ダブっておりますが、そのままのナンバリングで「再掲載」いたします。
(hiko)
超能力者・三田光一。
その名前だけでは昔の人なのか今の人かも分からない・・・。
何をした人なのかも分からない・・・。
しかし、超常現象などが好きな人なら
1931年、東京帝国大学助教授(現・東京大学)の
福来友吉(念写の発見者ともいわれる)が見守る中、
「月の裏面の念写」に成功した人物と言えば、
お気づきになる方もおられるでしょう。
月の裏側の念写や、第一次大戦の終結日の予言的中で知られる
超能力者・三田光一とは、どんな人物だったのでしょうか。
三田光一は明治十八年、宮城県本吉郡気仙沼市に生まれた。
子どものころから超能力を発揮し、しばしば
「この間の放火は誰それの放火したもの」
「あの人のものを盗んだのは誰それ」
と言いだし母親を困らせました。
半信半疑で警察が調べるとそのとおりだったので、
「天狗小僧」「魔法使い」と呼ばれたが、
やがて奉公に出るものの、そこも二年ほどで飛び出し、
行商人になったり、奇術師の一座に加わり、
全国を放浪することになります。
その三田光一の名が心霊界、霊術界に一躍とどろいたのは、
「心霊研究のパイオニア」といわれる福来友吉博士のもとで
行われた念写をしたことにあります。
福来友吉は、1931年2月、非常に厳しい条件のもとで、
「月の裏面の念写」を行ったのです。
当時、福来友吉は大阪府箕面村に住んでいましたが、
三田はそこから40キロもはなれた兵庫県須磨の自宅から
遠隔念写を試みました。
そして2月24日午後8時20分、
福来友吉は2枚の乾板をケースに入れて
自宅二階の床の間に置いた。
8時30分にその乾板に向けて念が送られてくる約束になっています。
時計が8時30分になったことを確認した福来が
ただちに乾板の現像にかかると、
たしかに月の裏側の映像らしきものが写っていた。
当時は月の裏側は誰も見たことがなかったが、
1973年、NASAが月の裏面写真を発表する。
三田の透視念写の結果がはたして的中しているのかどうか、
その判定は見る人によって異なりますが、
遠隔地から乾板を感光させた離れ業が事実とすれば、
当時としては「まさに驚異」という以外にはありませんでした。
これがそのとき撮ったといわれる写真です。

これはちょっと僕(hiko)も
信じられないんですけどね~。
しかしこの写真は、後に米国のアポロ計画で
月の裏側の実際の写真が撮られるにあたり
当然、検証が入ることになります。
その結果!
NASA発表による月の裏側の月面クレーターの位置と
三田の念写したもののうち、18以上のクレーターが
一致(!)していることが確認されるなど、
何箇所かに一致部分があることも確認されました。
しかし、福来友吉は三田光一をはじめ数々の超能力者の実験を行い
学会で発表を行って世の注目を浴びるのですが、
それらの発表は他の学者たちによる追試に耐えられるものではなく、
結果、激しい非難を受け、1913年(大正2年)『透視と念写』を
出版した後、東京帝国大学を追放(公的には休職)されたのです。
彼が取り上げた人物も「イカサマ」「ペテン師」などの
攻撃(口撃?)を受ける事になってしまい、
1915年、福来は東京帝国大学を退職することになったのです。
従い、福来は実験で数々の成功を収めたものの、
学術的に承認はされなかったのです。
事実上の追放という形で、学者としての幕を閉じたのです。
従い、念写を信じた福来でしたが、福来の学者生命が
途絶えたことで、三田光一の持つ「能力」も
学問として取り上げられることはなくなりました。
「学問が全てなのか、それとも
検証できないところに真実があるのか。」
この問題は案外、早稲田大学名誉教授の大槻義彦氏が
引き継いでいるのかもしれません。
もちろん「否定派」として・・・ですが。

.