書物からの回帰-ブダペスト-マーチャーシュ教会内

         [ハンガリー/ブダペスト/マーチャーシュ教会内]

急に十月の終わりになるととても寒くなってきました。
あの今夏の暑さが延々と続くのではと思うほどのとても暑い長い夏だった。

しかし、季節は変わり秋の訪れというのにそうした風情を楽しむ余裕はない。読書を色々しても、何故か感想をこのブログに書くまでに至らなかった。

この間、図書館に小川未明という人の童話集が全16巻もあるのに気付き、こんな熱心な作家もいるのだなあと驚いた。分厚い一冊の第一巻を手にしてみると、丁寧にも振り仮名が殆んどついているし、ちょっとした挿絵も入っている。読んでみるとファンタジーな気持ちにもなる。

もうひとつ読みかけた本がある。ジュリア・アナスとい人が書いた 『プラトン』 と言う本だ。これは、どうも懐けなかった。まだ、この間読んだ田中美知太郎の 『生きることの意味』 の本の方がすんなり心に入っていった。

やはり、どんなに難しくても心にすんなり入ってこないとつまらないものだ。心にすんなりと入ってくるには、心に響くものがないといけない。つまり響くとは、音響でいえば共鳴するということで、畢竟、周波数的には同調するということですね。

それは、もともとそうした同調すべき知と徳がないと起き得ない。しかし、そうした知と徳を学ぶ為に読書をするのであるとすれば、読んだことのない本を読むときに同調しない知と徳が出てくるのは致し方ないことだろうか?

でも、本を読むことで知りえていない内容であっても感動することはよくあることだ。とすればそれには積層された知と徳が 『よし』 と判断するのでしょう。

すると、己の積層になっているものと相性が悪い本があっても不思議ではない。

さて、三島由紀夫の 『純白の夜』 の本を図書館で手にしたとき、真新しい文庫本だったので少しフォントも大きくなっていた。しかし、読みやすいなあ~と思いつつも、この薄っぺらい文庫本が476円(税別)となっていたから文庫本って随分高くなったなあ~と驚いた。ひと昔だと、150円ぐらいなものでしょう。

しかし、この薄っぺらいたった弐百頁の本を読むのに、実はとても日にちが掛かりました。それは、ストーリーの展開がとても緩やかだったせいもありますが内容的にあまり強く引っ張られる雰囲気がなかったからでしょう。だから、ちょっと読んでは、机の上に置きっぱなしにして、時々、目を通す程度の読み方をしたからです。

この小説は三島が二十五歳のときの作品です。その若さとは思えない文章表現を駆使しています。本を読めばわかりますが、かなりの早熟の技です。三島が文章力の力量を発揮したすごさが堪能できます。文章表現力だけで言えば、おそらく同齢では漱石や鴎外など比にならないでしょう。

しかし、こうした三島文学を他国の言語で翻訳すると美的な日本語がすべて削ぎ落とされ、残ったものはその物語の展開だけになってしまいます。

そうなると、その骨格はひょっとすると何処かの話を焼き直したものかもしれない。三島はかなりの読書家でもありますから、バルザックの作品とか何かの作品からヒントを得て和製風にそれに肉付けしたのかもしれない。三島は一般的な事件ですらそこからヒントを得て作品にすることが多いから、まったく彼のオリジナルなストーリーとは思えない。

作品の内容をここで紹介してしまうとまだ読まれていない方には申し訳ないと思うのでなるべく控えますが、この本を読み始めて作品の半分手前で主人公の郁子の齢が、若干、二十三歳で、その夫の齢が三十六歳であることを知った。これは驚きであった。作品を読んでイメージしていった齢があと十歳加算したところの年齢を思い浮かべていたからだ。

三島の文筆は、彼の当時の年齢にしてはあまりにも老練な円熟した描写になりすぎています。だから不倫という社会的な日常茶飯事の出来事としては登場人物の年齢とそうした状況描写が完全にずれています。恐らく、彼にとっては作家デビューしたばかりの自負がそうさせたのでしょう。ちょうど、漱石が 『草枕』 を書いたような自負と似たものがあります。つまり、新人作家としての気負いというものでしょう。

しかし、変な話だとは思いつつも不倫の話なのに熱に浮かされるような濃厚な描写はひとつもなく楠木との逢瀬が粛々ととり行われていきます。

終わり方も、暗示は事前にその都度ありましたが、あっけない終わり方でした。

しかし、この小説には夫婦間というものと、結婚を超えた男女間の愛と言うものに対して、しばし、考えさせられるものがありました。三島、若干、二十五歳にしてはあまりにも人生を知りすぎている。

鴎外や漱石にとっては妻の存在が疎ましくあったようで、そこのところが作品にも現われていますが、三島の場合はその点どうだったのでしょう。彼の小説からは、彼の奥さんの愚痴が書かれているような小説を見つけるに至っておりませんが、これは、三島の美学としてそうした行為は女々しいと思ったからでしょうか?

この 『純白の夜』 の読後感から、また、僕の勝手な想像ですが、どうも、楠と郁子との関係は、世間一般で言う不倫愛ではなく、友情としての付き合いだったような感じで受け止めました。

つまり、大して愛してもいない夫との関係は家庭と言う鳥籠に入っている鳥みたいなものだから、といった気持ちで開放してあげようという悪戯心をもった悪友みたいな付き合いで楠は接したのではないか?という、勝手な想像。

人を愛することは悪いことではない。しかし、他人の妻を愛することが悪いことだとどうして言えるのか?といった問題は、哲学的解釈よりも社会における道徳的規律が優先される。

そもそも人類愛などと言う標語的な言葉は存在しているが、何が人類愛か?と問えば非常に難しい。「隣の奥さんを愛することは人類愛である。」なんて言ったら隣の旦那にぶん殴られるに違いない。

また、百歳にもなる男性が二十歳の女性を愛することは、恋愛といえるか?といったことを考えると、それは一般的にはありえないちょっと無理な話である。しかし、男性の年齢をどこまで下げると恋愛いえるのか?と言えばそれは領域の設定が困難である。

ただわかることはお互いが愛していることを認め合えばそれは成立するということだ。それは、たとえ相手が如何なる身分や立場であろうともそうであろう。

つまり、人は自由に人を愛することは出来るし、お互いが認め合えばそれは恋愛というものだろう。でも、周囲の立場を壊すことなく愛し合う事はどちらかというとそれは友情というものだろう。

つまり、友情であればこの世の誰とでも友愛(意味は同じだけど)として愛し合うことが出来ます。

しかし、主人公の郁子は、その友情だけでは済ませられなくなって自らの命を絶ったということになりますね。

そんな気がしました。

やはり、友情から、ひたむきな愛が芽生えるということでしょうか?

歳を取るにつれて不思議と世間に対して視野が広くなっていくのを感じます。

すると、人と人との付き合いでも、年齢、性別にわけ隔てなく付き合っていきますと自然と友愛の感情が湧き起こります。最近そうした心持を楽しむようになりました。

それもこれも色々なフィールドに首を突っ込んでそうした 『人類』 と関わり合う機会を自分で作ったことがお陰であることに気付かされます。

よく考えてみると小学生も年老いた長老も付き合ってみるとなんだか共通の感情で結び合うことが出来るので不思議なくらいです。年少や年長の人間は欲が小さいから付き合いやすいというのがあります。人間って欲がなければ元々変わらないものかもしれませんね。

by 大藪光政