[ 志賀島 休暇村海岸前より臨む]
この本を紹介したのは朝日新聞の読書コラムだった。この素敵なタイトルを見てワクワクしてすぐにこの本が読みたくなった。
当然、書物はすべて図書館頼みだから福津市立図書館にこれを取り寄せてくださいとお願いした。
しかし、待てど暮らせど本が入ったと言う連絡が来ない。依頼したのは九月ごろだった。二度くらい途中確認したが手配中だということで「この本を取り寄せられない」と言うお断りの話はなかった。
いつもは、二週間以内ぐらいで取り寄せてもらっていた。今回は、約二ヶ月近く待たされてようやく先日、本が入ったとの連絡が入った。メデタシメデタシ。
早速、手にしてみるとそんなに分厚くはない本であった。開いてみると、今年の7月20日に出版された本である。いつも親切な図書館の係りの女性から、「他の図書館からの取り寄せ本ですから大切に取り扱ってください。返却は二週間までにお願いします。」と念を押された。
それで何処から借りたのかな?と開いてみると福岡県立図書館の判子が押してあった。でも、誰かが本を開いて読んだような形跡がまったくない。まったくの新品本だ。どうしてだろう?図書館同士で本をお互いに融通して貸し借りするシステムが存在するのは分かるが、どういう場合に新刊本を購入していくのかの仕組みがわからない。
どうも、推測するに読み手の少ない本については、県の図書館がこうした専門書を代表して購入し、それを近隣の図書館のリクエストで貸したりするのでは?と思われる。
これを専門書として扱われるのは内容を見れば一目瞭然であった。手にした本を見ればなんと学術書そのものではないか。「騙したな?」と思わざるを得なかった。
朝日新聞のような一般紙に、さも、一般の読者でも読めそうな本みたいに紹介していたが、これは明らかに学術書だ!最後の著者リストを見ると九人もの若手研究者が寄稿している学術書であった。
編著の松本俊吉氏は、「本書は当初、基本的に専門家ではなく一般読者を対象とした 『教科書』 として編纂される予定であった。・・・・(以下中略) しかし、こうして完成されたものを見ると、『教科書』 と 『学術論文集』 との中間あたりに位置するものとなっているように感じる。・・・」と、言い訳が入っていた。
騙されたと思いつつも、しばらく、この本をパラパラとめくって一部を読んでは見たが、どう見ても学術書の雰囲気である。「糞!」と頭にきて本を明日にでも返そうかと思ったがせっかく取り寄せてくれた福津市の図書館には申し訳がない。
「読まずにしばらく机にでも置いて読んだ振りをしてから返そうか?」とも思って本を枕の上に置いて寝てしまった。それから、早朝の午前三時を過ぎた頃に目を覚ました。哲学の本を読むのに適した時間である。
読むべき本が他に手元にはなかったのでこの本をうらめしく手にして、しばし、最後に紹介されている著者一覧を見てみた。著者で最も若い方は若干、二十八歳の中尾 央氏であった。
こうなるととても悔しい。こんなに若い連中が書いた本をすらすらと読んで理解できないでどうするといった気持ちが湧いてきた。でも、学術書はやはり専門分野の人間でないと歯が立たないのは百も承知である。単なる人生経験とか一般的な教養では無理である。
そこで、本を返す前にせめて目次だけでも眺めておこうと、ふと思った。そして、目次を眺めてみると、それぞれの著者の中には 『はじめに』 と 『おわりに』 の寄稿が入っている論文が何箇所か見受けられた。
すると、「そうだ、こうした著者の想いだけでも齧るのも悪くはない」ということが頭に擡げてきた。そこで今度は、「学術書なら全部を読む必要はない。関心のあるところだけでも読めばよい。」ということに思い当たった。
そして、さらに目次から松本氏の論文を斜め読みにしながら、次の中島敏幸氏の「生物学的階層における因果決定性と進化」についての論文の 『はじめに』 を読んで行った。
この学術書の著者の中でもっとも私に近い年齢は中島敏幸氏と三中信宏氏である。とは言ってもまだお二人の方が私よりずっと若い。僕が中学三年生としたらお二人はピカピカの小学一年生である。(笑)
人間とは不思議な動物で、こんなにも年齢差があっても成人すればバタバタと専門知識やその創造性については軽くその立場が入れ替わる。(トホホ)
