある、3万年近く前の旧石器時代から近代に至る長い歴史が刻まれた遺跡で、今から5,000年から4,000年前の縄文時代中期には、石神井川流域の拠点となるような大集落が1,000年間にもわたって存在し、台地のほぼ中央にある浅い谷を挟んで、東西に2つの集落がありました。

東西の集落はいずれも規模が大きく、縄文時代の典型的な集落(環状集落)の構造をしており、こうした複数の集落が隣接する集落は「双環状集落」と呼ばれ、地域の拠点と考えられています。

東西集落の東集落は近年の開発に伴う発掘調査で遺跡の一部が失われていますが、西集落は東集落の豊富な資料を基に、今後も保存と研究が両立できる状態となっており、また、縄文時代中期の集落遺跡の規模としては南関東最大で、特に西集落は、都市部において約25,000㎡の集落全域が保存されている非常に貴重な遺跡として、平成27年(2015)3月10日に国史跡に指定されました。

 

 

初日は下野谷遺跡公園で記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

下野谷遺跡公園の次は、東伏見稲荷神社へ。

 

 

東伏見稲荷神社は、西東京市東伏見1丁目に鎮座する、宇迦御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神を御祭神として祀る神社。

関東地方の稲荷神を信仰する信者たちの希望により、昭和4年(1929)に稲荷神の総本社である京都の伏見稲荷大社から分霊を勧請し創建。

なお、東伏見という地名はこの神社ができてからついた地名で、それにあわせて西武新宿線の駅名も上保谷から東伏見に変更されました。

また、社殿の裏側には「お塚」(お山)もしくは「あらまつりの宮」とも称される18の末社が祀られている斎場があり、本殿・お塚を合わせて参拝することで、表裏そろったお参りになるといわれています。

 

 

東伏見稲荷神社の「お塚」。

たくさんの奉納鳥居が立ち並んでいて、どこか神秘的な雰囲気。

異界に迷い込んでしまったような気さえします。

 

東伏見稲荷神社の次は、東伏見公園へ。

 

 

東伏見公園は、西東京市東伏見1丁目に所在する、平成25年(2013)4月1日に開園した東京都が整備を進めている都市計画公園。

面積約50,200㎡(令和2年4月1日現在)を有し、園内には多目的広場、西武新宿線を跨ぐ陸橋(千駄山(せんだやま)ふれあい歩道橋)、展望が良い東屋、富士山を望む丘と全長約40mのローラー滑り台があり、今後整備を進めていくことで、広場や親水施設を活かしたレクリエーションが楽しめ、災害時には様々な活動の拠点としての役割を果たす公園へと進化する予定です。

 

東伏見公園の次は、六角地蔵石幢へ。

 

 

六角地蔵石幢は、西東京市保谷町4丁目にある市指定文化財。

ほぼ正六角の石柱で、各面の上部に六体の地蔵菩薩立像を浮彫りにし、その下に銘文を施した石幢で、「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養するために、野口助右衛門と秋元十右衛門が、江戸市ヶ谷田町の石工·角田屋に注文して寛政7年(1795)に建立。

また、富士街道と深大寺道が交差するところに立ち、道標を兼ねています。

 

六角地蔵石幢の次は、柳沢庚申塔へ。

 

 

柳沢庚申塔は、西東京市田無町2丁目にある市指定文化財。

享保8年(1723)に、この付近の住民23人によって庚申講が組織され、来世安楽を祈願して建立されたもので、庚申塔の形式は、梵字をはじめ二鶏、三猿、青面金剛、邪鬼が揃えられた代表的な角柱塔。

当時の田無村は交通の要路にあり、青梅街道と所沢道などの分岐点には田丸屋旅館もあり、田無を印象づける著名地点でした。

ここに庚申塔を建て、道しるべの役目を持たせたもので、この地域ではとても古いものでしたが、昭和40年(1965)頃、所沢街道拡幅のため移設され、さらに平成18年(2006)、この場所に移設されました。

 

柳沢庚申塔の次は田無神社へ。

 

 

田無神社は、西東京市田無町3丁目に鎮座する神社。

由緒は、創建は鎌倉時代の正応年間(1288~1293)と伝わり、同社は田無北部の谷戸の宮山に鎮座し、尉殿大権現と呼ばれ、龍神を御祭神としていました。

そして、徳川家康が江戸に幕府を開くにあたり、城や町の建造のために大量の石灰を必要とし、石灰を青梅の地に求め、青梅街道を開きましたが、その際、肥沃な谷戸の住人が南の青梅街道沿いに移住し、宿場町·田無を造営。

この動きの中で、元和8年(1622)、宮山に鎮座する尉殿大権現が上保谷に分祀され、正保3年(1646)、宮山から田無(現在地)に分祀。

寛文10年(1670)、宮山に残っていた尉殿大権現の本宮が田無に遷されました(諸説あり)。

その後、明治5年(1872)、尉殿大権現は熊野神社、八幡神社を合祀して田無神社と社名を改称。

その際、主祭神·大国主命他、須佐之男命、猿田彦命、八街比古命、八街比売命、日本武尊、大鳥大神、応神天皇も祀り現在に至ります。

また、境内は本殿と拝殿が東京都指定有形文化財(建造物)に指定されている他、参集殿は国登録有形文化財、獅子頭が市指定文化財、ご神木が市指定天然記念物等、歴史的・文化的に価値の高いものが複数あります。

 

 

尉殿大権現は、もとは雨と風を司る神様で、現在は五行思想に基づき本殿に級津彦命・級戸辺命(主祭神)として金龍神(社殿)を、境内各所に赤龍神、白龍神、黒龍神、青龍神を配祀し、五龍神として信仰されています。

ということで、我々も拝殿と各龍神様をお参り。

 

 

さらに境内には、撫龍なるものも。

撫龍は龍と玉を撫でると昇運を授かり、財産運上昇や商売繁盛にも良いといわれています。

 

田無神社の次は、総持寺へ。

 

 

総持寺は、西東京市田無3丁目に所在する真言宗智山派の寺院で、山号は田無山。

別名は「田無不動尊」です。

創建年代は不詳ですが、元和年間(1615~1624)に法印権大僧都俊栄和尚が谷戸に法界山西光寺として創建。

慶安年間(1648~1652)に現在地へ移転したといい、江戸時代は尉殿権現社(現:田無神社)の別当寺を務め、明治維新後、近隣の密蔵院、観音寺と合併し、田無山総持寺と改称。

また、総持寺は関東三十六不動尊霊場の第10番札所、多摩八十八ヶ所霊場の第33番札所で、東京百景にも選ばれており、境内に聳え立つケヤキは、田無地域における最大級の単幹樹木として市指定文化財に選定。

このケヤキは、嘉永3年(1850)の本堂建て替え時、落慶を記念して植えられた樹木のうちの1本であると伝えられています。

 

こんなふうにあちこち訪ね歩いて、田無駅でお散歩は終了。

 

 

その後、ご希望された方々と懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

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