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こんにちはマダムサトコです。 本日は 創世記14章18節から読んでいきましょう。

 

18 さて シャルベの王 メルキゼデグはパンと葡萄酒を持ってきた彼は いと高き神の司祭であった。

 

 

 

この箇所はびっくりするほど いろんな 伏線があります。 その伏線を回収するのはだいぶ先ですので、ここでネタバレを先にしちゃいたいと思います。

 

まず このシャレムというのは シャローム という言葉の短縮形 もしくは 古代の時代の言葉です。 シャロームというのは 皆さん聞いたことありますでしょうか。 ”平和を” というような意味です。ユダヤ人の人たちなんかが 「シャローム シャローム」と言いながら挨拶のように使ってる言葉でもあります。

 

また これは エルサレムという現在のイスラエルでも首都となっている都市の短縮形かまたは古代の呼び名とでも言いましょうか。 エルサレムがシャレムだった と聞くと なんとなく似てるかもしれないなと思いますね。

 

でこの”シャレムの王”というのが2つの意味を持つことは この説明からわかりますね。

 

平和の王であり エルサレムの王 とも読めるわけです。

 

そしてメルキデゼクというのは ”義の人”正義の人という意味があるそうです。

 

その人がパンとぶどう酒を持ってきた。おやおや これは 皆さん ”アレ”だよね と思われたでしょうか。 そうです アレです。 教会で聖餐式 英語では ホーリーコミュニオンと呼ばているあの時に用いられるものです。日本人の方には”最後の晩餐の時に食べていたものだよね”とかそういうところでをなんかちょっと特別感があるなと思えるかもしれませんね。

 

そして彼はいと高き神の司祭であった、この複合的な要素で表されている ”シャレムのメルキゼデク”というのは アブラハムの前に現れたイエスキリストをトレースした人物だという風に考えることができます。

 

実際の イエスキリストが現れるのはこのアブラハムの後の何千年も後なんですけれども、全ての民族の父であると言われる アブラハムがこの生きている時点でイエスに出会っている。 これも 聖書 ならではの非常に面白い伏線となっています。

 

19節 彼はアブラムを祝福していった。「 祝福を受けよ アブラム 天と地を作られた方 いと高き神よりあなたの手にあなたの敵を渡されたいと高き神に誉れあれ」

 

 

これは文字通り読むとこの シャレムの王の”メルキゼデクが”「良かったね 神様があなたを救ってくれたんだよ」というようにも 読み取れるのはもちろんなんですけれども、”神様が”アブラハム 良かったねと言ってくれている、神様=イエスキリストが褒めているというようにも取れるわけです。

 

つまり 神様は 

アブラムが失ってしまった財産を取り戻したいという希望を神様が叶え、 そして

神様が与えたチャンスをフルに活かした、ということに

「良かったね」と言ってるようにも取れます。

 

20節 あなたの手にあなたの敵を渡されたいと高き神にほまれあれ」 アブラムは全てのものの1/10を彼に与えた。

 

 

前半はこの某メルキゼデクが神様を崇め讃えています。 それをアブラハムは聞いて「その通りだ」と同意し 全てのものの1/10を捧げている。

 

これはキリスト教会で言われている”十分の一献金”の最初の形です。 

 

十分の一献金というのは、自分が得たものの中から1/10を神様にお返しするというものです。

神様を信じ、 

「神様が働いてくれたからこそ私たちはこの収入を得ることができた」と知り、 目には見えないけれども

「神様がここにおられる」ということを表す意味も含めて

十分の一を神に捧げる、 神にお返しするという行為がここで行われています。

 

 21節 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し 財産はあなたが取ってください 」

 

 

今回の戦乱で多くの財産を失った ソドムの王がアブラムに「人間は返してください でもお金や 羊や 馬はあげますよ」という風に提案しています。

 

これは非常に 気前のいい提案でもありますし、一方 アブラムにしてみたら エジプトの苦い思い出がよみがえるような提案でもあります。

 

