4年ぶりの景色(長浜市→米原市→彦根市→東近江市→近江八幡市→野洲市→栗東市→草津市) | 日本一周(分割)自転車紀行

日本一周(分割)自転車紀行

2010年、MR4F(折りたたみ自転車)で突然西へ。
東海道、山陽道、山陰道を駆ける。

そして2年後、再び自転車に跨る…

ただし、自転車走行ではなく自転車旅行。
観光も食事も目的だし、宿泊はホテル。
普段は自転車に乗らない。

これでも日本一周できる…のか?


翌2014年9月23日9時40分。
ホテルをチェックアウトすると長浜駅へ向かう。


長浜駅前には「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」がある。

石田三成は長浜市石田町の出身で、
羽柴秀吉が長浜城主になった頃から
仕え始めたといわれている。

秀吉が鷹狩で喉が渇き寺に立ち寄ったところ、
寺小姓であった石田三成が、
最初に大きめの茶碗にぬるめのお茶を、
次にやや小さい茶碗にやや熱めのお茶を、
そして最後に小さい茶碗に熱いお茶を出した。

最初にぬるめのお茶で喉の渇きを解消し、
最後に熱いお茶を味わってもらうという
知恵配りに秀吉が感心し家来として採用したという
三献茶の逸話である。


駅の反対側にまわると、
駅前には石田三成の顔出しパネルがある。

石田三成は秀吉のもとで台頭し、浅野長政、増田長盛、
長束正家、前田玄以とともに五奉行として、
豊臣政権下で主に行政を担当した。

ただ文禄・慶長の役の査定などで
秀吉子飼いの武断派の反発を買い襲撃される。

また関ヶ原の戦いでは西軍の主導者として敗れており、
世間の評判としては決して良くはない。


一方で、佐和山城主としては善政を敷き
領民から慕われていたという。

実際にここにも三成の跡が残っている。


これまでいろいろな地を回ってきたが、
意外と戦国期の人物の像は数少ない。

そのほとんどが江戸時代以降の人物であり、
要するに江戸時代以降に町を作り上げた人物である。

そういう意味でも、
徳川の敵となった石田三成の像は、
なかなか異色である。



長浜駅前
長浜駅前

三成像
羽柴秀吉と石田三成像

顔出し三成
顔出し三成




長浜駅のすぐ南西には長浜城があり、
すぐ奥には琵琶湖が広がっている。


長浜城は浅井氏の滅亡後に羽柴秀吉が旧領を与えられ、
北の山にあった浅井氏の居城・小谷城から
拠点を移して建てられた。

当時は「今浜」という名称だったが、
信長の「長」を付けて「長浜」となったのだそうだ。


清洲会議後には柴田勝家の甥・勝豊が長浜城主となり、
賤ヶ岳の戦い後は山内一豊が入るが、
間もなく遠江掛川へ転封。

関ヶ原の戦いの後には家康の異母弟・内藤信成が入るが、
大阪の陣の後に摂津高槻に移封され、
長浜城は廃城になった。


つまり長浜城が存在したのは40年程度。

しかし秀吉が最初に築いた居城ということもあり、
模擬天守が建てられ遺されている。


模擬天守の横に「天守閣跡」の石碑があり、
そこには豊臣秀吉公像がある。

早々に廃城になり江戸時代の跡がないため、
ここは秀吉ゆかりの地のままなのだろう。

そう思えば駅前に石田三成像があるのも、
顔出しパネルがあるのも納得がいく。


長浜城は城内の水門から船の出入りができたらしく、
本当に琵琶湖沿いにある。

そして琵琶湖はさすがに広い。

天守閣から眺めても
海と見間違えてしまいそうなほどだ。


琵琶湖沿いを歩いていると、
秀吉が造らせたという太閤井の跡がある。

井戸なので当然城内に造られたと考えられるため、
湖岸まで城が迫っていたというのが分かる。

湖だから少し異なるが、
まさに今治城のような水城である。


長浜城をひと通り回ると自転車にまたがり、
県道2号を南へ向かう。

旅行前に調べたところ、
長浜市は旧跡が多い。

長浜城はもちろん、浅井長政の居城であった小谷城跡、
浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗れた姉川古戦場、
昨日麓を通った賤ヶ岳古戦場もある。

