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こんにちはマダムサトコです。本日は アブラハムとイサクの姿を通して信仰心とまた教会の原始的な姿、というお話をしたいと思います。

 

本日は 創世記 22章8節から読んでいきましょう。 

アブラハムは答えた。「 イサク。 神 ご自身が全焼の生贄の羊を備えてくださるのだ」 こうして2人は一緒に歩き続けた。

 

 

神 ご自身が全焼のいけにえの 羊を備えてくださる、というのは神が後に出てくるキリストイエスを私たち人間に与えてくださる。キリスト イエスの命を人間の罪の贖いとして捧げてくださる。このようなことをここでまた予言してるわけですね。

 

またここではアブラハムは父として 「イサクの命を捧げなさい」と言われているんだけど、もしかしたら どこかで 「イサクの身代わりが出るかもしれない」 もしくは父親の心境として「自分の命を捧げるので イサクを助けて欲しい」など 様々な意味を含めてこの 「神 ご自身が全焼の生贄の羊を備えてくださる」という言葉になったんだろうと思います。

 

こうして2人は一緒に歩き続けた、という箇所については 新約聖書の中にある神は 常に私たちと共にいます

 

 

 という言葉を模して、 この二人とは「私と神 (もしくは神の使いである 聖霊)」とということで、 私たちの人生というのは自分のこの体とそしてまた自分たちの内におられる神との共に歩いていくこと、 なんだということをここで表してるかもしれませんね。

 

9節 2人は神が アブラハムに告げられた場所につき、 アブラハムはそのところに祭壇を築いた。そうして薪を並べ、 自分の子 イサクを縛り、 祭壇の上の薪の上に置いた。 

 

 

ここも また今でしたら 即児相通報案件、 児童虐待案件ですね。 アブラハムはそのところに祭壇を築いたとありますけれども、 そこで全焼のいけにえを捧げる前提ですから、 これはまさに キャンプや バーベキューなどで 石や岩を積んでカタカナの コの字型にして網を乗せる、 まさにあんな感じだったんでしょうね。

 

そしてその この字型の内側に薪を並べてとありますので、もうアブラハムは逃げ道がないと思っていたんだと思います。 また かすかに心のどこかで「必ず神様が止めてくださる」ということも願っていたと思います。 

 

そして自分の子 イサクを縛りとありますね。 この時 イサクの年齢は14歳ぐらいです。 現代のような食生活が それなりに 豊富で栄養価の高いものを食べられる状況だと、14歳で115歳のお父さんに( 今の年齢で言うと おじいさん もしくはひいおじいさんですね )その年齢の老人に縛られるような14歳というのはいないと思いますけれども、

 

この当時は 食事 事情が そこまで良くなかったのか、もしくはアブラハムが相当 筋骨隆々の115歳だったかということを先に考えてしまいますけども、

 

ここで イサク が縛られているということは、 この イサク 自体も自分が犠牲の子羊の代わりに捧げられるという事実を理解して納得して黙って縛られたということでもあるかと思います。 まあ そうではなければやっぱり115歳と14歳の戦いですから、 その当時だって 全然 14歳の方が勝ち目があったかと思います。

 

 つまり イサク はここに到達するまでイサクの信仰心を表す箇所というのは 全く出てこないんですけれども、 生まれた直後に割礼を受けてそこから神様を知って この14歳まで生きてきた。 そして14歳でこのような出来事があったとしても必ず神様が助けてくださるという言葉に何の違和感もなく 何の迷いもなくその言葉を信じて、 その言葉に従ったというところがこの箇所から読み取れますね。

 

10節 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

 

 

この時のアブラハムの心境はいかなるものでしたでしょうか。 自分が100歳になってやっと恵まれた長男を自分の手で殺めるのか。 こんな人間的な気持ちが右往左往する中でも「必ず神様が助けてくださる。 神様の言葉に従うということを第一にした人生、それはどういったものか」ということを アブラハムはこの中で 逡巡していたと思います。

 

本日は イサク が犠牲の捧げものとして、しかるべき場所に来て自分の最も大切なものを捧げるというシーンですね。 

 

これは他の側面として来るべき場所に来るとは 教会のことだったり、 捧げるべきものを捧げるとは 現代風に言えば 献金という名前で自分の収入の1/10 を 教会へ差し出すことだったり、 もしくは 奉仕 という名の作業の労働で教会の活動を支えることだったり。

 

またこのアブラハムが刀を取って犠牲の仔羊を屠り捧げる姿というのは、 その後 教会ができて人々が教会に自分の持ち物から最善の子羊や 子ヤギを持ってきて それを 司祭が屠っていく、まあこのような 原始的な教会の姿というのも このアブラハムの行動からなんとなくですけれども その姿を読み取ることができますね。

 

ということで 本日は アブラハムとイサクとその2人の信仰心、 また その2人の神の言葉に従う姿を通して原始教会の姿というのを読んできました。

 

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それでは今日はここまでです。 ご視聴 誠にありがとうございました。
 

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