[祐徳稲荷神社、清水寺そっくりの舞台造り、1687年鍋島藩が建立]
少し気楽に読む本をと思って図書館の棚にある渡辺淳一の本を何冊か手にしてみた。渡辺淳一の小説は一冊も読んだことはない。それで直木賞をとったデビュー作を読むことにした。
家に帰って悪妻に、「渡辺淳一の本を読んだことはあるか?」と聞いてみた。すると、「う~ん、渡辺淳一~ってちょっとエロいんじゃない?」と、言っていた。
なんだかそう言われてみると、通俗小説を借りてきたのか?という気がしないでもなかったが、この「光と影」の紹介ではそんなところが見受けられなかったので 『?』 であった。でも気楽に本が読めるのであれば通俗であってもいいのではないかと思い気を取り直した。
後でわかったのだが・・・渡辺淳一はもうすでに物故の人と思って、いつ頃の人だろうと思って検索してみたら・・・どうもまだ生きているらしい。生きていればまだ、2010年の時点で77~8歳ぐらいだ!本人にとっては大変失礼かもしれない。(笑) 小説家は死んでから本当の価値が見えてくる。
まあそんなわけで本を読み始めたわけです。この文庫本にはこの作品のほかにも、『宣告』、『猿の抵抗』、『薔薇連想』といった短編も含まれていましたからその感想も交えて語りましょう。
このストーリーは短編ですから、詳しくあらすじを言ってしまえばまだ読まれていない読者にとっては気が抜けたシャンパンになってしまうでしょう。だから仔細にこの作品だけにについて述べるのは避けた方がいいですね。
この話のキーワードは、他人のちょっとした思い付きの選択が己の人生を大きく変えたということですね。人は己の決断で左右する自分の人生にはそれなりに納得するが、人の発言や行動の所為で自分の人生が左右されるのには納得しがたいものがありますね。
この作品は西南戦争で共に腕を負傷した二人の陸軍大尉の行く末について語られている。この二人は陸軍学校時代の同期である。彼等二人を手術をした佐藤軍医は最初に負傷した小武の腕の切断をおこない、後に行った寺内のオペでは切断するつもりが当時の医術では難しいその腕を残すという試みをふと実験してみたくなったというわけだ。
当時の医療レベルとしては、切断が適切な処置であるという状況の中であえて難しい選択を寺内に試みたわけです。その寺内が歴史的人物としてご存知のように陸軍大臣から総理大臣まで上り詰めたことは皆さんご承知でしょう。一方、片腕を失った小武は陸軍の福利施設の偕行社の長として終えたわけですが、この小武が寺内と同期でしかも小説で取り扱われるような内容の存在はフィクションでしょう。
そんなわけで人の人生は、まるで木の葉が風で揺れることですべての事象が結果として現れると思えてくる感じがします。それは以前にも述べたように必然なのか偶然なのかはわかりません。
この小説は、その要因から発して二人の出世という結果でもってコントラストをつけ、それぞれの人間性が変貌していく様を描いたのものですね。そういう意味では大衆向けのわかりやすく、取り付きやすい小説でしょう。
これを読んだご年配の読者なら誰しも自分の過去のことについても必ず振り返るでしょう。そして、もし、あの時そうでなかったならばという思いは尽きないでしょう。
私にしても、もしあのとき・・・というのが山ほど出てきます。それは、重大な生死でも二三度はありました。今でもよく覚えています。川で潜水して遊んでいて溺れそうになったいた時と、バイクの転倒事故の時などを思い出すと、今でもぞっとします。
それは仕事でも同じですね。例えば、独身時代にあったのですが、夕食をいつもの大衆食堂で食べていて、たまたま、そこに毎日新聞の夕刊があってそれを読んでいたらローム株式会社の求人広告がありまして、それが九州に営業拠点をつくる為の募集だったのです。
当時としては、転職というものは現在のように当たり前のことではありませんでしたから、それを見たからといってカンタンに決断できるものでもありませんが、しかし、それを見なかったら恐らくロームに入社するということはなかったと思います。
ネット上を辿れば、私がその前がアイホンにいたという事が分かってしまいますが、両社はとても素敵な会社でした。これはお世辞ではなくそこで素晴らしい人との出会いが多くあったので今日の私が仕上がった言っても過言ではありません。やはり企業は人ですね。
いずれの企業の経営者も創業者が社長でともに苦労されて一から築き上げた企業です。そして、そこに集まった社員も前向きで明るい人たちばかりでした。だから大きくなったのでしょう。
さて、渡辺淳一の次の小説に話を元に戻しますと、『宣告』という小説はある患者の画家に対して癌であるという告知と余命幾ばくかを患者に教えるか否かを医師が迷った挙句、船井医師は相手が芸術家であることから残された時間を画家として作品に託すのが本命だろうということで死の宣告をした結果、その画家が辿った迷走の結末を創作したものです。
