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こんにちはマダムサトコです。本日は 創世記 16章13節から読んでいきましょう。

 

13 そこで彼女は自分に語りかけられた主の名を 「あなたは エルロイ」 と呼んだ それは、「ご覧になる方の後ろを私が見てなおも ここにいるとは」と彼女が言ったからである。

 



これはどういう状況かと言いますと、 このハガル に語りかけた 神様の使い というのはもちろん 肉眼では見えないです。 そしてどこかから声が聞こえた、 ハガルに「アブラムのもとに帰りなさい」 という声ですね、 これが聞こえてと振り返った。

 

その当時は”神様の声を聞いた”とか ”神様を見た”というのは非常に神聖なことであり、 また そうなった時には 命を奪われてしまうようなことがよくありました。 ちょっと話は外れるんですけれども、 神様に捧げ物をする人たちが神様の声を聞いた時にまるで雷で打たれたかのようにと言いながら バタッと倒れてしまう、まあ 日本語で言うと 神がかりとなったとかお稲荷さんがついてその人が倒れたとかそういう図を思い浮かべるとこの状況が浮かぶかと思います。 

 

そしてハガイが見たのはこの使いの”後ろ姿”でありました。 日本語でもありますね ”チャンスの神様は前側にしか髪の毛がない”というやつです。 想像するとどんな髪型だよと思うんですけれども、 これは「神様だと気がついた時に掴もうとしてもそのチャンスはすでに掴めなくなっている、 来た時にしかつかめない」ということで 神様のこの髪の毛のない後ろ姿ですね、これを見てもなお 「自分がまだここにいる、 命も奪われてないし チャンスも与えられている」というように解釈していただくと わかりやすいかと思います。

 

でこのエルロイ というのはですね ”神様は見ておられる”という意味です。 

 

ハガイは自分が苦しんでいること、 これは 

身重で今までの生活基盤から追い出されて水のない砂漠で彷徨っていた、 この苦しみを見ておられる。 

 

また ハガイがサライに対して高ぶった態度をとったこと、 苦しみの中で助けてください と叫んだ ハガイの心。 すべてを見ておられたということが ここに入っているかと思います。 

 

14節 それゆえ、 その井戸は ベエル ラハイ ロイ と呼ばれた。 それはカデシュとベレテの間にある。

 

 

 ベエル ラハイ ロイというのは”生きてみておられるお方の井戸” という意味です。まあつまりですね 

神様は生きておられる。 

そして私のことを見てくださっている。

井戸というのは人間の肉体としての生命で必要な水が得られる場所であり、

また比喩的に人間の魂を救ってくれる源は神の力である。

こんなようなことが ここに現れていると思います。

 

その場所はカデシュとベレデでの間にあるとあります。 このベレデで というのがどこにあるのかよくわからないんですけれども、 カデシュ というのは 今でもありまして シリア 国内にあります。

 

 

これを アブラハムが住んでいたヘブロンから直線距離で見てみると 約350km あるんですね。どこかにあるベエレでとこのカディシュの間ということですので、 ヘブロンとカディッシュのちょうど真ん中 170kg ぐらいのところに ベエレがあったとして その間ということは だいたい ヘブロンから250km ぐらいのところじゃないかな と私は思います。

 

そうしますと ハガイが女一人でこの砂漠を250キロほど一人で歩いてきたというのはなかなかにしてすごいことだと思います。 だいたい日本で言うと 東京から浜松ぐらいの距離だということですし、 またこの時代には多くの 盗賊だの山賊だの野賊だのいろいろ いたことを考えると、

 

もしかしたら 一人じゃなかったのかな とも思います。 それはアブラハムの それなりに ハガイを心配する心遣いで家のものとそれなりの家畜をつけてやったのかなという気もちょっとします。

 

15節 ハガイはアブラムに男の子を産んだ。 アブラムはハガイが生んだその男の子をイシュマエル と名付けた。

 



神様に言われてハガイはアブラムのもとに帰り、きっと サライとは まあ 別の少し離れたところに住んで お互いが顔を合わせないようにしたのかなという気もします。

 

そしてハガイは以前のようにサライにマウントを取ることもなく無事に男の子を出産した。 そしてその男の子は神様の言われた通りイシュマエル、 ”神様があなたの苦しみを見た”という名前をつけました。

 

この名前を聞いた時 アブラハムはどんな気持ちだったんですかね。 ひとつには追い出して悪かったな という気持ちもあれば、 アブラハム 自身も この人間関係で苦しんでいたのを神様が見ておられ、 アブラハムの子孫だからこのハガイの子供にも祝福を与えてくださっている。 どちらのようにとらえたかは分かりません けれども、 この名前を聞いた時 アブラハムにも思うところは いくつかあったのではないかと思います。

 

16節 ハガル がアブラムに イシュマエルを産んだ時 アブラムは 86歳であった。

 

 

86歳 なんて言うと 今の日本であったら もうひいおじいちゃん ぐらいの年齢だと思うんですけれども、 無事に このイシュマエルの父親となった そしてサライにはまだ子供がないという状況です。

 

さあ これからどうなるんでしょうか。 続きはまた明日以降ですね。

 

本日はある 意味 ”私が神様と出会った時”というお話の一部のような気がします。 キリスト教と呼ばれる人たちが自分の自己紹介をする時に「私が神様を知った、私が神様を信じるに至ったお話」というのをよくします。

 

日本語で言うと証し、 英語で言うと テスティモニアルと呼ばれているんですけれども、どんなきっかけがあって神様を信じるようになったかということをお話しするんですね。

 

ここではハガイが過去に行った 自分の愚かなことも神様は全て許してくれて、またハガイにとって最善である アブラムの元に戻るという選択肢を神様によって与えられた。 それによって人間の勝手な努力ではあるんですけれども アブラムの子孫が 「この 満天の星の数のようになる」という言葉を ハガイをも通して一つ 実現させてくれた。

 

こういった証しの箇所だなと私は思っています。

 

今日の箇所は メロドラマで言うのであれば ”本妻から叩き出された愛人がこっそり囲われている小さな家に戻ってきて 子供を出産した”という これまた大きな問題になると 私たちはドラマだったら ハラハラしてみる場面でもありますね。

 

まあ ドラマと違って この愛人は 本妻が連れてきた 愛人ではあるんですけれども、 現在的な人間同士での関係の価値観からすると跡取りが欲しいから 跡取りを生むためだけの道具として使われてしまっている。 まあ 時代は違うんで仕方ないかもしれません けれども、 この行動が実はやっぱり良くないということも このサライとハガイの第1弾の喧嘩 そして子供が生まれた後の様々な物語から見えてくるような気がします。

 

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それでは今日はここまでです。 ご視聴 誠にありがとうございました。

 
 

 

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