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こんにちはマダムサトコです。 本日は 聖書 創世記 第4章13節から16節まで読んでいきましょう。

 

新改訳聖書より引用しております----------

 

カインは主に申し上げた。

 

「 私の咎は大きすぎて担いきれません。あなたは今日私をこの土地から追い出されたので、 私はあなたの御顔から隠れ地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで 私に出会うものは誰でも私をコロすでしょう」。 

 

主は彼に仰せられた 「それだから誰でもカインを殺すものは 7倍の報復を受ける」。

 

そこで主は彼に出会うものが誰も彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしをくださった。

 

それでカインは主の前から去ってエデンの東のでの地に住み着いた。

 

引用はここまでです---

 

 

この箇所のまずカインが主に申し上げた「 私の咎は多すぎて担いきれません」。

 

これは何を言っているのかと言うと、たくさんの意味があります。

 

まずはもちろん

主に背いて 

主を崇めず

主に立ち返らなかった自分の態度、

 

また

自分の犯した失敗による、自分に対しての神様からの批判を他人に向けたこと、 そして

一番身近な兄弟を憎んだこと。

 

非常に多くの意味がこの「私の咎は多すぎて担いきれません」に入っています。

 

そして神は人間にとっての楽園であるエデンを「もはや カインの住むところではない」とカインを追い出した。

 

人間はこれ以降食べるために1日の時間の大半を費やして労働をすることになります。

 

「私はあなたの御顔から隠れ地上を彷徨い歩く」というのは まさに私たちが今していることではないでしょうか。

 

神様から離れ、 神様を知らずに、どこに行ったら良いのかを彷徨いながら自分たちの道を探している。このような現状をここでは表していると思います。

 

そこで「 私に出会うものは誰でも私をコロすでしょう」 というのはなかなか聞き捨てならない セリフのように聞こえますけれども、

 

このコロすというのは肉体的にコロすのではなく、

 

その人に合った それぞれの才能や 賜物を用いない、

権力者が自分の権力維持の駒として生きる人生を 私たちに強いる、

事なのかもしれません。 

 

また「出会うもの」となっていますけれども、それは私たちの”欲”ということも言えるかもしれません。

 

いい生活がしたい、いい給料を得たい、そういった理由で自分本来が生きる道を取ろうとせず、肉体的には生きているのだけども、魂としては死んでいるような状態で生活をする。

 

このような意味もここに含むかもしれません。

 

主はそれでもカインを殺そうとするものには 7倍の復習がある、としてくださいました。誰も彼を殺すことないようにカインに与えた印とは何だったのでしょうか。

 

それは何か目に見える目印なのではなく、神に立ち返って信仰心を以って生きる、カインの生活態度だったかもしれませんね。

 

 

このカインの話は神から離れようとしつつも神から離れられない人間の性を表しているかもしれません。

 

皆さんの中にも 私は無神論者だという人もいらっしゃると思いますけれども、「俺は無神論者だ」と言いながら何か問題があった時に 「神様 仏様 助けてください」 と願ったり、

 

おみくじとかですね、 神様がどのように自分を見ておられ これから変わっていくのかを知りたい、というものであったり。

 

日々の私たちの生活の中にも「自分たちが神から離れていつつも、結局は神から根本的には離れることができない」という態度を示しているように思います。

 

それはこの箇所で「カインがエデンの東に住んだ」ということで現れているかもしれません。

 

 

 

この箇所は人間関係で最も難しいものは何かということが書かれている箇所にも思います。

 

それは肉親との関係ですね。

 

世の中には「親戚だから 肉親だから仲がいいのだろう」と思われることも多いんですけれども、実際の私たちの生活を顧みると 肉親だから兄弟だからこそ、争いまた憎み合うということも本当に多いように感じます。

 

また肉親だからこそ相手の素晴らしい点を見ると憎しみとなり、足を引っ張るようなことをする。

 

そういった行為、これは聖書の中にある 「誰でも カインを殺すものは」 という点ですね、 相手の良い点 神様によって与えられた賜物を潰そうとするものは、自分の行ったことの7倍の復習を受けるということなのだと思います。

 

今は肉親の間のという形で話をしましたけれども、 これは 肉親間だけではなく社会的な生活でも同じことが言えるのではないでしょうか。

 

組織の中で ”適材適所よりも人が足らないとこにとりあえず その人を置く” というような 行為が顕著だと思います。

 

その人の特性を用いないとは、組織側はそのことをさせようとするのにその人はどのようにしているが良いのかわからない、 何をしてもうまくいかないと悩み、その人を精神的に葬ってしまう、その人の特性をコロしてしまうような行為になるのかもしれません。

 

それゆえに 神への信仰心を持ち 「神の国と力と栄えとを自分たちの特性=賜物を用いて この地上で表す」、 この考えももしかしたらこの聖書の箇所のカインに一つの印をくださったという点に当たるかもしれませんね 

 

神を崇め神に与えられたものを大いに表す。 

それによって誰もその人を適当に扱わず、

その人の持てるものを発揮できる場所で用いて、 

生き生きと生きていく。

これが賜物を用いて生きるということなのかもしれません。

 

私はこのカインとアベルの箇所については、人間の非常にドロドロした部分、また生きづらい部分が書かれているとも思います。

 

そして日々この状況にある私たちの中で思い当たる点としては、

 

「神を顧みず、 自分の賜物よりも自分の生活に有利なことを選び、 日々自分の魂が解放されないような生活をしている」。 

 

もしかして 今あなたがそのような状況にあるのであれば、どうか日々少しずつ 時間を持って神様の前に出て

 

「私の賜物を用いて、私が誰にも邪魔されることのなく、私の世界を築けるように」と祈ってみたらどうでしょうか。

 

 それでは今日はここまでです。 ご視聴 誠にありがとうございました。

 

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