また鉄砲の生産地として名高い
国友の資料館がある。


しかし、いずれも今日の順路とは逆で、
小谷城、賤ヶ岳古戦場は山の上。

加えて国友の資料館以外は特に何も残っておらず、
調べた限りでは銅像などもない。


それでも時間があれば寄りたいのだが、
今日は予定が変更になり家に帰らねばならない。

この先にも見所は数多くあるため、
残念ながら逆走する余裕が無い。

北の旧跡は断念して南へと向かう。



長浜城址
長浜城址へ

琵琶湖沿い
琵琶湖が広がっている

秀吉像
豊臣秀吉像

太閤井
太閤井

模擬天守
模擬天守

天守からの琵琶湖
天守から琵琶湖を望む

長浜城から県道2号
県道2号へ




左手に「さばそうめん」の幟が見えてくる。

鯖そうめんは長浜市の郷土料理。
ぜひ食べたいと思っていた。

先を急いで走り始めたばかりだし、
まだ昼には早いが「善光」に立ち寄る。


さっそく「焼鯖そうめんセット」を注文。

焼鯖そうめんに焼鯖寿司、
そして小鉢が数品付いたセットだ。


湖北地方には農家へ嫁いだ娘の親が
農繁期になると嫁ぎ先に焼鯖を届ける
「五月見舞い」という習慣があった。

それに由来して鯖そうめんは
湖北の郷土料理として伝えられている。

鯖はさすがに琵琶湖では獲れないが若狭湾の名物。

ここらでも古くから
食べられているのだそうだ。


焼鯖そうめんは焼鯖を煮込んだ
甘辛い煮汁を使っているため味は濃い目。

これが蕎麦だったら風味が台無しだろうが、
そうめんはなかなか相性がいい。


焼鯖寿司は明らかに福井県の名物だが、
焼鯖そうめんからの流れなのだろう。

ご飯ものがあるのはちょうどいい。


小鉢の中で目を引くのは、
赤こんにゃくだ。

赤こんにゃくは長浜の少し南、
近江八幡市の名物。

というよりも近江八幡市のこんにゃくは通常赤く、
グレーのものは無いらしい。

ただ味は普通のこんにゃくと変わらず、
着色しているだけなのだそうだ。


絢爛豪華な安土城を築いた派手好きの織田信長が命じた、
近江商人が差別化のために着色したなど、
赤い由来は諸説あるようだ。

近江八幡市で食事をする時間はない可能性があるので、
ここで食べられたのは運がいい。



善光
善光へ

鯖そうめんセット
鯖そうめんセット

鯖そうめん
鯖そうめん

赤こんにゃく
赤こんにゃく




食事を終えると再び県道2号を南へ走る。

この湖岸道路は右手に琵琶湖を臨み、
海沿いを走っているかのような気分で走れる。

福井県では海に縁がなかっただけに新鮮だ。


長浜市から米原市を抜けて彦根市へ。

間もなく右手に「ミシガン州立大学連合日本センター」なる建物があり、
少し分かりづらいが敷地内にココスがある。


さっき食事したばかりで先を急いでいるのだが、
やはりどうにも体調が悪い。

休めるところで休んでおきたいし、
ファミレスは休むのに最適。

休んで体調を整える。



琵琶湖沿いを走る
琵琶湖沿いを走る

ココス
ココス レイクサイド店




結局40分程度休んで出発。
もはや急いでいるんだか自分でもよく分からない。

間もなく松原橋の交差点を左折。

右手に彦根城が見えてくるので、
堀を回りながら表門の方へ向かう。


松並木を超えると、
右手に「井伊大老歌碑」が見えてくる。

「あふみの海 磯うつ波の いく度か
 御世にこころを くだきぬるかな」

琵琶湖の波が繰り返すように難問が押し寄せてくるが、
国の平和を願って心を砕いているので悔いは無い、
という意味らしい。


井伊大老と言えば井伊直弼のこと。

近江彦根藩の第15代藩主で江戸幕府の大老を務め、
