穴守稲荷~糀谷散歩 6月5日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の「第159回 穴守稲荷~糀谷散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は穴守稲荷駅から。

 

まずは、コンちゃんをチェック。

 

 

コンちゃんは、大田区羽田4丁目、穴守稲荷駅前に設置されている狐のマスコット。

平成3年(1991)9月に登場した石像で、穴守稲荷神社が衣装の製作者をホームページ上で募集しています。

 

 

続いて、駅近くにある和菓子店「磯崎家」で、後で食べるためのおやつを買って、穴守稲荷神社へ。

 

 

穴守稲荷神社は、大田区羽田5丁目に鎮座する、豊受姫命を御祭神として祀る神社。

由緒は、文化元年(1804)の羽田沖の干拓事業の折り、海が荒れて干拓地の堤防が決壊し、水田が海水による被害を受けたため、村民が堤防の上に祠を勧請。

稲荷大神を祀ったのが穴守稲荷神社の起源とされ、「穴守」という名の由来は、堤防に開いた穴の害から人々を守るという神徳にちなみます。

また、元々は羽田干拓事業を主導した鈴木家の土地にある、小さな祠であったといいます。

そして、明治10年代、小さな祠だったところに社殿が建てられ、穴守稲荷神社として認可。

明治19年(1886)には「穴守稲荷社」から「穴守稲荷神社」へと改称し、さらに周辺で潮干狩りもできることや温泉が湧いたこともあり、門前には温泉旅館や芸者の置屋ができるなど、賑わいを見せていきました。

この繁栄を見て、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)は京浜蒲田から穴守稲荷神社に向けて支線を伸ばし、明治35年(1902)には海老取川の手前まで、次いで大正2年(1913)には川を渡って穴守稲荷門前まで路線を延伸。

穴守駅周辺には京浜電鉄経営の羽田球場や遊園地も開業し、界隈はさらに賑わい、昭和6年(1931)には、干拓地北側に羽田飛行場が開業しました。

ところが終戦直後の昭和20年9月21日、羽田飛行場を軍事基地として拡張するため、米軍(GHQ)が48時間以内の強制退去命令を下し、氏子地域であった旧鈴木新田の羽田穴守町、羽田江戸見町、羽田鈴木町の住民ともども移転先を探すことに。

これに対して地元の有志らが現在地に700坪の土地を寄進し、境内の整備が行われ、現在のような姿になりました。

 

穴守稲荷神社の次は、旧穴守稲荷神社 大鳥居へ。

 

 

途中、天空橋から羽田空港などが望める、海老取川の水辺の情景をチェック。

 

 

旧穴守稲荷神社 大鳥居は、大田区羽田空港1丁目に立つ鳥居。

戦後、GHQが羽田飛行場を軍事基地として拡張するため、穴守稲荷神社の社殿や他の鳥居は取り壊されましたが、門前の赤鳥居だけは撤去されず(※)、そのまま空港の駐車場に残っていたもので、1990年代に入り、羽田空港の沖合展開事業にあたり、新B滑走路整備の障害になるため撤去計画が出ましたが、地域住民からシンボルとして残したいとの要望等があり、平成11年(1999)2月に現在地に移設されることとなりました。
 

※この大鳥居は、とても頑丈なつくりで、ロープで引きずり倒そうとしたところ、逆にロープが切れ、作業員が怪我をしたため、いったん中止に。

工事再開時には工事責任者が病死するというような変事が何度か続いたため、「穴守さまのたたり」という噂が流れ、稲荷信仰などあるはずもないGHQも、何回やっても撤去できないため、そのまま残すことになったといわれています。

 

 

大鳥居の周りには、人懐っこい猫が数匹いて、しばらくの間ふれあいタイム。

 

旧穴守稲荷神社 大鳥居の次は、五十間鼻無縁仏堂へ。

 

 

五十間鼻無縁仏堂は、大田区羽田6丁目にある仏堂。

多摩川において水難で亡くなった人々の霊を慰めるためのものであり、特に関東大震災や東京大空襲の折には、火災に追われて川に飛び込み亡くなった無数の遺体がこの地にも流れ着いたといいます。

いつ頃からこの様な慰霊施設が存在していたのかは定かではありませんが、戦後、河口近くの川の中に1本の角塔婆が立っていたのを羽田地区の漁業組合長が管理し、昭和53年(1978)、護岸工事に伴い現在地に移転。

