須賀町・荒木町周辺ぐるっと散歩 8月8日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の夏の夕暮れ散歩「夏企画 須賀町・荒木町周辺ぐるっと散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は四谷三丁目駅から。

 

まずは、四谷於岩稲荷田宮神社へ。

 

 

四谷於岩稲荷田宮神社は、新宿区左門町に鎮座する、豊受比売大神・田宮於岩命を御祭神として祀る神社。

由緒は三百数十年前、四谷左門町は幕府御家人の組屋敷のあったところで、直参(江戸幕府に直属した1万石以下の武士)の武家・田宮伊右衛門の住まいがあり、妻のお岩とは大変仲の良い夫婦でしたが、家計が苦しく、夫婦で奉公に出て、田宮家を再興。

そのとき、お岩さんが田宮家邸内にあった稲荷神社を篤く信仰していたため、人々はお岩さんにあやかるために、お岩さんが亡くなった後、この稲荷社を「お岩稲荷」と呼び、信仰を寄せるようになり、田宮家でも稲荷社のかたわらに小祠を設けて、お岩様を奉斎。

当初、田宮家では、人々の参詣を許さなかったのですが、後に人々の願いを聞き入れて、参詣を認めるようになり、明治維新後、お宮は「於岩稲荷田宮神社」と改称。

その後、明治12年(1879)に左門町で起きた大火で社殿が焼失し、その際、初代市川左団次の勧めで現在の中央区新川に遷座されますが、旧地はその後も田宮家の住居として管理されていたため、昭和6年(1931)「田宮稲荷神社跡」として史跡に指定。

さらに昭和27年(1952)、当地にも神社が再建されました。

 

注)『東海道四谷怪談』とお岩さんの関係

お岩さんが亡くなったのは、寛永13年(1636)。

有名な四代目鶴屋南北の『東海道四谷怪談』は文政8年(1825)が初演。

実はこの作品、南北が当時知られていた事件のエッセンスを取り込んで創作したもの。

「お岩」という名前も、亡くなってから200年近く経ってなお、江戸で人気者のお岩さんの名前を拝借しているとのことです。

歌舞伎は大当たりして江戸中の話題をさらい、出演の役者らはお岩稲荷を参拝。

そのうち「上演前に参拝しないと病気になる。事故が起きる。」という話に発展しますが、これは、そもそも怪談の舞台は暗く、道具だても複雑なため、当然事故も多く、それが怪談にからめて「祟り」と結びついたのではないかといわれています。

 

昨日、宮司さんにもお会いして直接お話を伺ったのですが、やはり勘違いされている方が多く、苦笑されていました。

 

四谷於岩稲荷田宮神社の次は須賀神社へ。

 

 

須賀神社は、新宿区須賀町に鎮座する、須佐之男命(須賀大神)と宇迦能御魂神(稲荷大神)を主祭神として祀る四谷十八ヵ町の総鎮守。

当社はもとは稲荷神社で、往古より一ツ木村(現在の赤坂)の鎮守として、清水谷にあったものを寛永11年(1634)、江戸城外堀普請のために、現在地に遷座したといい、須佐之男命の鎮座は、寛永14年(1637)、島原の乱の際に日本橋大伝馬町の大名主・馬込勘解由が、幕命により、兵站伝馬のご用を勤め、その功績により、現在の四谷の中心一円を拝領したのを機会に、寛永20年(1643)、神田明神摂社に祀られていた牛頭天王(須佐之男命と習合)を勧請。

以後、御両社となり、「四谷天王社」「稲荷天王」「四谷牛頭天王社」などと称され、明治元年(1868)、「須賀神社」と改称し、明治5年(1872)には郷社に昇格。

戦後、制度の改正により、旧社格は撤廃されました。

また、戦前は、文政11年(1828)に竣工した権現造りの社殿がありましたが、昭和20年(1945)5月24日の空襲で本殿並びに内陣と境内摂社を残したほか、一切を焼失。

戦後、氏子崇敬者の尽力によって復興をみることができました。

そうした経緯から、戦前数多くあった社宝は失いましたが、幸いにも内陣の金庫に納められていた三十六歌仙絵(※)は焼失を免れ、新宿区指定有形文化財に登録されています。

 

※三十六歌仙は、平安時代中期の公卿・藤原公任が、過去及び同時代の優れた歌人36名を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の3名が、平安時代前期の『古今和歌集』『後撰和歌集』頃から紀貫之・在原業平・小野小町ら33名が選ばれています。

須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55㎝、横37㎝の絹地に彩色したものを額装して拝殿内に保管。