日米修好通商条約に調印して開国を断行。

安政の大獄で反対勢力を粛清したが、
1860年に桜田門外の変で暗殺された。


独断で日米修好通商条約に調印し、
安政の大獄では長州の精神的指導者・吉田松陰などを処刑。

同時に第15代将軍となる一橋慶喜を中心とした
松平春嶽、山内容堂などの一橋派を謹慎させたこともあり、
世のイメージは完全な悪役だ。


しかし近江彦根藩では藩政改革などで名君と呼ばれており、
こうして歌碑も残っている。

長浜市の石田三成然り、
歴史とはそういうものだ。


佐和口多聞櫓の横を抜け表門を入る。

すぐ右手に彦根城博物館があるのだが、
やたらと人が多く集まっている。


「何かイベントでもあるのかな?」
不思議に思い覗いてみると、
隅に「ひこにゃん登場場所」と書いてある。

「おおっ」
と思わず呟きながら、
僕も人込みの中に入っていく。


アナウンスによると幸いにも
ひこにゃんはもうすぐ登場するらしい。

と同時にちょっとした注意がある。
「これからひこにゃんが登場してパフォーマンスしますが、
 とてもゆるーいので過剰な期待をしないでください」

何とも言えないアナウンスだ。
しかも繰り返し話している。


ひこにゃんは2007年の彦根城築城400年祭で登場した、
ゆるキャラブームの火付け役。

彦根藩の二代目藩主・井伊直孝に縁のある
白猫をモチーフにしており、
様々なグッズも販売されるなど
全国区になったゆるキャラである。


あの姿にパフォーマンスを期待する人もいないと思うが、
思えば今やふなっしーが飛び跳ね、
くまもんでさえ動き回る時代。

勘違いをしてしまう人もいるのだろう。


間もなく縁側の奥からひこにゃんが現れる。

目の前で一礼すると、
ちょっとカッコつけながらゆっくりと歩く。

以上である。


確かにこれはゆるい。

初めからゆるいと思っていたし、
ゆるいというアナウンスも聞いたが、
想像を超えたゆるさだった。

これは確かにアナウンスも必要かもしれない。


ゆるーいパフォーマンスを続けるひこにゃんを見ながら、
彦根城博物館を立ち去る。

そして階段を上り、天秤櫓、太鼓門櫓を潜ると、
目の前に天守が現れる。


彦根城は徳川四天王の一人・井伊直政が
関ヶ原の戦い後に近江に入り、
佐和山城に代わる居城として建てた城。

実際には井伊直政は築城前に死去したため、
家老の木俣守勝が遺志を継ぎ築城し、
1622年に完成した。


彦根城はそのまま彦根藩、
井伊家の居城として幕末まで続く。

明治に入ると各地の城が廃城令で破壊されていくが、
彦根城は明治天皇の巡幸の際に保存を命じられたため免れる。

また太平洋戦争時には彦根市の爆撃計画もあったが、
その直前に終戦を迎えたため免れたという。


こうして彦根城は現存12天守のひとつとして今に残り、
天守、附櫓および多聞櫓は国宝指定されている。

国宝指定されている天守は彦根城、姫路城、松本城、
犬山城、松江城の5つのみ。

いかに価値があるかが分かる。


天守をひと通り眺めると、
裏から下って黒門を抜ける。

橋を渡った先には大名庭園の玄宮園があるが、
さすがにのんびり見学している時間は無い。

横を通り過ぎると、
間もなく左手に井伊大老像がある。


やはり大老にまで上り詰めた井伊直弼の
地元での評価は相当なもの。

彦根観光協会のサイトにはこう書いてある。
「しかし、偉業を成し遂げた直弼も、
 大老の信条を組むことのできなかった人々によって
 万延元年(1860年)3月3日桜田門外で
 春雪に血を染めて横死しました。」

