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こんにちは マダムサトコです。 本日は ”日本では ニックネームの習慣が海外ほど 根付かなかった”ことについて考察してみます。

 

本日は 創世記 25章24節から読んでいきましょう。

出産の時が満ちると、見よ、 双子が胎内にいた。 

 

 

現代で双子と言うと、お母さんの妊娠中は結構お腹が大きくなって 多胎、 双子とか三つ子とかなんだろう なとわかるんですけれども、 もしかしたらこの当時は今よりも 栄養 事情は良くなかったでしょうから、赤ちゃんも今よりずっと小さく 双子と言っても現代ほどお腹が大きくなかったかもしれませんね。

見よ、言うのが驚いたというようなニュアンスで書いてあります。 日本語の聖書ですと ここよりも前の説に子供たちと 複数形で書いてあったり

 

 

するので お母さんも分かってたのかな と思うんですけれども、 この24節の書き方ですね 

見よ 双子が体内にいた

驚いてるということは日本語の この 聖書 訳がちょっと違ってたということなんですかね。

 

25節 最初に出てきた子は、赤くて、全身毛ごろも のようであった。 それでその子をエサウ と名付けた。

 

 

エサウ というのは毛むくじゃらというという意味です。 2024年の現在にこんな呼び名を子供につけたりなんかすると 「子供の人権侵害だ!」とか言われそうですけれども、 当時はまあそうやって見たまんまの名前をつけるというのが普通だったんでしょうね。

 

ちなみに私の住んでいるタイですとタイ人の本名はサンスクリット語やドラビダ語 からの引用とか、とりあえず インドっぽい名前が多いんですけれども、結構長くて難しいんですね 本名がね。 それゆえに みんな子供の頃から 呼び名 あだ名を持ってるんですけども、 これがまあ 結構見た目 そのまんま の呼び方をしていたりします。

 

ちょっとふっくらした子だとみんな”ウワン”と呼ばれてます。まあ 日本語で言うところのおデブちゃんっていう感じですね。 生まれてきた時に体が真っ赤だったという人はデーンと呼ばれていたり、 まあ タイ人ですので 色黒 もたくさんいるんですけれども 色黒の人はダムと呼ばれたり、結構見た目 そのまんま。 なのでまあそういう文化は世界共通であるのかな と思います。

 

26節 その後で弟が出てきたが、その手はエサウ のかかとをつかんでいた。 それでその子をヤコブと名付けた。 イサク は 彼らを生んだ時、 60歳であった。

 

 

ヤコブというのは、現代でもジェイコブという名前で多くの人々の名前として使われている名前ですね。 ジェイコブという名前だと 古臭いし長いしということで、 ジャックと 省略しておられる方もたくさんいます。 つまり まあ今の日本でいう しわしわネームの一つですかね。

 

このヤコブというのは「かかとをつかんでいる」という意味だそうです。 現在の医療とか出産の時の統計事情なんかを見ますと、双子の赤ちゃんの片方が もう片方の赤ちゃんのかかとを掴んで生まれてくるって「ないだろw」と思ってしまいますよね。

 

これは私が思うに、実際に掴んでいたのではなく、 例えば何らかの事情で

最初に出てきた赤ちゃんをまず 床に寝せて そして

2人目に出てきた赤ちゃんをまあその一人目の赤ちゃんの足元に置くような形で

縦に並べる という感じでしょうか

その2人目の赤ちゃんが1人目の赤ちゃんのかかとを掴むように見える行為をした

 

とかいうこと なんじゃないかな と私は思っています。

 

そして赤ちゃんの父である イサク は60歳だったと書いてあります。 まあ 現代では60歳で子供が生まれるというのはまあまあ なきにしもあらずですよね。 例えば一度離婚して2回目に ずいぶん 年の離れた奥さんと結婚してまあ 「二毛作が始まった」みたいな言い方を昭和の時はしておりましたけれども、 とにかくこの箇所では

 

赤ちゃんは2人

イサクは60歳

イサクの妻であり 赤ちゃんのお母さんである リベカはアラフォー

ということが分かりますね。

 

本日は日本では ニックネームの習慣が海外ほど 根付かなかったことについて考察してみます。

 

最近の研究では この聖書の時代のこの辺りの文化ですね、 いわゆる シュメール文化という文化の中で 聖書というのは 成り立ってきたんですけれども、 この シュメール文化 シュメール人 というのが 実は 海洋民族であり 東南アジアの現在でいう カンボジアまで文化を伝えていたのではないかという説が出てきています。

 

カンボジアというのは 文化圏で言うと クメール文化という文化圏にあたるんですけれども、 この シュメールとクメールという名前が非常に似ているとか、建築物から見る 何かしらの 計算 (私にはよくわかりません けれどもね)そういったものに非常に多くの共通点があるそうです。

 

というところで、 シュメール文化が この東南アジアのあたりまで来たおかげか、 見た目 そのまんまの子供のあだ名をつけるという文化が非常に似ているなあと私なんかは思ったりします。

 

日本では逆に名前自体が短くてシンプルなので、本人の名前を短くするというようなあだ名の付け方が一般的ですね。 また日本では 見た目 そのままの呼び名をつけたりなんかすると 人権ガーとかルッキズムガーとかいう風に言う方々が今 たくさんいらっしゃるんですけれども、この当時は 文字がなかったでしょうし、 見た目の特徴で誰かを特定するために このような呼び名がつけられた。 

 

そしてこの聖書のこの箇所には書いてないんですけれども、 きっとその人の本名を呼ぶということはかなり 神聖な行為だったんじゃないか と 私は想像しています。

 

なんせ 言葉には魂が宿る、 いわゆる 言霊ですね、 そういった 魂霊のこもっている名前を他人に軽々しく 発現させてはいけないというような思想がもしかしたら あったかもしれないですね。

 

じゃあ 日本人は何で本名で呼んでいるの? と言うとちょっと聖書の概念からは外れますけれども、 いわゆる 八百万の神 があって「他人が自分を呼ぶ その声にも魂がある」という考え方で本名を読んでいたのかもしれませんね。

 

ということで 本日は 呼び名の謎ということについてお話をしてみました。 本日の箇所が面白かったためになったと思う方は アメブロでのフォロー、Youtubeでの高評価チャンネル登録 お知り合いへの拡散をよろしくお願いいたします。。

 

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それでは今日はここまでです。 ご視聴 誠にありがとうございました。 
 

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