駒込~西日暮里散歩 2月20日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の「第154回 駒込~西日暮里散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は駒込駅から。

 

まずは、駒込日枝神社へ。

 

 

駒込日枝神社は、豊島区駒込1丁目に鎮座する、大山咋神を主祭神とし、素戔鳴尊・大己貴尊・少彦名尊を合祀している神社。

旧上駒込村字新屋敷の鎮守で、東側が開けていたことから、江戸時代は「朝日山王宮」と呼ばれ、創建は定かではありませんが、「新編武蔵風土記稿」は、慶長年間(1596~1615)以前から祀られていたとする説を紹介。

風土記稿編纂当時の神主は沢田近江といい、先祖の大江免毛が万治3年(1660)から、その任にあたったとしています。

また、元文元年(1736)に大江大夫橘為稠によって再興されたとする説があるほか、延享元年(1744)に本社が造営されたという記事が「武江年表」や「新編江戸志」などに見られ、江戸時代の小日向の僧・津田敬順は、著書『遊歴雑記』の中で、神主の沢田近江の居宅からの眺望が最も素晴らしいと述べています。

さらに、「実に雅人の愛すべき土地」といい、歌人や俳人が来訪して宴を楽しみ、自らも沢田の居宅で茶を楽しんだと記されています。

境内には、社殿の隣に日吉稲荷神社があるほか、明和2年(1765)の銘がある手水鉢があり、鳥居の脇には、正面に「右 朝日山王宮」と刻まれた文久元年(1861)のものと思われる道標があります。

また、「傳中親睦会」と刻まれた石柱がありますが、これは古い鳥居の一部。

「傳中」は「殿中」とも書き、上駒込村の字の一つで、六義園が柳沢吉保の屋敷だった頃、将軍・徳川綱吉の御成を待つ家来たちの様子が、さながら殿中(江戸城内)の様であったことから、一帯をこう呼ぶようになったといいます。

 

 

駒込日枝神社の次は、アザレア通りに出て、ほぼ向かい合って存在するパン店「パンハウス 麦畑」と「シャモニー」のどちらかをメンバーさんに選んでもらい、各々おやつ&お土産を購入。

 

続いて、神明都電車庫跡公園へ。

 

 

神明都電車庫跡公園は、文京区本駒込4丁目にある区立公園。

以前は都電の神明町の車庫跡で、児童の教育の場として、公園内に都電6000形一両と貨物車の乙2型一両を静態保存。

都電6000形は、昭和22年(1947)から6年間に290両製造された車両で、公園内にあるのは6063号電車。

昭和24年(1949)3月に63番目に製造、青山車庫に配属されたのを皮切りに、大久保車庫、南千住車庫を経て、昭和42年(1967)9月に神明町車庫に配属。

それから3年余り、昭和45年(1970)12月に荒川車庫へ転属になるまで活躍し、昭和53年(1978)4月に廃車。

一方、貨物車の乙2型は、昭和16年(1941)に乙10型を改造したもの。

戦火を免れ、戦後も軌道敷の砕石などを輸送。

また一時は、野菜や魚介類などの食料品輸送にも活躍しましたが、昭和46年(1971)3月20日に荒川車庫で廃車。

他にも夏季に開放されるじゃぶじゃぶ池もあり、子供の水遊びに利用されています。

 

 

神明都電車庫跡公園で、都電の保存車両を見学後、早速おやつタイム。

 

おやつが済んだところで、次は田端不動尊へ。

 

 

田端不動尊は、北区田端3丁目にある不動尊。

創建年代等は不詳ですが、かつて田端駅南口付近に石造不動明王立像が安置され、不動の滝があったとのこと。

この不動明王像は、明治45年(1912)5月に始まった田端駅拡張工事により、不動坂(田端1丁目)付近へ移され、さらに谷田川の改修工事にともない、昭和10年(1935)11月に現在地へ移され、田端不動尊となりました。

