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こんにちはマダムサトコです。本日もよろしくお願いいたします。 本日は 創世記12章 第5節から読んでいきましょう。

 

新改訳聖書より引用しております。

 

5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。

7 そのころ、主がアブラムに現れ、そして、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

8 彼はそこからベテルの東にある山の方に移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のために、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

 

 

引用はここまでです---------- 

 

本日は アブラムとサライがハランの地を出て カナンに向かうシーンです。

 

このカナンというのが 聖書の時代から現在まで引き続き イスラエルの領土問題 ガザ地区のことです。

 

アブラハムとサラと甥のロトとは 彼らが得た全ての財産とハランで加えられた人々を伴いとありますので 

 

 

アブラハムの父であるテラ、アブラハム サラの一行はウルを追われて 災害 難民としてハランに移ってきたにもかかわらず、そこでまた大きな財産を得るほど人を使うようになるほど 商売がうまくいっていたというように ここから推測できます。

 

神様にカナンに行けと言われたのにハランで留まったのはもしかしたらこの地での商売 生活が思った以上にうまくいっていて、その現在 持っているものを手放したくないという気持ちがあったのかもしれません。

 

そして 当時 その地にはカナン人がいたとあります。

 

 

カナンについては 詳しい記述はここではされていません。 また神様がどうしても「そこに行け」と命令しているにもかかわらず 人の目には 人間として都合のいい場所 人間として快適から抜け出したくないという気持ちで神の言葉に背を向け、 それによって寺が短命で亡くなったとも考えられるシーンです。

 

しかし アブラムは神の言葉に従い その快適だったハランを出て カナン へ向かいました。

 

アブラハムがウルの地を出た時にはどこに行ったら良いのかわからない とにかく言葉に押されて出たという感じだったんですけれども、この時点で神様の約束が一歩 明確になったというのも ここから読み取れます。

 

そしてもう1つ 面白いのはあなたにではなくあなたの子孫に私はこの地を与える

 

 

つまり 神様は人間を作った時に「産めよ増えよ 地に満ちよ」とおっしゃってくださったように、ここでもアブラハムの子孫に増えていく人々に与える という約束をしてくださっています。

 

アブラハムは主が自分に現れてくださったので そこに 祭壇を 築きました。目には見えない神様に神様がそこにおられると目に見えるように示す、 神様がここに導いてくださったことに感謝する 神様が語りかけてくださったことに応じて礼拝を捧げる そのような ために 祭壇を築きました。

 

本日は 現在までも続く ガザ地区の紛争の起こす側の理論ですね、「この地は神が私たちに与えてくださったものだ」 その根源となる箇所です。

 

まず 今日のアブラハムのこの災害難民として長く住んできた土地を離れなければならなくなった、今までの生活基盤が全て失われたにもかかわらず神様は 新しい土地でも大いなる繁栄を与えてくださった、というのは 災害の多い日本では非常に慰めになる箇所ですね。

 

仕事 生活 肉体上のこと 何かしら 今までと変わるようなことがあっても主は必ず新しい道を示し、またそこで 同じように繁栄させてくださる。

 

2024年は元旦から日本でも大きな地震がありましたけれども、そこで被災して今までの生活基盤が奪われた方にも必ずや新しい道 そして 新たな 繁栄が与えられる という約束の箇所です。

 

このように聖書というのは その字面だけを読んでいるとただの読書なんですけれども、”これが自分の身に起こった場合に”ということを考えながら読むと非常に多くの励ましや慰めを得られる書物でもあります。

 

アブラハムは自分に現れてくださった主のためにそこに 祭壇を築いたというのは、この祭壇と神様の存在と贈り物の関係については このブログ/動画で 詳しく説明しておりますので ご興味のある方は是非ご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

またそこに 祭壇を築いたというのは、私たちは別に教会に行かなくとも どこか 特定の場所に行かなくとも「神様が良くしてくださった」と思った場所で自由に祈る、自由に感謝を捧げても良いということが ここから読み取れます。

 

多くの宗教と呼ばれるものが「どこそこの場所に行ってどういう順番で礼拝して」と決められていることからすると、場所や手順以上に感謝をすぐに表すといった気持ち大切だということがここから読み取ることができると思います。

 

 

本日は 現代まで続く紛争の始まりのシーン、また神様に感謝する神様の言葉に聞き従うのはいつでもどこでも誰でもできることである、たとえ全てを失ったとしても主が必ず再び 繁栄を与えてくださる、このようなことが今日の箇所から読めるのではないでしょうか。

 

ということで 本日はここまでです。ご視聴 誠にありがとうございました。  

 

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