忌部氏・・・ | 天空の鷹 (URIEL)

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天と地の和合を祈り、陰と陽の調和を願う・・・。
 
天地に、きゆらかすは、さゆらかす
  神我がも、神こそは、きねきこゆ、きゆらかす
神の御息吹、天のみあらし、地のまくしき、
  きゆらかす・・・

【古代豪族-忌部氏考】 より抜粋。


忌部(いんべ)氏は、斎部氏とも記す。前稿の中臣氏と共に古来祭祀氏族として天皇家に仕えてきたとされる神別氏族である。

祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた。玉造が得意とされたが、古墳時代以後それは重要度が減り、忌部氏不振の原因ともなったとの説もある。
その元祖は、記紀によると、布刀玉命(ふとだま)(太玉命・天太玉命)とされている。
天磐戸(あまのいわと)神話・天孫降臨神話に、天児屋根命とコンビの形で登場する神である。

忌部氏の本拠地は、大和国高市郡金橋村忌部(現在:奈良県橿原市忌部町)辺りとされており、現在天太玉命神社がある。
延喜式神名帳では、名神大社になっていた。その後衰退し、明治時代には村社になった。

一方忌部氏系の地方の豪族は多数いた。中心は阿波忌部氏である。現在の徳島市二軒屋町にある忌部神社がその証拠である。鳴門市には「大麻比古神社」もある。その故地は、阿波国麻殖郡忌部郷(現在:麻殖郡山川町忌部)とされている。

この流れが関東の安房国に移り安房忌部氏となったともいわれている。千葉県館山市大神宮にある安房神社がその中心とされている。(洲宮神社神主家も同じ流れである)
これ以外にも出雲忌部氏・讃岐忌部氏・筑紫忌部氏・伊勢忌部氏・紀伊忌部氏など多数存在する。

ところが、歴史上名前が残った人物は非常に少なく、中臣氏とは較べようもない。平安時代初期807年に忌部氏の累孫である「斎部広成」という人物が「古語拾遺」なる本を著し、51平城天皇に奏上している。
この本は祭祀氏族として古来中臣氏と忌部氏は共に同等の扱いをされてきたのに、当時の忌部氏の扱いが余りに低いものになったことを、歴史的に不当であるとして、忌部氏の正統性を主張したものとされている。

現在この文献は歴史書として、それなりの価値があるとされているが、その内容が史実かどうかは疑問であるとされている。忌部氏の神代からの国家への貢献を記してある。

忌部氏は、地方の神社の神官として永続したことは間違いないが、中央豪族としての活躍は記紀に僅かに記されているのみである。

忌部氏と麻の生産は密接な関係がある。一方岡山県備前市伊部(いんべ)の備前焼(伊部焼)も阿波忌部氏が関与しているとされる。出雲の蹈鞴製鉄の技術も阿波忌部の影響があるとか。

「織田信長」は、忌部氏の末裔である説が濃厚である。一般的には、織田氏は平重盛流の平家の出とされているが、系図的には、忌部系織田氏に重盛流の人物が養子に入ったとする。

日本の神社を牛耳った中臣氏と対比する形で見ると、また異なった日本の歴史が見えてくることを期待して、本稿を記した。