マレーシア航空機が行方不明となっている事件が話題ですが、
1979年(昭和54年)に、成田空港から飛び立ったボーイング機が
突如行方不明となった「ヴァリグ・ブラジル航空機遭難事故」
という事件があった。
◇ウィキペディアより抜粋
『機体の破片はおろか遺留品すら発見されなかった上に、「ドラゴントライアングル」
と呼ばれるエリア内であったことから、「何らかの超常現象によるものではないか」、
「未確認飛行物体に拉致されたのではないか」という報道もあった。
しかしながら、いずれの説も事故機の機体の破片を発見出来なかった為に、
推測の域を出ないものとなっている。
なお、同様に海上を飛行していたものの、地上への連絡もなく突然墜落した
エールフランス447便墜落事故やエジプト航空990便墜落事故、さらに
大韓航空機爆破事件においても、事故後の捜索で機体の破片や遺留品、
ボイスレコーダーやフライトレコーダーなどが発見され、その後の事故原因の
解決につながっており、大型ジェット機の事故で機体の破片や遺留品が
全く発見されていないケースはほとんどない。』
◇「ヴァリグ・ブラジル航空機遭難事故」とは
昭和54年1月30日午後8時23分(日本時間)、成田空港を1機のボーイング707が飛び立った。
週に1回、成田とブラジルのサンパウロを結ぶヴァリグ・ブラジル航空967便で、
アメリカのロサンゼルスで途中給油し、ペルーのリマを経由する貨物便だった。
967便は貨物の積載に手間取ったため、定刻より約2時間遅れでの出発となったが、
それは極めて特殊かつ高価な荷物を搭載したことも関係がある。
その特別な貨物とは、ブラジルのピカソとも称された日系人画家
「マナブ間部」の絵画であった。
日本における個展を終えてブラジルへ戻る作品は153点もあり、
時価総額124万ドル(当時のレートで約2億5千万円)、梱包を含めた重量は
約1.2トンに達していたのだから、搭載に時間がかかるのも当然といえば当然だった。
そして、離陸から約30分後に銚子沖の位置通報点で発した通信を最後に、
967便は消息を絶った。
だが、連絡が途絶した直後は、成田の管制官も運行会社も危機感を抱いていなかった。
なぜなら、当時はまだ航空無線のトラブルがあり、また国際線では飛行中に周波数を
変更することもあったため、通信の途絶もしばしばあった。
そして、大型ジェット機の運用寿命は20年以上あり、問題の967便機
(1966年製造、シリアル19235)も老朽機と言えなかった。乗務員の操縦技術にも
問題はなく、特にジルベルト=アラウージョ・ダ・シウバ機長は飛行時間が
2万3千時間に達する大ベテランで、1973年の空中出火事故では燃える機体を
不時着に導き、奇跡の生還を果たした腕利きだったのだ。
当日は銚子沖の天候が良かったこともあり(21時では雲量0、風も弱かった)、
単なる無線の不調か、連絡の行き違いだろうと、当初は楽観視していたと伝えられる。
しかし、到着予定時刻を過ぎても967便はロサンゼルスに現れず、燃料が尽きる時間を
過ぎてもなお、どこの空港からも967便の情報は得られなかった。
遭難が確実視され、海上保安庁と自衛隊による大規模な始まったが、数日たっても
なお967便の残骸はおろか、漂流物すら発見されなかった。
太平洋のただ中で、967便は忽然と姿を消したのである。
(続く)
引用:http://npn.co.jp/article/detail/67577538/
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