白山~西日暮里散歩 2月16日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は2月16日(土)から始まりました

東京お散歩教室「第129回 白山~西日暮里散歩」の初日の様子をご紹介します。

 

出発は白山駅から。

 

まずは、八百屋お七の墓へ。

 

 

八百屋お七の墓は、文京区白山1丁目にある天台宗寺院「円乗寺」にある

井原西鶴の名作『好色五人女』などに登場する少女の墓。

お七の生家は、駒込片町(本郷追分との説も)にあった有数な八百屋で

お七は天和2年(1682)12月の「天和の大火」で家が焼け、菩提寺の円乗寺に避難。

避難中に円乗寺の小姓・山田佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になり、家が再建され戻るも

佐兵衛に会いたい一心で付け火をしました。

そして、お七は捕えられ、天和3年(1683)3月に、放火の大罪で火あぶりの刑に処せられました。

墓所には三基の墓石がありますが、中央は寺の住職が、右側は寛政年間(1789~1801)に

歌舞伎役者・岩井半四郎が、お七を演じて好評だったので建立。

左側は近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものです。

 

八百屋お七の墓の次は、大圓寺へ。

 

 

大圓寺は、文京区向丘1丁目にある曹洞宗の寺院で、山号は金龍山。

神田柳原に慶長2年(1597)創建され、慶安2年(1649)に現在地へ移転したといい

境内には、徳丸ヶ原(現在の高島平あたり)で、日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった

幕末の砲術家・高島秋帆や、明治時代に小説家や評論家として活躍した斎藤緑雨の墓があるほか

八百屋お七ゆかりの「ほうろく地蔵尊」があることでも知られています。

 

 

ほうろく地蔵尊は、享保4年(1719)に渡辺九兵衛が寄進。

火あぶりの刑に処せられた、お七の罪業を救うため、熱した炮烙を頭にかぶり

自ら焦熱の苦しみを受けたことから、このような姿で祀られているそうで

頭痛や眼病など、首から上の病に霊験あらたかだと、いわれています。

 

大圓寺の次は、海蔵寺へ。

 

 

海蔵寺は、文京区向丘2丁目にある、大智山富明院と号する曹洞宗の寺院。

由緒は、尾州内海(愛知県)に創建され、天文9年(1540)に駒込に移転したという説のほか

天文年間(1532~1555)に現在の和田蔵門内に創建され、明暦年間(1655~1658)に

現在地に移転してきたという説も。

境内には、富士信仰の中興の祖で、富士山七合五勺の烏帽子岩近くの石室で断食入定した

「身禄行者の墓」(区指定史跡)があります。

 

海蔵寺の次は、夏目漱石旧居跡へ。

 

 

夏目漱石旧居跡は、文京区向丘2丁目にある区指定史跡。

ここには、夏目漱石がイギリス留学から帰国後、明治36年(1903)3月から

明治39年(1906)12月まで、3年10ヶ月住んだ家がありました。

当時、東京帝国大学英文科と第一高等学校の講師として教職にあった漱石は

この地で初めて創作の筆をとり、その作品『吾輩は猫である』の舞台として

旧居は「猫の家」と呼ばれ、その跡には、記念碑と猫の像が。

また漱石は、この地で『倫敦塔』、『坊ちゃん』、『草枕』などの名作を次々発表し

一躍文壇に名をあらわしました。

 

夏目漱石旧居跡の次は、千駄木ふれあいの杜へ。

 

 

途中、日本医科大学と同大学図書館の間にある、解剖坂を通過。

 

 