これらは天保7年(1836)に奉納されたもので、文人画家として高名だった旗本・大岡雲峰が絵を、和歌や書画で人気を博した公卿・千種有功が書を担当。

なお、屋外には「新宿ミニ博物館」として、絵の複製と解説が掲示されています。

 

 

須賀神社お参り後、映画『君の名は。』の聖地として知られる須賀神社男坂をチェック。

 

 

そして、須賀神社男坂の向かいにある東福院坂(天王坂)を上り、中腹から振り返って、再度男坂をチェック。

 

続いて、新宿区荒木町エリアへ。

 

荒木町は、江戸時代は美濃国高須藩主・松平摂津守の屋敷地で、この屋敷には滝を伴った大きな池や滝がありました。

明治に入ると屋敷が退き、一帯は東京近郊でも名の知られた景勝地として、料理屋が軒を連ね、芸者が行き交う三業地に。

現在は住宅と小料理屋やBARが軒を連ねる街に変貌。

かつて花街だった頃の風情も残っているため、神楽坂と並ぶ新宿区内の散策スポットとして賑わっています。

 

 

まずは、仲坂を下って、すり鉢型の地形をした荒木町の底部へ。

 

 

そこから、少し迂回し、一旦上部に出て、私、お気に入りの階段坂を紹介。

 

続いて策の池(カッパ池)へ。

 

 

策の池は、荒木町のすり鉢地形の谷底にある小さな池。

名前の由来は諸説ありますが、徳川家康がこの池で乗馬用の策を洗ったから、といった説もあります。

昔は湧水が滝となって注いでいたため、「十二社の滝」、「目黒不動の滝」、「王子の名主の滝」などと並んで、江戸八井の一つに数えられていましたが、今では湧き水が減り、埋め立ても進んで、住宅街の中にわずかにその跡を残すのみに。

ただ、水は澄んでいて、鯉や亀(スッポンも棲んでいます)をみんなで見ました。

 

池で一休みした後は、津の守弁財天をお参り。

 

 

津の守弁財天は、策の池の畔に祀られている弁財天。

古来より池畔にあった弁天様の祠を崇敬者が昭和31年(1956)に現在地に遷座し再建。

名称は、江戸時代、この地に上屋敷を構えていた美濃国高須藩主・松平摂津守が由来となっています。

 

 

津の守弁財天をお参り後、記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

 

記念写真の後、趣ある階段坂を上って、金丸稲荷神社へ。

 

 

金丸稲荷神社は、新宿区荒木町に鎮座する宇迦能御魂大神を御祭神として祀る稲荷神社。

天和3年(1683)に松平摂津守がこの一帯を拝領し、上屋敷とした際、藩主の守護神として金丸稲荷社を奉斎。

伝承によると、度重なる江戸の大火や震災の被害を免れたといい、昭和20年(1945)5月24日の空襲では、全町が焦土と化しましたが、町民に死者は出ませんでした。

こうしたことから、金丸稲荷社の霊験があらたかだと信じられています。

戦後は、昭和27年(1952)11月に現在地の隣接地に遷座。

そして、昭和50年(1975)4月、区画整理のため現在地へ移りました。

 

金丸稲荷神社をお参りした後は、荒木町の路地巡り。

 

 

まずは、石畳の坂を下りて、再びすり鉢地形の底部へ。

 

 

途中、細い路地から直線上に見える仲坂と防衛省の通信鉄塔をチェック。

 

 

その後、地元で「モンマルトルの坂」と呼ばれている階段坂を上り、坂上からすり鉢状の地形を観察。

 

 

モンマルトルの坂から少し歩いて、名無しの階段坂を下り、再び金丸稲荷神社がある車力門通りへ。

 

 

車力門通りから脇道に入り、路地裏散策。

 

 

荒木町のメインストリートである杉大門通りに出るも、人影はまばら。

 

 

さらに、一旦荒木町を出て舟町の路地にも寄り道。

 

 

再び荒木町に戻って、次は小料理屋やBARが軒を連ねる柳新道通りへ。

 

 

誘惑と戦いながら(笑)、雰囲気のある夜の柳新道通りをお散歩。

 

 

再び脇道に入って、車力門通りへ。

 

 

車力門とは、美濃国高須藩主・松平摂津守の上屋敷に存在した門のこと。

車両を牽いて荷物の運搬をしていた者が出入りしていたそうです。

 

 

こうして、車力門通りを出て、荒木町路地巡りは終了。

 

四谷三丁目駅で解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

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