しかし、戦火で境内は破壊され、そのまま20余年放置されていましたが、昭和44年に改修工事が完了しました。

 

田端不動尊の次は、田端日枝神社へ。

 

 

田端日枝神社は、北区田端3丁目に鎮座する、大山咋神を御祭神として祀る神社。

上台寺(後に大久寺に吸収合併)の斎藤坊が寛永元年(1624)に創建したといい、境内は山王鳥居をくぐり、階段を上った台地の上に拝殿があり、拝殿裏の小さな石祠が本殿となっています。

 

田端日枝神社の次は、ポプラ倶楽部跡へ。

 

 

ポプラ倶楽部跡は、北区田端3丁目、ポプラ坂の坂上にある田端文士村ゆかりの地。

ポプラ倶楽部は、明治41年(1908)頃、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったもの。

陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などが、このすぐ近くに住んでいました。

大正2年(1913)、田端に越してきた芥川龍之介は、その1ヶ月目に、ポプラ倶楽部のことを手紙に書いています。

なお、跡地は現在、田端保育園になっています。

 

ポプラ倶楽部跡の次は、東覚寺へ。

 

 

東覚寺は、北区田端2丁目にある、白龍山寿命院と号する真言宗豊山派の寺院で、谷中七福神の福禄寿。

延徳3年(1491)、源雅和尚が不動明王を勧請して本尊とし、神田寺町筋違の地(現在の万世橋付近)に創建。

その後、根岸(現在の台東区)の地を経て、慶長年間(1596~1615)に現在地に移転。

江戸時代には7石の朱印地を拝領し、徳川歴代将軍の祈願所として栄え、伽藍は『江戸名所図会』にも描かれ、広く知られましたが、残念ながら戦災でほぼ全てを焼失。

現在の本堂は戦後再建されたものです。

 

 

東覚寺の赤紙仁王。

門前の護摩堂の前には、寛永18年(1641)建立の金剛力士立像があり、全身に赤い紙が貼られています。

これは身体に悪いところがある人が、病気の快癒を祈願して、患部と同じところに赤い紙を貼り、病気が平癒すると、そのお礼に草鞋を奉納する風習があるからです。

もとは江戸市中に流行していた疫病を鎮めるために造立された石仏仁王像ですが、いつの頃からか「赤紙仁王尊」と呼ばれ、今も広く信仰を集めています。

 

東覚寺の次は、田端八幡神社へ。

 

 

田端八幡神社は、北区田端2丁目に鎮座する、品陀和気命(応神天皇)を御祭神として祀る、旧田端村の鎮守。

神社の伝承によれば、文治5年(1189)、源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋したときに、鶴岡八幡宮を勧請して創建したと伝えられています。

東覚寺は、かつての別当寺で、明治元年(1868)に神仏分離令が発令されるまで、東覚寺の仁王像(赤紙仁王)は、この神社の参道入口に立っていました。

社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)に再建され、翌平成5年(1993)5月に遷座祭が行われて、現在の形になりました。

境内には、稲荷社の他に田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では、毎年2月20日に「冨士講の初拝み」として、祭事が行われています。

 

田端八幡神社の次は、田端文士村記念館へ。

 

 

田端文士村記念館は、北区田端6丁目にある北区文化振興財団が運営する記念館(資料館)。

田端で活躍した芸術家や文士の功績を次代に継承し、紹介することを目的として、平成5年(1993)に設立。

館内では田端にゆかりのある芸術家や文士たちの作品や遺品を展示するとともに、講演会なども開催。

また、毎月第三土曜日には、学芸員の案内による文士村を案内する散策「田端ひととき散歩」(現在はコロナ禍で中止)などのイベントも実施されています。

今回私たちは、こちらで開催中の企画展「正岡子規の系譜」や常設展示スペースで同時開催中の「芥川比呂志 没後40年特別展」などを見学しました。(館内写真撮影不可)

 

田端文士村記念館の次は、田端ふれあい橋(旧田端大橋)へ。

 