三中信宏氏の名前を見つけたとき、どこかで見たことがあると思って、もしやあの分類思考でこのブログにて紹介した方では?と思って、ちょっと三中氏の論文を覗き見したらそうであった。それに気付くと少しは親しみが湧いてきた。
さて、肝心の中島敏幸氏のところを読ませて頂くと、専門知識を除けば、実に読みやすい書き方であった。つまり、自分の言葉で書かれているので読者にとっては入りやすいのである。
「生命は階層システムを構成しているといわれる・・・」から始まって、その内容を読んでいくと興味津々になって吸い込まれてしまう。 『階層システム』 という言葉については、以前にも述べたように、このPCにキーを打ち込んでいるWindowsのフォルダ構築がまさにそうである。
マイドキュメントのフォルダや、{ C:\ } パスが連ねるPC内容を把握すれば、所有者の分類思考がすぐに読み取れる。系統的に分類して構築している人とそうではなく思い付きで作っている人とに分かれてしまう 。系統的であっても目的思考によってその構成も随分と変わってしまう。
中島氏の解説はたとえ話を例に挙げてとても素人でもわかりやすく語ってくれています。たとえばシステムと部分との関係については、二人の会話を用いてその展開を持ち出し、その会話の進行とその会話がもたらした発言要因と会話全体との関係を 『システムにおける部分と全体』の締めくくりとしてこう述べている。
「つまり、各部分のあり方を規定するのは、その環境ではなく、それ自身を含んだ全体と言わざるをえない。部分は全体の一員として全体の挙動 (状態変化) の決定に参加し、逆に全体は部分のあり方を規定している。平たくいえば、部分が全体を作り、全体がそうさせているといえよう。」
これは、先程挙げたパソコンのフォルダのようなスタティックなものには当て嵌りませんが、アクティブな生命体の場合はそうした考えが当て嵌りますね。中島氏の説明では部分と全体との関係が入れ子構造になっていると思われます。
これは、飛躍すると 『鶏が先か?卵が先か?』 といったマクロ的な想いも似ているようですが、生物界の中ではこうした様々な複雑なパターンが繰り広げられているみたいですね。
『生物学的実体による通時的な階層形成』 についても興味深いところである。
それは、『実体と変化』 について述べられていますが、ここでの引用は、『ミリンダ王の問い』 というインド古典で説明している。「夜通し燃え続けるこの灯火の一時の前の炎とその後の炎は同じか」という、ミリンダ王が尊師、ナーガーセーナに問うた話である。
これは、私たちの体を例にとってもそうであろう。「今日の私と昨日の私は同一か?」という問いはマクロ的に見れば、「それは同じ人物であるのは当たり前でしょう?」という事になるが、ミクロの世界では、多くの細胞の生死があってその入れ替わりが起きており、決して同一ではないが、そうした入れ替わりの連続によりマクロ的母体が維持出来ていると言えるでしょう。
こうして、どんどん学術的課題の展開が進展していきますからたまりません。楽しいやら難解らで一喜一憂ですね。(笑)
中島氏の論文の締めくくりに次のようなコメントが記載されていました。
「たとえば、生成、消滅を繰り返す素粒子の背後に“場”という存在し続ける実体”を見いだした。生物学においても、生成、消滅を繰り返す細胞の背後に“個体”を、生成、消滅を繰り返す個体の背後に“個体群”を見いだすといったように、類似した実在の認識が見られる」
このように、ミクロの世界における量子力学の“場の理論”と同じように、マクロの世界もそうであると語っている。そして、続けて次のように結んでいる。
「我々人間は個体である。したがって、自らの時空間スケールを大きく超える巨視的な実体の実在性の認識には困難が伴う。種の実在性や大進化の時空間スケールでの生物学的実在の容認について論争が紛糾していることもうなずける。この章で扱った問題のみならず、実在とは何かという古くから続く哲学の問題も潜んでいるのである。」
ここまで読めば、なるほど、この本の題名付けがなんとなくわかる。
