御茶ノ水~稲荷町散歩 10月24日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の「第149回 御茶ノ水~稲荷町散歩」の昨日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は御茶ノ水駅から。

 

まずは、聖橋の上から神田川と鉄道をチェック。

 

 

聖橋は、千代田区駿河台4丁目と文京区湯島1丁目を結ぶ、本郷通りが通る神田川に架かる橋。

関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2年(1927)に完成した鉄筋コンクリートアーチ橋で、橋名は東京市が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名。

平成29年(2017)には土木学会選奨土木遺産に選奨されました。

 

聖橋の次は、湯島聖堂へ。

 

 

湯島聖堂は、文京区湯島1丁目にある史跡。

歴史は、5代将軍・徳川綱吉が儒学振興のため、上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内の孔子廟「先聖殿」を元禄3年(1690)にこちらに移し、先聖殿を「大成殿」と改称して孔子廟の規模を拡大・整理したのが始まり。

この後、寛政9年(1797)、第11代将軍・徳川家斉の時代に規模を拡大し、幕府官立の直轄学校「昌平坂学問所」となりました。

明治維新を迎えてからは、新政府の所管となって引き継がれましたが、明治4年(1871)に閉鎖。

以後、聖堂構内には、文部省、国立博物館(現在の東京国立博物館)、東京師範学校(現在の筑波大学)、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)などが一時置かれ、日本の近代教育発祥の地としての栄誉を担い、大正11年(1922)、国の史跡に指定。

大正12年(1923)の関東大震災では、宝永元年(1704)築造の入徳門と水屋を残し、全てを焼失。

しかし、斯文会が中心となって復興活動に力を注ぎ、昭和10年(1935)、東京帝国大学・伊東忠太教授の設計と大林組の施工のもと、鉄筋コンクリート造の大成殿が再建。

大成殿には、孔子像の他、孔子の高弟たち、四賢像(顔回・曾子・子思・孟子)が祀られています。

また、構内にある孔子の立像は、昭和50年(1975)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたもので、青銅鋳造では世界で一番高い孔子像(高さ4.57m)です。

 

湯島聖堂の次は、神田神社(神田明神)へ。

 

 

神田神社は、千代田区外神田2丁目に鎮座する神社(「神田神社」が正式名称)。

御祭神は以下の三柱。
一の宮 大己貴命(だいこく様)天平2年(730)鎮座。

国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮。国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。別名、大国主命。
二の宮 少彦名命(えびす様)商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様。
三の宮 平将門命(まさかど様)除災厄除の神様。延慶2年(1309)に奉祀。明治7年(1874)、天皇行幸のため境内摂社に遷座されましたが、昭和59年(1984)に再び本社祭神に復帰。

 

概要は、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内といった東京の中心、108町会の総氏神様で、縁結び、商売繁昌、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご利益をもたらしてくれるといわれており、歴史は、社伝によると、天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町)に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのが起源。

延慶2年(1309)には、平将門公が合祀され、太田道灌、北条氏綱といった武将によって、手厚く崇敬されました。

そして、慶長5年(1600)の関が原の戦いでは、徳川家康が戦勝を祈願。

勝利をおさめることができ、江戸幕府が開かれると、神田明神は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在地に遷座し、幕府が社殿を造営。

以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府だけでなく、江戸の庶民からも崇敬を集めました。

明治時代に入ると、社名を「神田明神」から「神田神社」に改称。

東京の守護神として「准勅祭社」、「東京府社」に定められ、明治7年(1874)には、明治天皇が参拝。

大正12年(1923)の関東大震災では社殿が焼失しますが、昭和9年(1934)に、権現造の鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗りの社殿(国指定登録有形文化財)が再建。

こちらは、昭和20年(1945)の東京大空襲にも耐え抜くことができました。

戦後は、総檜造の随神門などの建造物が次々と再建。

平成30年(2018)12月15日には、伝統文化の継承と新たな文化の発信の拠点となる神田明神文化交流館「EDOCCO」が開業。

創建1300年を迎えるにあたり、数々の記念事業が進められています。

 

 

神田明神にいる神馬「明」。

人々から「あかりちゃん」と呼ばれて親しまれているようで、名前は、明るく平和な世の中と神田明神の「明」の字から、とられたとのことです。

 

 

同じく神田明神境内にある、銭形平次の碑と平次の顔ハメ看板。

銭形平次は、野村胡堂の名作『銭形平次捕物控』の主人公。

平次親分が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住み、明神界隈を舞台に活躍していたことから、昭和45年(1970)に日本作家クラブが発起人となり碑を建立。

胡堂の『捕物控』は昭和6年(1931)『文藝春秋オール読物』に第1作『金色の処女』が発表されて以来、27年間で383編にもおよびました。

平次の碑は神田明神から明神下を見守る場所に建てられ、隣には子分・がらっ八の小さな碑もあります。

 

神田神社の次は、3331 Arts Chiyoda(アーツ千代田 3331)へ。

 

 

途中、「鳴門鯛焼本舗 末広町店」でたい焼きを買って、一回目のおやつタイム。

 

 