 

田端ふれあい橋は、北区東田端1丁目に架かる、駅前広場と公園機能を合わせもった歩行者専用橋。

もとは昭和10年(1935)に架設された田端大橋で、全溶接橋として、東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びたもので、この溶接技術はその頃の軍艦建造技術を活かしたものでしたが、自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は昭和62年(1987)に新田端大橋を架設。

新田端大橋の開通により、田端大橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でした。

しかし、歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民から歩道橋として再生利用の要望もあったため、「田端ふれあい橋」として、平成4年(1992)に再生。

橋の両端には鉄道に関するモニュメントなども展示されています。

 

田端ふれあい橋の次は、芥川龍之介旧居跡へ。

 

 

途中、童橋から田端の切通しをチェック。

 

 

芥川龍之介旧居跡は、北区田端1丁目にある、作家・芥川龍之介の邸宅跡。

芥川龍之介は、大正3年(1914)から昭和2年(1927)までの約13年間、この地に住み、この間、『羅生門』『鼻』『河童』『歯車』等の小説や俳句を執筆し、日本文学史上に大きな足跡を残しました。

 

 

芥川龍之介旧居跡の次は、不動坂を下り…

 

 

JR田端駅南口に出て、そこから映画『天気の子』のロケ地の坂に行って記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

 

記念写真の後は、暫く崖線上の通りを歩きながら、鉄道ウォッチング。

 

続いて、向陵稲荷神社へ。

 

 

向陵稲荷神社は、荒川区西日暮里4丁目に鎮座する、向陵稲荷大明神(宇迦之御魂神)を主祭神とする神社。

家内安全・商売繁昌・学業成就の神様で、江戸時代初期より佐竹右京大夫の屋敷内に祀られていましたが、大正時代の初期に渡辺町(現在の西日暮里4丁目の一部)が開設されたときに、ひぐらし公園(現在の開成学園の校庭)に祀られ、町の鎮守と崇められました。

その後、現在地に移転しましたが、昭和20年(1945)の空襲で全町焦土と化すも、当社は不思議にも戦火を免れ、昭和46年(1971)に社殿を改築、社務所を新設し、宗教法人向陵稲荷神社に。

この日は、小祠の賽銭箱の横に猫神様が鎮座しておりました(笑)

 

向陵稲荷神社の次は、富士見坂へ。

 

 

富士見坂は、荒川区西日暮里3丁目にある坂道。

都心部の富士見坂の中で、唯一名前の通り富士山を眺望できる坂として、平成16年(2004)に国土交通省関東地方整備局が選定した「関東の富士見百景」の中の「東京富士見坂」の一つに選ばれるなど、東京の歴史的風景遺産として、知られていました。

荒川区は、ビスタライン上の関係者に対し、「日暮里富士見坂眺望保全に関するパンフレット」を作成するなどして、富士見坂の眺望を残すための呼びかけを続けていましたが、平成25年(2013)に、ビスタライン上に高層マンションが建てられたことにより、ついに貴重な景観が損なわれてしまいました。

 

富士見坂の次は、諏方神社へ。

 

 

諏方神社は、荒川区西日暮里3丁目に鎮座する、建御名方命を御祭神として祀る神社。

元久2年(1205)に、豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社(諏訪大社)より勧請して創建。

文安年間(1444~1449)に、太田道灌が神領を寄進し、その後、寛永12年(1635)に現在地に遷座。

古くから日暮里・谷中の総鎮守として崇敬を集めました。

なお、中世から近世にかけての表記に倣い、社号は「諏訪」ではなく「諏方」の字を使用。

例大祭は8月末で、境内や周辺道路には露店が並び、毎年多くの人たちで賑わいます。

 

 

諏方神社がある諏訪台もトレインビュースポット。

こちらで新幹線を眺め…

 

 

最後に地蔵坂から電車を見て、西日暮里駅でお散歩終了。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

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