さて、次は大塚 淳氏の 『生物学における目的と機能』 の章であるが、これも題名は地味だが、こうした自然界に「目的論があるのか否か?」そのものもを問うてみるもの面白い。ソフトウェアを開発するに当たっては、必ず 『目的』 の設定が最初になければならない。この目的設定があいまいだとシステムづくりが迷走してしまう。
大塚 淳氏の述べている 『目的指向性』 とか 『ネガティブ・フィードバック』 といった話の展開は制御工学と通じるものがある。つまり、システム工学や制御工学の考えをこうした進化生物学に対しても適用してみようということだろう。
次に紹介されているのが、森本良太氏の 『進化論における確率概念』 である。これは面白なさそうなので、パスして他を読もうかと思ったが、ちょっとだけ覗いてみようと思って読み始めたら意外と面白かった。
森本良太氏は、物理学における古典力学と現代の量子力学の思考を引用して話を展開している。そして、『ラプラスの悪魔』 という話を大学時代に本で読んだことを思い出した。「すべてが分かっていれば、すべてを予測することができる」ということですね。
これは、現代の気象学などがこれに挑戦しているといえるでしょう。複雑な自然界の中でも気象学は予想することが出来そうな学問のひとつだからです。それはスーパーコンピュータの出現で天気予報もかなりの精度をもたらしています。しかし、長期予報についてはまだまだ難しいところです。つまり、天候の変化因子をすべて網羅しきれないからでしょう。
この世の中を眺めた時、物質のマクロの世界は決定論的思考が一見出来そうだが、ミクロの世界においては、非決定論的世界思考になってしまうということですね。それもこれも、物理学における不確定性理論とかあの江崎ダイオードのトンネル効果が発見されたことで、『ラプラスの悪魔』 を超えた世界が存在することが証明されたからでしょう。
(注意として不確定性原理と非決定論とを混同してはいけない)
そこで、生物の進化においても、マクロ的な生物の適応性というところでは、そうした環境ファクターをすべて把握すれば進化の想定ができるということでしょうが、そうしたすべてのデータを持つことは現在の科学では不可能なので、そうしたところを補うものとして数学の統計学や確率理論が用いられているのだという考えのようです。
一方、ミクロの世界では、遺伝子浮動レベルとか、さらには分子レベルで発生するような進化については、予測が出来ない世界であるといった非決定論の方に傾いているようである。
ここを自分で思い巡らしてみると、もし、『ラプラスの悪魔』 のような『すべてがわかればすべてが予測つく』 と言ったことであれば、この世は閉ループとしてすべてには限界があるということになる。それは、すべてが知りえるということはすべてにおいて限界があるということだからです。これがもし、無限連鎖であればすべてを知り尽くすことはできない。
ミクロの世界においては、どうも不確定性な一面があることが証明されているので、あとは、この不確定性の世界がマクロの世界に与える影響がどうであるかであろう。ここで扱っているのは生物の進化であるから、生物の進化というものが、このようなミクロの不確定な振る舞いにて発生するイベントが、大小はともかくとして果たしてマクロまで影響するのか否か?という問題まで抱えているからややこしい。
しかし、一般的に言えば、遺伝子レベルで発生した現象は、細胞レベルでの変化をもたらし、そのマクロとしての個体に対しても決定的な影響を与えているのは事実である。それが人に死をもたらす病気のひとつである癌もそうであろう。また、ウイルスによる感染症もそうであろう。
そういえばウイルスキャリアによる遺伝子の加工も可能な時代ですから、自然界において発生するウイルスによる遺伝変異もあるから、そうした遺伝変異における進化も当然ありますから、やはりミクロとマクロはどこかで繋がっていると思わなければなりません。
ミクロの世界が不確定性な現象をもっているからといって非決定論的世界だとは言い切れないことには議論の余地がある。また、その影響がマクロに伝播されるときは、その影響がマクロに反映されるものか否か?にもよりますからその伝播はオンかオフとなります。つまり不連続な伝播ではないでしょうか?
