こんにちは。みゅうです。

ご訪問ありがとうございます。

 

 

 

 

さて今日のテーマは『発達障害児分野における2次障害』です。

2次障害と言っても程度や原因は様々ですので

今回は”学校へ行くことで引き起こされる2次障害”に限定したいと思います。

 

 

 

まず『2次障害』とは・・・

詳しくは、厚労省のページなどを検索して頂くのが一番かと思いますが

発達障害児(成人も含む)の場合、その障害からくる症状や行動により周囲とうまくいかず

それに伴いうつ病などの精神疾患を新たに発症、そして併発しやすい傾向があると言われています。

 

 

育てている側としては『そんなん言われなくてもわかっとるわい!』という定義だと思いますが

”二次的な問題を引き起こすから注意してね”

”教科書や参考文献にもその文言を載せるからね”っていう

なんとなく発達障害児の行動を具体的に説明する際に言葉が必要で、それが言語化した感じ。

私はそんなイメージをもっている。もちろんそんな軽いものではないのだけど・・・

 

 

だって、発達障害児を育てている側としてみれば

ここからが”二次障害”って微妙な線引きだったりしませんか?

これは二次障害からくる行動で、これは発達障害が来るもの・・・なんて思いながら育児をしているわけではありませんからね。

 

 

 

子の問題とされる行動は、大変な毎日の延長線上にあり

のん太郎の場合でいうなれば、”癇癪・暴言・物にあたる・イライラ、、、”

その一つ一つを、これは2次障害の症状で、これは発達障害の行動で・・・

なんて説明はもちろんできません。

 

先日はのん太郎の癇癪がひどく、壁に4つ目の穴が空きましたが、

その癇癪の理由も対処法も言葉ではうまく説明できません。それが発達障害児の日常です。

発達障害児を育てるということは、想像以上に骨のおれる毎日であり診断名における症状の羅列以上の問題行動が沢山あるのです。

 

 

 

 

 

しかし学校へ行くことで周囲とうまくいかず、また学校という環境が自身と合わずに

2次障害を引き起こすこと、これは大いに想像ができます。

”学校”は特性っ子にも、その親にとっても大きな試練の連続です。

 

 

 

のん太郎が低学年の頃だったでしょうか、学校へのストレスが大きく家での癇癪が数時間に及んだこともしばしばありました。

他にも学校から逃走、母呼び出し、そんなものは数えきれず・・・

保育園時代は癇癪すらなかったので、これも環境の大きな変化に適用できなかったことによる2次障害かと思います。

 

 

 

それでも、私は学校へ行かせるという選択をし続けました。

 

 

Q&Aシリーズ No.3”学校にいきたくない発達障害児とどう向き合うべきか”

私はこの記事で、学校に行くことを大前提に生活した方が良いとお伝えしました。

家を必要以上に居心地よくさせてはいけないと。

 

 

 

この記事を執筆中の際、とりたて掘り下げなかったのですが、

『学校から帰宅後の本人の様子の観察』はもちろん必須であり・・・

無論そんなことは書くまでもなく、きっと特性持ちの子を育てるお母さんたちは当たり前のようにしているだろうなと分っていたのであえて記述しませんでした。

 

 

それに『あ~今日は、学校行け良かった』で終えられている育児なら、

日常生活も多少の凹凸があっとしても、なんとかやれているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

『学校へ行くことで2次障害を起こしたら・・・』と私も考えることはありますが

この場合、学校へいかなくても何らかの形で2次障害を引き起こすおそれがありませんか?

 

 

”二次障害”って本人の症状だけに言及しているのが今の発達障害分野の考えだけど

たとえば、子供の発達障害に対して親側が心身のバランスを崩すこと、これも十分な二次障害と言えませんか。

 

 

またその生活過程において

子が学校へ行かないことで親子の時間が極端に増え、その増えた時間の分、必要以上の言い争いが起こり、そのことで日々の生活が回らなくなる、疲労が蓄積され、思うような日常が送ることができなくなる。

これもやはり二次障害だと私は思います。

 

 

特性の強い、ましてや攻撃性の強い発達障害児を持つ場合、

親子分離の時間は必要不可欠と私は思っており

目先の本人だけの”二次障害”を心配しすぎるはナンセンスです。

 

