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こんにちはマダムサトコです。


今日は創世記の1章9節から13節までをお話ししたいと思います。

新改訳聖書より引用しております----------

神は天のもとの水は一カ所に集まれ。乾いたところが現れよと仰せられた。するとそのようになった。


神は乾いたところを地と名付け、水の集まったところを海と名づけられた。

神は見てそれをよしとされた。

 

神が地は植物、種を生じる草種類に従って、その中に種のある実を結ぶ果実を地の上に芽生えさよう。と仰せられるとそのようになった。


それで地は植物おのおのその種類に従って種を生じる草おのおのその種類に従って、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。

神は見てそれを良しとされた。

 

こうして夕があり、朝があった。

第3日

 

 

引用はここまでです----------

神様は水しかなかったところに海と陸を分けて陸の部分に植物を繁栄させました。


種を生じる草や種のある身となったことが、ここでは大きな注目点です。神様は、植物それぞれに自分で子孫を増やしていく、自己繁殖をする能力をここで表しておられます。


また、ここでは種という言葉が、のちのち聖書の中で数多く出てきます。

有名なものは、良い地に蒔いた種は大きく増えていくですとか、辛子種ほどの小さな信仰があればあなたは何でもできる。


というように、この種というのは大事な始まりの一つ、大事な始まりのものとして扱われていきます。

この創世記の初めのところに、種をと書いてあることがすべての始まりであるということにつながっていきます。


また、この中のおのおのその種類に従ってという言葉は、今私たちが常識で思っている進化論ですね、猿が人間になった、魚が、水陸両生類になった、まあ、こういったことが私たちは常識として考えて生きていますけども、

 

この言葉の中には、この進化論と真っ向に対立する考え、つまり、すべてのものを人間やそれぞれの動物すべてのものを神が各々その種類に従って作った、ということが見て取れます。

 

まあ、現代の科学と呼ばれるものが、どれほど真実に近いのか、私たちはもちろん知る由はありませんけれども、神の言葉である聖書は進化論と全く以って真っ向面から真正面から対立する状況がなぜかというのがここでわかると思います。


そしてここにも、神は見てよしとされたとあります。神様が世界を創造して、これでいいのだと納得しておられる様子が分かります。


この種をまくという行為は、私たち聖書を読む者には非常によく出てきて、馴染みのある言葉です。


良い所に蒔いた種は何倍にも伸びるという言葉だったり、種まく人ということで聖書の言葉を伝える人を表現することもあります。


種というのはどこか外にあるものではなく、実は私たちの内側にすでに持っているものでもあります。

ただ種というのはそのままにしていては目が出るものではなく、そこにお水ですとか肥料ですとか、手をかけて。育てる人がいて、目を出し育つものです。


インターネットが発達した現在では何かしら知ろうと思うと、自分でインターネットで検索して物事を知ることは可能ですけれども、それと習うということはまた別のことです。

 

習うというのは?何かに目覚め、自らこのことを知りたいと思い、知ってる人から様々な教えを受ける。育てる人があって、自分の中の種が大きく育つということもよくあります。


私達が教会へ行って礼拝や聖書の勉強をするというのは、私たちの内側にある種を育てる行為ですし、それを指導してくださる先生方は種に水を与えてくださる人々です。


このように、私たち聖書を読む者にはなじみのあるよく聞く種という言葉が、この創世記の最初の方に出てきているというのは、この聖書全体を通して私たちそれぞれの内側には小さな種があり、それをどのように育てるかというのが人間の人生であるということを語っているかもしれません。

それでは、今日はここまでにします。ご視聴誠にありがとうございました。

 

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