今ここでふと気が付いたのですが、ミクロの世界は広がりとしてマクロよりも果たして本当に小さいのでしょうか?ミクロとかマクロと言うのは、人間の使う物差しのスケールで表現しているから一般常識を超えたところでの広がりについては、想像を絶するものがあります。
もし、ミクロの世界が非決定論的世界であれば、当然その上に立つマクロの世界も非決定論的世界でしょう。しかし、その逆としてミクロの世界が決定論的世界であればマクロの世界もそうであるかは?これはどうもそうだとは言えない所がありそうです。
『ラプラスの悪魔』で注意しなければいけないのは、現代風に考えると 『すべて』 には、マクロもミクロの振る舞いもすべて含んでいるということです。つまり、ミクロの不確定性現象もすべて知り尽くしているということであれば、果たしてそれでも予測は付かないか?ということになります。
しかし、言葉の綾で、そもそも 『予測』 と言うこと自体がどうも怪しい!誰が予測し、誰がそれを認めるのか?ということになる。それは、トドノツマリ、人間ということになる。つまり、自然界の一員が、自然のすべてを予測して、それを認めるということになる。それってなんだか変ですよね。
ついつい話が長くなってしまいました。図書館の返却の期限も来てしまいました。それまでには読み終えたのですが感想を書くことが相変わらず色々と多忙なので延びてしまいました。先日の土曜日にクロスバイクを買ってそれに夢中になっていました。そのうち骨折入院になるかも。(笑)
第8章の 『人間行動の進化的研究』 については、この執筆者の中で一番若い中尾 央氏が書かれていますが、8.2の 『遺伝子と文化の二重継承説』 のところでは、「この二重継承説の 『二重』 という言葉が表しているのは遺伝子と文化であるが、文化は遺伝子的進化の産物であるというだけでなく、文化が遺伝子的進化を促進することもある。」と書き記されているところを読むとなるほどそうだなあと頷いてしまったが、本当に不思議な気持ちになってしまった。
8.3の進化心理学のところで、『互恵的利他行動』 という言葉が目に付いた。最近中国との話題の 『互恵』 用語ですね。「互恵的利他行動とは、相手に協力してもらったお返しに自分も協力するという協力行動の形態であり、この協力行動においては、裏切られた相手に対しては裏切りで応答するので、裏切り者を検知する心理メカニズムが備わっていなければならない。」と、あります。日本人は検知しても何もできないのでは?と、この間の尖閣列島事件を思い出して、つい関連付けて笑ってしまった。
マキャベリ仮説も面白い。「われわれの知性は競争相手との騙し合いの中で進化してきたものだと考えられている。騙し合いの中では相手の戦略も常に変化するであろうし、やはり、安定した戦略などは考えにくい・・・」という話は、一見、人間について述べているように思ってしまうが、よく、テレビなどで紹介される一般の動植物の世界でもそうした騙し合いがあるのは周知の通りで、ここでは 『知性』 という言葉が使われているので、つい、狡賢い知性はそうやって進化していったのか!と、笑ってしまった。
最後の章である、田中泉吏氏の書かれた第9章 『進化論倫理学の課題と方法』 のタイトルは、あれっと思ってしまった。『進化』と『倫理学』という言葉が結びつくこと自体、そんな学問もあるのか?ここでは、人間以外の動物にも倫理があるという想定で進化論倫理学が成り立つのであるが、それでは、植物についてはどうなの?という疑問が出てくる。
植物も進化のプロセスはある。しかし、サルや狼のような動物、果ては昆虫にもそれがあるとは思えても、植物に倫理観があるとは普通考えられない。だが、植物にも心があるということは一概に否定できない。心があれば当然倫理観があるかもしれない。
ここでは、植物については流石に触れられていない。何故か?進化論倫理学が動物しか適用できないのであれば、進化論の学問としては、パーシャルな考えとなりますね。
田中泉吏氏は、9.4「遺伝子の倫理」というタイトルでさらに話を進めている。このタイトルも驚きだ。やはり、若いというのは何でも思い切った発想で飛びつくから素敵だ!