 

 

目先というと語弊があるかもしれませんが

育児のゴールは『社会的自立』です。

この自立とは広義な意味にもなるけれど、

ゴールそのものは発達障害児も定型児もなんら変わりはありません。

 

子が近い将来、社会で一人で生きていくため、親である自分が亡きあとでも、生きていけるように、今できること、今すべきこと。

 

学校という分野に焦点を当てるとするならば、当然のごとく最低限の読み書き計算ができない限り、社会的自立なんて到底望めません。

 

 

 

 

だから今、”学校へ行かない”という選択をしたとして、今、起こりうるその2次障害を免れたとしても、いずれ起こりうるおそれがあるということは、念頭に置いておいた方がいいのだと思います。

 

 

 

 

もちろん、無理やりにでも「学校に行け」ということを書きたいわけではないですが

”二次障害”という言葉に惑わされすぎるのも危険かなと私は思います。

 

 

 

あとは、学校に行けたとしても、学校での本人の様子が心配だと思いますが、ある程度学校に丸投げしてしまうのもひとつかなと思います。学校のことは学校にお任せてして、その間はあまり考えないでいるようにするというのも、発達障害児を育てていく上で大事な心のバランスだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、余談ですがこんなケースがありました。

 

早々に学校へ行くという選択を諦めてしまったケースです。

(※私の担当患者様ではありません)

 

 

 

当時そのお母さんはこう言いました。

『学校へ行かせる方が大変だから、学校へ行かせてないの。カウンセラーさんとも相談してしばらく休ませているの』と。

 

朝の登校渋りの癇癪が大変だったと。もちろ想像ができるのですが私がお話をお伺いした時は入学してまだ6か月。早すぎる決断でした。

 

 

早々に学校へ行かせるという選択を諦めてしまい、その後一度も小学校に行くことがないまま卒業をしました。

”フリースクールは行かないのか?”と、疑問を持つ方も多いともいますが、実際フリースクールなんて東京に住んでいたって近くにあるわけでもなく、あったとしても子に合うかどうかなんてわからない。あまり現実的ではないのです。

 

 

 

不登校という選択について、もちろん口を挟むことはしませんでしたが(そんな立場でもないので)ただ一つ気になったのが、民間の相談施設に通っていて、その当時、担当していたカウンセラーさんから「休むのも勇気ですよ」と言われ、その言葉が心にすっと入っていったとのことでした。

 

 

 

社会で働くことが疲れてしまった大人にとって”休むことが勇気”というのは、納得できます。

けれど、この場合は誰にとっての勇気なのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

私と同じ相談業務に携わっていた職員の中にも

「心が疲れているときは学校を休みましょう。休むことは悪くないですよ。」

とアドバイスをする職員もおりました。

 

 

私はいつもこれを”無責任の優しさ”とし、注意をしておりました。

 

 

 

「そう言える根拠はどこにあるの?」

「いつまで休ませようと思ってるの?」

「学校を行かない間の自宅での学習計画は?それは誰が見るの?」

 

軽々しく、学校を休むという選択を相談業務に携わる職員が口にしてはいけないと常々思っておりました。休み癖はつかないと断言する方もおられますが、その根拠はどこにあるのか正直ずっと疑問でした。

 

 

 

ネット上では、謎の資格をカウンセラーを名乗る方々も多い時代ですが・・・

医療機関や学校などで専門的に相談業務を担う職員の場合、国家資格を取得しその後の過程においても継続的に学びの機会が用意されており、カウンセリング技術や心理学、貧困問題、虐待、などの専門分野の学問を学び続けている。

 

業務だけでも大変なのに、有難いことに、、、様々な研修制度も用意されおり(笑)、取得後もその多くの題材を勉強してきた人間にだって何が正解かなんてわからない。もしかしたら正解という糸口すらないかもしれないこの精神科分野の相談というのは難しいもので、つまりは、私やのん太郎を含め、その渦中で生きている人たちはもっと、ずっと、苦しいことの連続なのだと思う。

 

 

 

 

 

その中でもこのサイトが発達障害児の育児の選択肢の一つとなれば幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いつもありがとう。

 

 

 

 

 

美羽