かつて桶狭間古戦場跡で
今川義元視点の記述を見た時と同じ違和感だ。


これが日本の歴史。

今でも会津若松市は萩市からの和解を拒否するなど、
地域の意識差は大きく幕末は全然昔ではない。

都内に住んでいると地元意識が薄くなるが、
こういうのも旅行の楽しいところだ。



松並木
松並木を抜ける

井伊大老歌碑
井伊大老歌碑

佐和口
佐和口を抜ける

彦根城博物館
彦根城博物館

ひこにゃん登場
ひこにゃん登場

歩く
ひこにゃんのパフォーマンス

見物客
人出が凄い

天秤櫓
天秤櫓

太鼓門櫓
太鼓門櫓

天守閣
天守閣へ

天守閣下から
美しい

下っていく
天守閣の脇を下りていく

井伊大老像
井伊大老像




彦根城を出ると南へ…といきたいところだが、
通ってきた道を少し引き返す。

やはりどうにも体調が悪く、
彦根城を歩き回ったのが響いている。


ちょうど彦根城のすぐ北東にジョイフルがあったので
立ち寄り、また少し休む。

こんな状態で今日の道程は大丈夫なのか不安にもなるが、
無理のない範囲で進むしかない。



ジョイフル
ジョイフル 滋賀彦根店へ




今度は1時間近く休み、
15時半過ぎにジョイフルを出発。

彦根城の横を左折して彦根駅に向かう。


彦根駅前には井伊直政像がある。

井伊直政は14歳で徳川家康に仕えると、
若き日から勇名を轟かせる。

武田遺臣が配属されると、
武田の赤備えにあやかり井伊の赤備えを編成。

小牧・長久手の戦いでは
井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられた。


徳川家臣の中では若く新参であるものの
数々の武功が評価され、徳川四天王、
徳川十六神将、徳川三傑に数えられる。

しかも井伊家は譜代大名の筆頭として
彦根藩は幕末まで存続し、
井伊直弼をはじめ5人の大老を輩出した。

まさに徳川家康の側近中の側近である。


しかも銅像がまたカッコいい。

馬上の鎧姿はまさに井伊の赤鬼。

もちろん着色はされていないが、
赤色が目に浮かぶようだ。



彦根駅
彦根駅

井伊直政像アップ
井伊直政像




彦根駅前から県道206号に出て、
南西へ走る。

さすがにもう急がないとまずい。

日没までにどこまで見られるか…
だいぶ気持ちが焦ってきた。

ここからしばらくは特に名所の無い移動区間。
なるべく早く移動せねばならない。


犬上川を越え県道2号へ。

すっかり建物も無くなった寂しい風景のなか、
あまり物を考えずひた走る。


宇曽川を越え、
愛知川を越えると東近江市へ。

JR東海道本線の能登川駅近くを通るので
少し街っぽくなる。


しかしそれもあっという間。

すぐに建物がなくなったかと思うと、
道もやたらと狭くなってくる。


そして上り坂へ。

急なわけではないのだが、
何といっても道が狭いのが厳しい。


歩道どころか路側帯すらまったくない狭さ。

加えて東近江市と近江八幡市をつなぐ
県道だけに交通量も多い。


すぐ横を車がどんどん抜いていき、
上り坂でふらつきそうになると極めて危ない。

山間に無理やり道を通した感じではあるが、
もう少し整備してもいいのに…



彦根駅から走る
南西へ走る

能登川駅あたり
能登川駅あたり

細い道になる
急に道が狭くなる

近江八幡市へ
上り坂が狭い




ただ、上り坂はそれほど長くない。
近江八幡市に入るとすぐに下りに入る。

ここ北腰越峠は観音寺山と安土山の間にある峠。

間もなく右手に、
「安土城址」の看板が見えてくる。


安土城は右近衛大将となり実質的な天下人となった
織田信長が1579年に完成させ、