田中氏は、マイケル・ルースとウイルソンとの共著、『応用科学としての道徳哲学』 を引用した後に次のように述べている。
「この主張によれば、『他人を助けるのが正しい』 と我々が思うのは、我々がそう思うように遺伝子によって 『欺かれている』 からである。『欺かれている』 と言う表現には、本当は 『他人を助けるのが正しい』 というような客観的真理がないにもかかわらず、そうであるかのように錯覚してしまうように我々の心ができている (そのような心を作り出す遺伝子基盤がある) のだ、という含みがある。我々の心がそのようにできているのは、進化の事実に訴えて説明される。つまり、『他人を助けることが正しい』 と思う生物が、そうは思わない生物よりも生存繁殖競争に有利だったため、そのような生物がより多くの子孫を残し、子孫にその遺伝的基盤が受け継がれて広まっていったのである。」と、話は続く。
最後まで読まないと著者の意向が伝わらないので、抜書きはよくありませんが、その点、ご関心の方は、この本を読んでみてください。
しかし、つまらない反論ですが、遺伝子そのものに、『他人を助けるのが正しい』 という考えが仕組まれている生物が生存に有利であるならば、人類はいつの日か?他人を助ける人ばかりになって、とてもハッピーな世の中になるはずだけど、人類が誕生して未だに人を蹴落とそうとする人種が蔓延っているのは何故だろう?(笑)
確かに、他の動物と比較すると人間は明らかに 『他人を助けるのが正しい』 だけではなく、『他の生き物を助けるのも正しい』ということや、果ては、『全自然を保護する』 という思考をもって行動するということのスケールの大きさでは (自然を破壊することも含めて) 一番である。
つまり、種という分かれ目ではそうであったかもしれないが、同種(人類)の中では、そうした行為に相反する人々とそうでない人との淘汰はかなりの時間が掛かるということだろうか?
これらの問いかけは、『正しい』 という定義そのものが何であるか?を問うている。つまり、哲学的思考を交えて、それが遺伝子に仕組まれたものか?そうでないのか?そうでなければ、『正しい』 ということは、何をもってしてそれを決めているのか?有利な方を正しいとするならば、有利であれば正しいと決め付けるような決定はどのような能動プロセスでなされるのかという果てしない問いかけとなる。
もし、遺伝子がそう決めているのであれば、殺人という行為も遺伝子がそういう行為も出来るようにしているということになる。そうなると、裁判では罪を問えなくなるかもしれない。それは、精神病患者に対して罪が問えないのと五十歩百歩になるからだ。
また、逆に、『他人を殺すのは悪い』 というのを潜在的に 『悪い』 と決め付けているのも遺伝子によって 『欺かれている』 とすれば、これはなんとしたことだろう。 『悪い』 という言葉と『正しい』 と言う言葉はただ対になっているだけの話であるということはそら恐ろしいことだ。
池田晶子さんは、「人が人を殺すことが何故悪いのか?」を問いかけた人である。一般人にとって人を殺すことは悪いことだと誰しもが認めている。殺人者です ら善いとは思っていないだろう。どこかで良心の呵責があることだと思っているに違いないと。ところが、昨今の殺人でまったくそうした良心の呵責すらない平然としていられる人間が事件を引き起こしている。池田さん自身気味が悪いと言っている。そうした人間の心に起きた異変はある意味で遺伝子の仕組みによる異変だとすればこれは合点が行く。しかし、そうなると倫理の問題として大きな問題となっていく。
そう思うと、進化論は人間の心の問題にも触れるし、人間の生き方にも影響しかねない。それは人類の進化がよいことなのかそうでないのか?『何故、生物は進化しなければならないのか?』 という遠い疑問も浮かんでくる。まったく 進化の最終目的が見えない!
逆に、最終については無目的であるかもしれない 。そうであれば、無目的なものがどうして発生したのか?という問いも起きる。現象には因果はあっても目的はないということなのか?そうであれば、生物の発生は単なる化学反応のような無目的な現象なのか?
そう問い詰めていくと興味津々となり、自分が不思議である。自分の生誕は無目的なのか?それとも仕組まれた目的があるのか?それを広げると宇宙の誕生は無目的なのか?というところまでに想いが巡らされてしまう。
そういう意味では僕なりに、『進化論はなぜ哲学の問題になるのか』 というこの本の題に納得した。でも、著者のみなさんは学究においてはこうした素人との想いとは違った綿密な思考で研究をされているに違いない。
by 大藪光政