その後、荒廃していたものを地元有志の浄財により復興したもので、現在のブロック塀・桟橋・角塔婆などは平成16年(2004)に修理・増設されました。

 

五十間鼻無縁仏堂の次は、玉川弁財天へ。

 

 

途中、多摩川河口付近の水辺の景色を見ながら、ぶらぶら。

 

 

玉川弁財天は、大田区羽田6丁目に鎮座する、羽田七福いなりの一社。

宗教法人としては水神社が登録されていますが、玉川弁財天の方が著名で知られています。

創建年代は不詳ですが、古くより弁天社として祀られ、弘法大師が護摩の灰を固めて自ら制作したご神体があり、歴史があります。

また、元々は別当寺であった龍王院(羽田2丁目)に「上の宮」があって、「下の宮」は要島(羽田空港の地)にありましたが、昭和20年(1945)9月のGHQの強制退去命令により、下の宮は水神社があった当地に移され、現在に至るといいます。

 

玉川弁財天の次は、羽田の渡し跡へ。

 

 

途中、再び多摩川の水辺の光景をチェック。

 

 

羽田の渡し跡は、大田区羽田2丁目にある記念碑。

かつて羽田と川崎を結んでいた羽田の渡しは、川崎大師参詣の要路で、江戸時代に稲荷新田を開拓した名主•小島六郎左衛門にちなんで「六左衛門の渡し」とも呼ばれていました。

使われた渡し舟は、20~30人乗りの大きさのもので、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を往来。

人々の生活や文化の交流などに貢献してきた羽田の渡しですが、昭和14年(1939)の大師橋の開通に伴い、廃止されました。

 

羽田の渡し跡の次は、羽田レンガ堤へ。

 

 

羽田レンガ堤は、大田区羽田に残るレンガ堤防の跡。

羽田は多摩川河口の砂州の上にあったことから、たびたび水害が発生。

そこで「水利水運の利便性を高めかつ洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917)9月に内務省が「多摩川改修計画」を立案。

堤の整備を含む大規模な河川改修工事を大正7年度に着工し、工期16ヵ年を費やし、昭和8年度に工事は完了しました。

レンガ堤完成以来、住民は大きな洪水被害もなく、安心した生活を過ごすことができるようになり、昭和20年(1945)4月15日の空襲の際には、レンガ堤の外側で火災を避け、避難所とすることができました。

人々の生命・財産を守ってきたレンガ堤ですが、昭和48年(1973)に高潮防潮堤として新たな外堤防が完成し、レンガ堤は役割を終えました。

しかし、かつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代遺構として現在も姿を留めています。

 

羽田レンガ堤の次は、羽田神社へ。

 

 

羽田神社は、大田区本羽田3丁目に鎮座する、須佐之男命と稲田姫命を御祭神として祀る羽田総鎮守。

羽田の氏神様として羽田全域から羽田空港まで広く氏子を有し、航空各社の崇敬も篤く、年間を通じて運行安全・航空安全祈願の参詣があります。

由緒は、約800年前の鎌倉時代に領主•行方与次郎が牛頭天王を祀ったのが起源とされ、江戸時代は、徳川家、島津家、藤堂家などから篤く信仰されました。

そして、明治元年(1968)の神仏分離令により、自性院の境内に祀られていた牛頭天王社が八雲神社として独立。

明治40年(1907)に「羽田神社」と改められ、現在に至ります。

社殿は、昭和63年(1988)5月に竣工したもので、境内には、複数の境内社が鎮座する他、区の文化財に指定されている富士塚「羽田富士」があります。

 

羽田神社の次は、萩中公園へ。

 

 

公園に到着したところで、待ちに待ったおやつタイム。

 

 

萩中公園は、大田区萩中3丁目に所在する、面積約64,000㎡を有する区立の総合公園。

園内には、蒸気機関車や都電、トラック、ボートなどが置かれ、中央にジャンボすべり台がある「ガラクタ公園」、信号機のあるコース内で自転車の練習をしながら交通ルールが学べる「児童交通公園」、木々や流れる川に囲まれた「芝生広場」などがある他、運動施設として、屋内プール、屋外プール、少年野球場、野球場があります。

また、公園に隣接して萩中集会所があり、中にはレストランも入っています。

 

 

初日は、ガラクタ公園に保存されている都電の前で記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

こんなふうにあちこちご案内して、糀谷駅でお散歩は終了。

 

 

その後、マクドナルドで短時間の黙食マスク懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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