千駄木ふれあいの杜は、文京区千駄木1丁目にある都市公園。

江戸時代、ここは太田道灌の子孫である太田備中守資宗が徳川家光から賜った下屋敷で

当時の敷地には湧き水を源泉とする池があり、明治から昭和に入ってなくなるまで

池は「太田が池」と呼ばれ、なくなった後も、昭和40年代までは屋敷の庭に湧き水が残っていました。

しかし、時代の変遷とともに、その湧き水も涸れ、本郷台地東縁崖線の姿を伝える崖地の緑も

ここを残すのみとなりました。

そこで、「貴重な自然を残したい」という緑地所有者の考えと

「都市緑地法」(当時は「都市緑地保全法」)に基づく市民緑地制度の主旨が合致し

所有者と文京区との間に「市民緑地契約」が結ばれ、平成13年(2001)10月に一般公開がスタート。

さらに、平成28年(2016)3月に土地が区に寄附され、現在は都市公園(都市林)として

近隣の人々に利用されています。

 

千駄木ふれあいの杜の次は、文京区立森鷗外記念館(観潮楼跡)へ。

 

 

途中、「千駄木のだんだん」など、いくつか呼び名がある、2つ階段坂を通り、中腹で記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

 

文京区立森鷗外記念館は、文京区千駄木1丁目、森鴎外の旧居「観潮楼」跡地にあるミュージアム。

鴎外は明治25年(1892)、30歳の時にここに居を構え、増築した2階部分から

東京湾が遥かに見えたので「観潮楼」と名付け、この地で半生を過ごし

『青年』、『雁』、『阿部一族』、『高瀬舟』、『渋江抽斎』などの代表作を執筆。

その後、建物は火災や戦災によって焼失しましたが、「胸像」、「銀杏の木」、「門の石畳」や

「三人冗語の石」は残りました。

戦後、観潮楼跡は記念公園となり、東京都指定史跡の認定を受け

さらに鴎外生誕100年にあたる昭和37年(1962)に鴎外記念室を併設した

文京区立鴎外記念本郷図書館が開館。

そして、平成24年(2012)、鴎外生誕150年を記念してつくられた文京区立森鴎外記念館が

11月にオープンし、区を代表する観光スポットの一つに数えられるようになりました。

 

文京区立森鷗外記念館の次は、須藤公園へ。

 

 

須藤公園は、文京区千駄木3丁目にある区立公園。

この場所は江戸時代、加賀藩の支藩である大聖寺藩の下屋敷があったところで

その後、長州出身の政治家・品川弥二郎の邸宅となり、明治22年(1889)に実業家の須藤吉左衛門

(吉右衛門との記載もあり)が買い取りました。

そして、昭和8年(1933)に須藤家が公園用地として東京市に土地を寄付し

昭和25年(1950)、文京区に移管。

平成30年(2018)7月には、公園再整備工事が完了し、リニューアルオープンしました。

かつての大名屋敷の庭園の雰囲気が保たれた公園は、傾斜地となっている地形を利用し

中央の池をめぐって高低差のある散策路が敷かれており

池の中には弁財天が祀られ、池に注ぐ流れの上には「須藤の滝」があります。

 

須藤公園の次は、よみせ通りに出て、一回目のおやつ&お土産購入タイム。

 

 

一軒目は、一口まんじゅうで知られる「谷中福丸饅頭」。

こちらで、おやつ用とお土産用の和菓子を買って、みんなで試食。

 

続いて、よみせ通りをぶらぶら。

 

 

よみせ通りは、文京区千駄木と台東区谷中の区境にある通り。

もとは藍染川が流れていましたが、大正9年(1920)に暗渠工事が行われ、道路が完成。

かつては、道に露店(夜店)が並んだことから、「夜店通り」と呼ばれるようになり

それが現在の「よみせ通り」の由来に。

通りには、「よみせ通り商栄会」という商店街があり、通りのシンボルマークとなっている

地蔵のイラストは、俳優の中尾彬さんが手掛けました。

 

よみせ通りを散歩しながら、途中、谷中ぎんざへ。

 

 