エジプトでの苦い思い出というのは妻であるサラをファラオ に差し出したことにより受け取った財産ですね。その時はそれで「やれやれ しめしめ やったー !」と思った財産でしたけれども、後々 それを巡って親戚と争い 財産を減らすようなことになってしまった。きっと アブラハムはその時の経験から「棚からぼたもちはやめよう」とどこかで思っていたかもしれませんね。 

 

また王の方は アブラムの大いなる活躍を見て 「褒美を与えることで自分の配下に入れたい」というような 思惑もあったかもしれません。

 

 なかなかの人間模様が交差するシーンかと思います。

 

22節しかし アブラムは ソドムの王に言った 「私は天と地を作られた方いと 高き神主に誓う。 

23節 糸 1本でも靴紐1本でもあなたの所有物 から 私は何一つ 取らない。 それはあなたがアブラムを富ませたのは私だと言わないためだ」

 

 

ここでアブラムはこの財産をあげるというソドムの王の申し出をきっぱりと断っています。 

 

断った理由の一つはきっと ですね ソドムという町が以前ご紹介しました通り、色々と爛れた良くない街であった、つまりそういったことを元にして築き上げた財産を私は欲しいとは思わないという、悪しきことから距離を取ろうということがあったと思います。

 

 そしてもう一つ”アブラムを富ませたのは私だと言わせないため”ですね。 今の日本でもよくありますね、「あいつは俺が見てやったんだよ」 「あいつ俺の後輩だからさ」 「あいつは昔どうこうだったんだよ」と立派になった後で人のことをぐずぐず という人というのは すでにこの時代からいたということですね。

 

そういった恩着せがましい行為をされたくないというのをすでに先回りして考えてた。これもすごいことだと思います。

 

そしてもう1つは富ませたのは人間ではなく、”神が アブラハムに財産を与えた”、これがアブラハムが断った最大の理由です。

 

24節 ただ若者たちが食べてしまったものと私と一緒に行った人々の分け前 とは別だ。 アネルとエシュコルトマムレには 彼らの分け前 を取らせるように」

 

 

ここではすでに食べてしまったものはちゃら、そして自分に従って行った人々には報酬 報奨 を十分に与えてくれと言っています。 ここでは アブラムがこの「ロトが奪い取られた財産は誰のものか」ということをはっきりと 認識していた。自分のものを取り返したんだから それについて 他人から報酬をもらう必要はない。 ばっさりとそういう風に言い切ってるというシーンでもあります。

 

今日の箇所は前半は アブラムの目の前に現れたイエスキリストの姿を見ることができますし、後半は アブラハムの神 そして自分というものの強烈な意識を感じることができる箇所です。

 

人間というのはやはり目で見たものに弱いですから、いくら 日頃「神様が私を助けてくださる」と信じて祈っていても、目の前にボンと高価な財産を出されて全部あげるよと言われたら ハハーとその財力 そしてその財力を持つ人間に屈してしまうというのが普通なんですけれども、

 

ここでは アブラムは「目に見えるところではなく信仰によって歩む」、信仰によって神が「今ここで 何か自分が得なくとも さら増して加えて与えてくださる」ということを信じていたというのがよくわかる箇所です。

 

人間というのは何か失くしてしまった、何か 過去と変わってしまった、様々な困難に直面している時に「これが必ず好転する」とか「以前に増して加えて与えられる」というような言葉をなかなか 聞くこともないかもしれません。

 

というのも そういう状況の時って心も耳もふさがってしまいます。人が話しているのを聞こえてはいても聴いてはいないという状況に陥ることが多いかと思います。

 

日本や世界で震災や戦争で今までの生活が一変してしまった様々な困難に直面している人は多数いらっしゃいますけれども、本当にその人たちにかけてあげられる声といえば

 

「必ず平穏な生活ができる、そしてあなたが以前持っていたものは さらに増し加えて与えられる」

 

本当に”希望の言葉”しか私たちは 述べていくことができないんですけれども、”励ます”ということだけが人間にとって誰しもができることであれば、引き続き励ましをしていけたらなと私は思っています。

 

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 それでは今日はここまでです。 ご視聴 誠にありがとうございました。

 

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