10月19日、キエフのホテルを午前9時に出発し、10時45分ごろチェルノブイリ原発から30キロの検問所に到着。そして30キロ圏の内側の原発から10キロ程度離れたチェルノブイリ市内を視察。現在は原発関係者だけが週の半分程度滞在する町。ガイドしてくれたのは事故後に生まれた若者だった。
次にチェルノブイリ原発から3キロにあるプリピャチ市に入る。1970年にチェルノブイリ原発の職員の町として建設された。事故発生の翌日住民は全員避難。現在も住民は一人もいないゴーストタウン。いたるところに木が生えて、無人の建物が森の中に立っているように見える。近くには開園直前に事故が起きて使われなかった遊園地の観覧車がさびて無残な姿をさらしていた。
そしていよいよチェルノブイリ原発の敷地内に入る。爆発した4号機に加え、その後も稼働し、今は停止している1,2,3号機そして事故当時建設中だった5,6号機が敷地内に並んでいる。
4号機のすぐそばに視察用の施設がある。窓から3号機、4号機が一体の建物が見え、爆発した4号機の部分は石棺で覆われている。そして4号機の石棺部分をさらに上から覆うための巨大な鋼鉄製のドームが4号機に隣接した場所で建設されている。2017年には完成し、4号機の部分を覆うように移動されるという。
4号機の内部は視察用の施設に、内部が分かるように開閉できる原発の模型が展示されている。専門の人から詳しく説明を受ける。1986年、4月26日午前1時、4号機は突然大爆発を起こした。3000トンの重さの原子炉上部が30メートル跳ね上がり、90度回って落下。同時に火災が発生。消火に当った職員と消防士が数十人が最初の犠牲者となった。
チェルノブイリ原発はソ連が独自に開発した黒鉛炉で、福島原発の軽水炉とは大きく構造が違う。福島原発事故は地震津波に対する備えが不十分で、全電源が喪失し、さらに冷却機能が停止し、メルトダウン、メルトスルーが発生し、メルトダウンの過程で発生した水素が外に漏れて水素爆発を起こした。チェルノブイリ原発では人為ミスで核分裂反応が暴走し、一瞬にして爆発し、放射性物質が飛び散った。いずれも人災といえる。
窓の外に本物の4号機を見ながら、その内側の状況を現物模型で詳しく説明を受けた。通常の火力発電所なら、どんな事故でも放射能は発生しないので、事故の影響が長期に及ぶ事はない。しかし、チェルノブイリ事故から今年で29年、30キロ圏は許可を受けた人以外は立ち入り禁止。事故を起こした原発は石棺から放射能が漏れだしているため巨大なカバーを国際的な支援で建設中。原発自体の廃炉にはまだとりかかれていない。カバーの有効期間は100年と想定され、その間に廃炉作業を進めたいと言うが、展望は全く立っていないようだ。
福島原発事故も全く同じだ。来年3月で事故から5年。今回案内してくれたウクライナの若いガイドのように、事故発生後に生まれた人に廃炉作業を託するようになるだろう。
現在は原発建設を進めた責任ある人たちの多く健在だ。私を含め、その世代が責任を持って脱原発を実現し、これ以上次の世代に放射能被曝の危険を残すべきではない事を改めて強く感じた。