地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし | ユングと親鸞に関する日々のつぶやき

ユングと親鸞に関する日々のつぶやき

私の人生に大きな影響を与えた二人についてひらめいたこと思いついたことなど書き連ねていこうと思います。

歎異抄をさらっと読んで感動したのだけど、実はそんなに理解はしていなかった。

ポイント、ポイントでああ、そういうことか、、と感動していた。

 

私の記憶で一番初めにワーッと思った言葉がタイトルの

 

地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし

 

という言葉だった。

 

この言葉は18章ある歎異抄の中の第2章に出てくる。

京都に住む親鸞を慕ってはるばる遠方から訪ねてくる使徒たちに向かって親鸞が言った。

 

「わざわざ遠くから命を顧みず訪ねてこられたのはみなさんいかにすれば極楽往生ができるかを私に聞きたかったということですね。

きっと難しい話でも聞きたかったのでしょうが、親鸞においてはただ念仏して阿弥陀様に極楽往生させてもらえるものと信じるほかに何もないのです。

 

念仏によって本当に往生させてもらえるのか、または地獄に落ちてしまうのか私には全くわかりません。

 

ただ私は念仏すれば極楽往生できると教えてくれた師である法然上人を信じます。

もし法然上人に騙されて地獄に落ちたとしても後悔はしません。

 

そのわけは、どんなに修行をしてもうまくいかない私には(地獄はいちじょうすみかぞかし)地獄はすでに決まっている私の住まいなのです。

 

でも私は法然上人の言う通りこんな自分でも念仏すれば極楽往生できるものと信じています。

 

ということなので念仏を信じるか、はたまた捨てるのかはあなた達がご自分で考えることなのです。」

 

 

 

まあ、びっくりしました。

 

あの有名なお坊さんが自分は地獄へいくレベルの人間なのだと言いきっているのだから。

そしてなおもわざわざ自分に会いに来た使徒たちに自分は信じているけど念仏で本当に極楽往生できるかはわからない、だからそのへんは自分で考えて決めなさい、と突き放したのだから。

 

16歳の懐疑的な私はそんな親鸞にやられてしまった。

この人は信用できる、偽善者じゃないと確信した。

 

そして私は信じることのすごさを強さをこの本で知った気がする。

その時はわからなかったけど、今思えばそうだったなと思う。