岐阜城から拠点を移した。

大型の天守を初めて持ち、
五層七重の豪華絢爛な城として知られ、
まさに天下布武の象徴であったと言われている。


ただ本能寺の変後に消失して廃城に。

発掘調査こそ進められているものの
特に復元されているわけではない。


羽柴秀吉邸跡などはあるので見学予定だったが、
大手道口の正面に立ち愕然とする。

かなり急な石段。

安土山の上にある山城なだけに、
どこまで上るのかも分からない。


見ただけで挫けて安土城址を後にするが、
近くに「安土城天守信長の館」なる
施設があることは調査済みだ。

閉館時間も近いので急いで向かう。


欧風の建物が並ぶ「文芸の郷」は、
欧州文化交流の国際都市としての
安土桃山時代の象徴として建てられた。

なかでも目を引くのが、
「安土城天守信長の館」だ。

1992年に開催されたセビリア万博の
日本館のメインとして出展された、
安土城天守5、6階部分の原寸復元が
移設、展示されている。


その姿はまさに絢爛豪華。

正八角形の5階部分は柱や天井が朱色に塗られ、
竜の彫刻が施され、釈迦説法図などが配されている。

6階は金箔で仕上げられた正方形。
障壁画には道教、儒教の教義が描かれている。

400年以上前にこんなものがあったら、
それは目を引くし誰もが驚嘆するだろう。


復元天守の周囲には様々な展示がされており、
和紙人形による信長史もなかなか面白い。

しかしもう閉館時間なので急いで写真を撮ると、
わずか数分で施設を出る。



安土城の石段
衝撃の石段

天守の郷へ
文芸の郷へ

安土城天守
安土城の原寸復元天守

天守の6階
天守の6階

紙人形
和紙人形の信長史




再び県道2号に戻るが間もなく左折。
すぐに安土駅が見えてくる。

安土駅前にあるのが織田信長像。

安土城址にも見られなかったが、
ようやくの真打登場だ。


ただ、南東を向いている信長の姿は、
完全に逆光になってしまい
顔が写らない。

ここが銅像撮影の難しいところだ。


銅像にはなぜか垂れ幕がかかっているが、
何でも安土駅は開設百周年らしい。

これが古いのかそうでもないのか、
僕には分からないが…



安土駅
安土駅

信長像
織田信長像




再び県道2号へ戻ると西へ。
出町の交差点を右折して北へ向かう。

道の両脇には歴史を感じる建物が続く。
ここが、八幡伝統的建造物群保存地区である。


近江八幡は城下町から始まった。

豊臣秀吉の甥・秀次が八幡山城を築き、
城下町に楽市楽座等による商工業の発展を推し進める。

秀次失脚後には京極高次が入城するが、
1595年には廃城に。

その後は、東海道と中山道、北国街道がぶつかり、
琵琶湖にも面する交通の要衝であることから
商業地として発展した。


その地の利を活かし、先進性と自立的な商法により
近江の商人は近江国外で活躍する。

この町並みはかつての近江商人たちの本宅の家々。
彼らのふるさとである。


メンターム、近江兄弟社高校で有名な近江兄弟社の前には
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ像がある。

ヴォーリズは英語教師として来日後、
日本各地で西洋建築の設計を数多く手がけた。

日本に帰化後は現在の近江八幡市を拠点にしたことから、
「青い目の近江商人」と称される。

そして後の近江兄弟社の創立者の一人として、
メンソレータムを普及させた。


また、太平洋戦争終戦直後には
マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力し、
「天皇を守ったアメリカ人」とも称される。