谷中ぎんざは、荒川区西日暮里3丁目と台東区谷中3丁目にまたがる近隣型商店街。

全長170mほどのところに、商店がぎっしり軒を並べており

テレビや雑誌などで頻繁に取り上げられることから、近隣型商店街にもかかわらず

今では世界中から観光客が集まる、谷根千きっての有名スポットに。

今回、こちらでは、フリータイムを設けて、「谷中メンチ」などの名物を召し上がっていただきました。

 

谷中ぎんざから、再びよみせ通りに戻り、よみせ通り延命地蔵尊へ。

 

 

よみせ通り延命地蔵尊は、文京区千駄木3丁目に祀られている地蔵尊。

昔、長野県南佐久郡切原村(現在の佐久市南西部)の黄檗宗の由緒ある寺のお坊さんが

信仰していた地蔵菩薩の分霊を、昭和8年(1933)に地元の信仰心の篤い老人が迎えて

ここに安置したのが始まり。

祈願したことすべてを叶えてくれると評判で、人々の崇敬を集めています。

 

よみせ通り延命地蔵尊の次は、富士見坂へ。

 

 

途中、谷中七福神の一つとして知られる、日蓮宗の寺院「修性院」の塀に描かれた

四季をモチーフにした布袋尊のイラストをチェック。

 

 

富士見坂は、荒川区西日暮里3丁目にある坂道。

都心部の富士見坂の中で、唯一名前の通り富士山を眺望できる坂として

平成16年(2004)に国土交通省関東地方整備局が選定した「関東の富士見百景」の中の

「東京富士見坂」の一つに選ばれるなど、東京の歴史的風景遺産として知られ

荒川区は、ビスタライン上の関係者に対し、「日暮里富士見坂眺望保全に関するパンフレット」を

作成するなどして、富士見坂の眺望を残すための呼びかけを続けていました。

しかし、平成25年(2013)、ビスタライン上に高層マンションが建てられ

貴重な景観は、ついに消滅。

坂脇の柵には、ここで撮られた、たくさんの富士山の写真が並んでいます。

 

富士見坂の次は、浄光寺へ。

 

 

浄光寺は、荒川区西日暮里3丁目にある、法輪山法幢院と号する真言宗豊山派の寺院。

創建年代は、はっきりしませんが、江戸時代までは諏方神社の別当寺で

眺望に優れた諏訪台の上にあって、雪景色が素晴らしかったことから、「雪見寺」と呼ばれ

また、元文2年(1737)に、徳川吉宗が鷹狩で立ち寄ったことから、以降は御膳所に。

境内には、「将軍腰かけの石」のほか、ともに区の有形文化財に指定されている

「銅造地蔵菩薩坐像」と「銅造地蔵菩薩立像」が、並んで祀られています。

 

浄光寺の次は、諏方神社へ。

 

 

諏方神社は、荒川区西日暮里3丁目に鎮座する、建御名方命を御祭神として祀る神社。

元久2年(1205)に、豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社(諏訪大社)より勧請して創建。

文安年間(1444~1449)に、太田道灌が神領を寄進し、その後、寛永12年(1635)に現在地に遷座。

古くから日暮里・谷中の総鎮守として崇敬を集めました。

尚、社号は、中世から近世にかけての表記に倣い、「諏訪」ではなく「諏方」の字を使用しています。

 

 

また、諏方神社がある諏訪台は、かつては隅田川や遠くに筑波山などが望めたため

江戸時代から景勝の地として知られ、日が暮れるまで居ても飽きない「ひぐらしの里」と呼ばれました。

これが「日暮里」の名の由来といわれますが、今では都市化が進み、見えるのは建物ばかり。

しかし、眼下に鉄道の大動脈が走っているため、現在は鉄道ウォッチングの名所になっています。

 

 

諏訪台からの景色を堪能し、地蔵坂を下りて、西日暮里駅でお散歩は終了。

 

 

そして、有志のメンバーさんたちと「ミライザカ 西日暮里駅前店」で打ち上げをして、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、長時間お付き合いいただき、誠に有難うございました。

 

それでは、次回もよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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