これも、医師の判断と行動で患者の終末が変わっていくというところでは、「光と影」と同様な問いかけがありますね。この『宣告』もそうですがそうしたときの描写において、相関的な視点力が少し不足している気がします。『宣告』ではもっと画家の内面について画家自身が深く語る形式でもっと掘り下げないと作品の重みが出てきません。
影響を与えた者とそれを受けた者との充分なる葛藤を描かないと、さっと読みすぎてしまいます。その深い追求が足りないと、やはり通俗的になり重厚な文学にはならない。
『猿の抵抗』は、とてもユーモラスな話ですが、当時の医師と患者の立場を思い出す。今でこそ医師は謙虚な方ばかりですが、当時は権威があって患者を見下したところがありましたね。
大学病院は特にそうでした。数年前大学病院にちょっとだけ入院したことがあって、そのときに診察室に呼び出される時、びっくりしました。「大藪様、どうぞ中にお入りください」とアナウンスするのです。『様』付けされたのは驚きでした。
医学界も随分昔と変わったなあ~とそのとき思いました。やはり、人権という言葉の重みが今日の社会を変えていったのでしょう。この『人権』も明治頃の新漢語ですから、言葉と共に社会は変貌していくのですね。
次の 『薔薇連想』 は、氷見子という独身女性の復讐心を懐いた物語ですが、これは通俗小説としてはよくまとまっている出来のよい小説ですね。話の展開のテンポがなかなかいい。復讐もなかなか面白く感じます。世の放蕩男性に与える警告の書かもしれません。(笑)
このタイトルが何を意味するのか最初わかりませんでしたが、梅毒の感染による初期症状としてあらわれる紋様を 『薔薇』 として表現しているのです。
主人公の氷見子は、男性のエゴに対して己に身についてしまった病気を、何も知らない男どもに次々と感染させることで復讐の喜びを得ているといったちょっとサスペンス的な内容です。
しかし、そうした内容なのに陰湿さはまったく感じられないところがこの小説のうまいところでしょう。恐らく、著者自身が楽しんで一気に書き上げた作品でしょう。しかし、この作品を映画化すれば、悪妻の言う通りエロい作品と評されるでしょう。文学と映画は描写が別物なのですから仕方ありません。
この三点の作品は申すまでもなく著者の職業としての能力をうまく使った小説です。医師と言えば森鴎外も軍医としての立場で作家でもあったわけですが、小説を書くことにおいてそうした職業能力を捨てたところで作品を描くところに至るまでが芸術家としての歩み方でしょう。
それは、ちょうど画家が体得したデッサン力をひけらかすのを捨てることで、本格的な作品が描けるというのに似ています。そういえば大学時代に柴田翔の「されど われらが日々―」の作品とか幾つかの作品を読んだことがありますが、柴田翔も工学を学んだことを生かして真空管の話とか・・・それを作品に盛り込んでいましたね。こちらがそうした詳しい知識があると逆にその作品が安っぽく見えるのに気付きました。
つまり、作品の格調を高める為に大衆の知らない専門分野のことを挿入することで、難解に仕上がり、そのよくわからないことが 『有り難い』 こととして崇められるということでしょう。
それは、お寺のお坊さんが法事の時にわけのわからないお経を唱えることで 『有り難い』 と思われることと五十歩百歩でしょう。
漱石や鴎外もそうした難しい哲学や宗教的なことを挿入することで文学として 『有り難い』 存在になったのは確かです。恐らく哲学や宗教を職業とした哲学者や宗教家が読めばまた違った読後感となるでしょう。
純文学という言葉がありますが、この定義を決め付けるとおかしなものになってしまいますが、やはり、そうした専門職業分野を挿入したところで格調を高めるという手法だけでは乗り越えられないものがあるでしょう。そうしたものをむしろ捨てたところに純文学があるような気がするのです。
小林秀雄が、「僕の批評が難しい難しいと言う人がいる。それを聞くと腹が立ってしょうがない。難しくしょうと思って書いているのではなく、そうしたものを書くとどうしても難しくなってしまうのだ。確かに、若い頃は若気の至りでわざと難しく書くことをしていた頃があったが・・・今はそうではない。そうなってしまうのです。」と、講演で言っていましたね。
渡辺淳一の後期の作品を読んでみないとわかりませんが、恐らく、そうした角がとれた作品になっているかもしれません。
そういえば、大学時代に三島由紀夫の 『豊饒の海』 を読んだことがあるけどあれも・・・奔馬だったか?難解なところがありましたね。三島もわかっていてわざと入れたのかもしれません。格調を高めるためにも・・・。(笑) でも、あれから数十年たっているから今読めば又違った感想を持つかもしれない。これが読書の醍醐味かな?あと一冊、気楽に読もうと思ってまた渡辺淳一の・・・今度は長編を借りてきました。
by 大藪光政