昭和28年(1953年)12月24日に佐賀県の唐津競艇場で、
試運転中に横溝幸雄選手(当時34歳)が
事故死した事件がありました。
この事を発端とし、競艇場に不可思議なことが
起ったのです。
昭和29年(1954年)1月15日、
徳島県の鳴門競艇場で行われたレースにおいて、
着順鑑定写真の中に、その場にはいなかったはずの
『黒いボート』が写っており、これは幽霊ボートではないかと
大騒ぎになり、徳島新聞に掲載されたばかりでなく
鳴門市議会でも議論される事態になりました。
一応、蜃気楼との見解で治まるものの
同年3月に同じ現象が起ったばかりでなく
同年5月2日、今度は丸亀競艇の第二レースの判定写真にも、
その場にはいなかったはずのボートがはっきりと写っていました。
(3月の事件は3月17日付けの徳島新聞に、
また5月の事件は5月12日付けの四国新聞に
掲載されました)
参考資料として、以下を掲載。
『阿波の伝説』(著・横山春陽、昭和29年7月・徳島新聞社発行)より
「昭和29年3月16日午後3時40分市長賞をかけて行われた鳴門競艇の
レースがメチヤクチヤになり、その原因が横溝選手の亡霊のたたりだというこ
とから超時代的な話題をまいて、同市議会の質問にまで発展、“シンキロウ”
ではないかという助役の答弁まで飛出した。(後略)」
幽霊ボートなのか?
殉職選手の亡霊?
光線の屈折現象?
もはや競艇ファンのみならず関係者の間でも
大騒動になりました。
さらに昭和38年(1963年)、横溝幸雄選手と同郷の小笠原政敏選手が
黒いボートを写した鳴門競艇場の写真判定機に激突し、
死亡する事故が発生しました。
この因縁めいた話に騒然となったそうです。
当然、調査が行われましたが明確な調査結果が
出ることはありませんでしたが、
日本判定写真株式会社の掛飛氏の見解によると、
「レース場の日付台に水しぶきがかかり、
その水がひいた時にそこをボートが通過すると
日付台が鏡のようになり、そこに写ったボートが
写真にも写ったのだろう」という趣旨のことを語ったそうです。
これに対し全国モーターボート競走連合会・業務部長の中北氏は
この意見に否定的で、もし日付台が原因ならば、
昭和29年から今まで1万回以上のレースが開催されているのに、
その間に同じような写真が全く撮られていないのはおかしい、
との発言をしました。
つまり、モーターボート競走連合会は
『心霊写真』であることを「否定することを否定した」ことで
実質的な肯定意見を述べています。
この『幽霊ボート』事件は明快な解決をしておりませんが、
実はこの時期。当時の表現でいうところの『公認賭博』として
競艇、競輪が相次いで始まり、大人気を博したものの、
八百長疑惑がつきまとっており、競技中の転覆事故が
相次いでレースのやり直しをして、
客の怒りが収まらず騒然とする場面もあったり、
横溝選手もレース中にフィンがはずれるなどの事故があり、
八百長疑惑の渦中にあったそうです。
しかし、この『幽霊ボート』騒動が起ったことにより
八百長疑惑は沈静化したと言われています。
『幽霊ボート』は八百長疑惑をかわすために
仕組まれたものだったのか?
それとも八百長疑惑の真相を知った横溝選手を
事故に見せかけて殺した事件だったのか?
今では、この事件自体を語る人も少なくなってきたと
言われています。
なお、競艇選手は、レース直後に心筋梗塞になったり、
レース中に転覆して、サメに襲われて死亡するというケースで
現在までに28名の殉職者がいるそうです。
う、サメ・・・ですか。
(゚Ω゚;)
さきほど『公認賭博』と記したものは
現在では『公営競技』と呼ばれ、
「競馬」「競輪」「競艇」「オートレース」の
4つが行われていますが・・・
実はhikoさん、このうち一つの統括財団で仕事を
していたことがあるんですよ。
ちょっと詳細は書けませんが・・・。
いろんな仕事を経験している男、hikoです。
ゴールデン・ハーフ バナナ・ボート
ボートの歌っていうと「漕げ漕げ漕げよ、もっと漕げよおおおおおっ!」
という映画「ダーティ・ハリー」の有名な1シーンを思い出します♪
映画史上でも名高い”ウルトラ・サイコ”サソリ役のアンディ・ロビンソンは
この役の印象が強すぎて同じような役ばかり演じて嫌気がさして、
一時、役者をやめていたほど・・・。
ダーティ・ハリー2 テーマ
この映画から続編に「2」が使われるようになりました☆