その頃には日本に帰化しているようなので、
「アメリカ人」というのは間違えのような気もするが…


ヴォーリズ像の奥には八幡掘が東西に延び、
明治橋がかかっている。

堀沿いには豪商たちの白壁の土蔵や旧家が建ち並び、
風情ある景色を作り上げている。

京都市における鴨川、倉敷市における倉敷川と同じ。
昔の町並みに川が入ると非常に美しい。


この八幡堀は町の発展に貢献して
近江商人を生んだ水路であり、
近江八幡市の中でも有名なスポット。

河原のように一段下りることができるようになっていて、
多くの観光客が歩いている。


時刻は18時前。

ちょうど夕暮れ時であり、
観光するには最適のタイミングなのだろう。


しばらく八幡掘沿いを歩き回ると、
「千成亭 八幡堀店」に入る。

「千成亭」といえば近江牛で有名な店で、
実際に2階の飲食店では近江牛を堪能できる。

しかし調子もよくなく時間もあまり無い僕にとって、
ここで食事をするのはハードルが高い。

そこで「近江牛ミンチカツ」を購入。
ひと息つきながら食べる。


ミンチカツは近江牛が詰まっていて食べ応え十分。
脂も美味しく、ジューシーでたまらない。

こういう形でも名物を味わえれば満足だ。



安土駅から西へ
西へ向かう

昔の街並み
八幡伝統的建造物群保存地区

ヴォーリズ像
ヴォーリズに女の子が花を渡している像

明治橋
明治橋

八幡掘
八幡掘

八幡掘と夕日
夕日が映える

千成亭
千成亭 八町堀店

ミンチカツ
近江牛ミンチカツ




ミンチカツを食べ終えると南へ。
近江八幡駅へ向かう。

安土駅のように銅像か何かがあるかと思ったが、
残念ながら特に何もない。


すぐに右折して県道48号へ。

どんどん暗くなっていくなか、
南西へと走っていく。


中小森町の交差点を左折すると建物も少なくなり、
しばらく進むと久々に国道8号に合流する。


国道8号は新潟市と京都市を結ぶ重要な道のはずだが、
どうも全体的に道が狭い。

交通量は結構多いだけに、
なかなか辛い道である。


のんびりと走ると逆に危険なので、
がっつりと走る覚悟が必要。

もう完全に暗くなってきているので、
何も考えずに走り続けるしかない。


野洲市へ。

かつて関東民にとっては無名の市だったが、
2006年に「セクシーフットボール」で
全国を制した野洲高校で知られた。

僕の場合は高校野球が多いが、
スポーツにより地名を知るという、
よくあるパターンだ。

しかし国道8号は中心街から外れていることもあり、
特に何があるわけでもなく過ぎていく。



近江八幡駅
近江八幡駅

駅から西へ
駅から西へ向かう

国道8号へ
国道8号へ




そして栗東市へ。

栗東市は4年前に東海道を走ったときに通った。
つまり当時走った国道1号と交わる街だ。


栗東ICの標識が現れたかと思ったら立体交差に。

名神高速道路の入り口を過ぎると、
右から国道1号がやってきて合流する。

ここから国道8号は国道1号との重複区間となり、
標識はすべて国道1号に変わる。


いろいろと記憶が呼び起こされる。

この立体交差は確かに覚えており、
どこを走っていいか分からず悩んだものだ。



立体交差
立体交差

国道1号へ
国道1号へ




ここからは4年前に走った道。

暗いからはっきりとは見えないものの、
ところどころは記憶にあり、
妙に懐かしい。


しばらく走ると右手にココスが見えてくる。

正直、このココスはあまり記憶にないが、
地図を見ると草津駅はもう間近だ。


当初はもう帰るだけの予定だったが、
ファミレスを見ると異様に惹かれてしまう。

やはり僕の自転車旅行にファミレスは欠かせない。

今回の旅の締めとして
「ココス栗東店」に立ち寄る。


ソファーに座り体を休めて食事をし、
ドリンクバーのドリンクを大量に飲む。

地元の美味しいものを食べるのもいいが、
このひと時も僕には最高だ。


1時間ほど満喫すると草津駅へ。
自転車を折りたたんで構内に入る。

草津駅があるのは
滋賀県南西部で大津市の手前。

米原駅からはもう遠く、
京都駅の方が圧倒的に近い。

そこでいったんJR東海道本線で京都駅に行ってから、
のぞみで帰ることになる。


東京に帰れる草津駅発の終電は21時6分。

一本前の20時58分発の東海道本線に乗り、
京都駅でのぞみに乗り換え東京に帰る。



ココス
ココス 栗東店

草津駅
草津駅

東海道本線
東海道本線に乗る





-----------------------------------------
2014年9月23日

長浜駅(長浜市)~草津駅(草津市)
走行距離:約64km(google map)

サイクルコンピュータ(CATEYE VELO WIRELESS+)
走行時間:4時間46分44秒
走行距離:86.39km
平均速度:18.0km/h

■4年ぶりの景色
(長浜市→米原市→彦根市→東近江市→近江八幡市→野洲市→栗東市→草津市)

地図の詳細
ルートラボ