3331 Arts Chiyodaは、千代田区外神田6丁目にある、平成17年(2005)に閉校した旧練成中学校を利用して、平成22年(2010)に誕生したアートセンター。

施設名称の3331は、江戸一本締めの手拍子を数字表記したもので、運営は合同会社コマンドAが行っています。

地下1階、地上3階の館内には、アートギャラリー、オフィス、カフェなどが入居し、展覧会だけでなくワークショップや講演会といった文化的活動の拠点としても使われ、無料で利用できるフリースペースも充実しています。

 

3331 Arts Chiyodaの次は、2k540 AKI-OKA ARTISANへ。

 

 

2k540 AKI-OKA ARTISANは、ジェイアール東日本都市開発がJR山手線・京浜東北線の秋葉原駅〜御徒町駅間の高架下にある商業施設。

周囲には職人が古くから数多く住んでおり、また自ら「ものづくり」を行うクリエイターが増えてきていることから、そうしたクリエイターによる店舗を入居させ、従来型の商業施設と異なるコンセプトで運営を行うことを目的として、平成22年(2010)12月10日に開業。

工房とショップが一つになった、ここでしか買えない商品や、ものづくりの体験が出来るワークショップなど、個性あふれる店が集まっています。

ちなみに、名称の「2k540」は東京駅を起点とした距離で、東京駅から2k540m付近にあることを示しており、「AKI-OKA」は秋葉原と御徒町の中間にあることを意味し、「ARTISAN」はフランス語で「職人」を表しています。

 

2k540 AKI-OKA ARTISANの次は、佐竹商店街へ。

 

 

途中、台東区の下町らしい路地をぶらぶら。

 

 

佐竹商店街は、台東区台東3,4丁目にある、春日通りから清洲橋通りに至る全長約330mの全蓋式アーケードの日本で二番目に古いといわれている商店街。

江戸時代、この付近一帯は、出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷があり、藩主は佐竹氏で、20万余石を領有。

佐竹家上屋敷の当地開設年代は、『武鑑』からみて、元禄2年(1689)もしくは翌元禄3年(1690)と考えられ、屋敷地は現在の台東3,4丁目東半分にわたっていました。

しかし、明治になると佐竹家上屋敷や近隣の武家屋敷は撤去され、当地は野原となり、俗に「佐竹っ原」と呼ばれ、後にここは見世物小屋が集中して賑わいましたが、明治時代半ばから民家が立ち並び、商店街として発展。

現在、「佐竹」の名は、「佐竹商店街」として継承されています。

 

 

佐竹商店街では、「佐藤精肉店」で揚げ物を買ったり、「かすてらの店 中屋洋菓子店」で昔懐かしいジャムロールを買って、二回目のおやつタイム。

 

佐竹商店街の次は、地護稲荷神社へ。

 

 

地護稲荷神社は、台東区東上野3丁目に祀られている稲荷神社。

由緒は、もとは治承4年(1180)、この辺りが奥羽街道の往還だった頃、椎の大木の下に、住人たちの信仰を集めていた稲荷祠と一里塚の石碑がありましたが、いつしか祠も碑も姿を消しました。

時が経ち、寛永15年(1638)、徳川家の家臣・天野弥五右衛門長重がこの祠跡に屋敷を賜り、移り住みましたが、度々奇怪な現象が起こったので、調べたところ、祠と石碑があったことがわかり、長重は邸内に一帯の守護神として稲荷堂と碑を再建。

これが地護稲荷大明神の由来といわれています。

また、昭和28年(1953)3月、故あって、祠堂を他所へ遷宮したところ、この地域に厄災が続いて起きたため、地域の住人たちは恐ろしくなり、翌29年(1954)2月18日に、この地に祠堂を再び遷し、今日に至っています。

 

地護稲荷神社の次は、下谷神社へ。

 

 

この日は、下谷神社の裏参道に着いたところで記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

 

下谷神社は、台東区東上野3丁目に鎮座する、大年神と日本武尊を祀る神社。

古くは「下谷稲荷社」、「下谷稲荷明神社」と称された都内最古の稲荷神社で、旧町名の下谷稲荷町は、当社からとられています。

創祀は、天平2年(730)といわれ、峡田稲置らが二神を祀ったという説や、行基が伏見稲荷大社を勧請したという説があり、平安時代には、平将門の乱を平定した藤原秀郷が社殿を新造したと伝わっています。

社地は、創建時は上野忍ヶ岡に鎮座していましたが、寛永年間(1624~1644)、寛永寺建立にあたり、寛永4年(1627)に下谷屏風坂下に移転。

しかし、手狭だったため、延宝8年(1680)に広徳寺の門前町に替地して社殿を造営。

そして、明治5年(1872)に「下谷神社」と社号を改め、翌明治6年(1873)、郷社に昇格。

大正12年(1923)の関東大震災では社殿を焼失し、昭和3年(1928)に現在地に遷座しました。

現在の社殿は、昭和9年(1934)に完成したもので、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲では、奇跡的に被害を受けませんでした。

また、境内には、宇賀魂命を御祭神とする隆栄稲荷神社が祀られている他、寛政10年(1798)に、当社で江戸における初めての寄席興行が行われたことを記念して建てられた、「寄席発祥之地」の石碑があります。

 

こんなふうにあちこちご案内して、稲荷町駅でお散歩は終了。

 

その後、有志のメンバーさんたちと「ジョナサン 浅草稲荷町店」でミニ懇親会を開いて解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

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