[ ドレスデン/マイセンの大壁画 /馬にまたがるアウグスト強王 ]
図書館で山岡荘八の本に出会った。その本は「吉田松陰」である。これが、他の人物歴史小説であれば看過していたでしょう。
吉田松陰については、すでに何度か萩に行ったりして博物館で説明も聞いている。そしてそこで資料を買って事実も確認している。また、他の書物からもいろいろと知りえている。おまけにテレビでも何度か紹介しているからもう一般の人よりも多くのことを知っているつもりだ。
だから、無量育成塾みたいなものまで開校してしまった。(笑) 山岡荘八は、昔、手にして読んだことがある。しかし変な話であるが、どの歴史物を読んだのか記憶に無い。ただ、面白くて一巻ものだったのには間違いない。
山岡荘八の小説には巻の長いものがある。徳川家康なんぞは全二十六巻もある。驚きだ!書く方も書く方だが、読む方も読む方だ。よっぽど暇でないとこうもいかない。(笑)
「吉田松陰」を借りて読もうと、ふと、その場で思ったのだが二巻のうちの最初の一巻目が手元にあって、下巻は貸し出し中であった。そういえばこの本も結構草臥れている。よく読まれているみたいだ。
知っているつもりで読んでいくと知らないことばかりが目に付いてくる。だから、あらためて感心してしまう。荘八の文章は面白い。あまり面白いので息子にも荘八の小説を読んでみないか?と話を向けてみた。
しかし、息子は 『歴史小説はどうも好かない。事実であるように作り事をしているところが気に食わない』 みたいなことを言った。確かに、一応色々と資料に当たったり現地を訪れたりして調査をして書いているはずだが、事実とは違うことも多々あるのはどんな歴史小説でもそうである。
それは、小説家である以上、資料を超えた著者の創造力でもって読者に応えているから当然でしょう。 資料だけの事実で語れば小説にはなりえない。それはただのノンフィクションだ。しかし、ノンフィクションといえども事実に誤認があることもしばしばである。
最初から、フィクションと思えばよいのでしょうがどうしてもその人物を生写ししていると錯覚させられるからそれが引っ掛かるのでしょう。うまい作家であればそういう人物であったと完璧に信じ込ませる術をもっている。
だから、最初からこれはフィクションであると思えばいいのだが、読んでいくうちに段々その人物の性格的表現がすべて事実そうであったと思い込んでしまう。
この吉田松陰も読んで行くと、そういう人物であったと信じてしまう。でも、そう信じてしまえば読んでいても楽しい。松蔭の家系は今で言う低所得サラリーマン学者の家系みたいで、松蔭の母が嫁ぐ話から始まる。
松蔭の母は滝といい、児玉太兵衛が滝を引き取って家で召し使いとして仕事をさせているが、滝は家事万端を教えてもらっている身ともいえる立場である。
その太兵衛が苦渋の思いで滝に「百合之助のところに嫁がないか?」と話を切り出す。それが松蔭出生のきっかけとなるから不思議なものだ。太兵衛の決断がなければ大袈裟に言うと、今の日本の姿はなかったといっても過言ではない。それだけ松蔭の出現は日本の歴史にとって重要な位置を占めている。
太兵衛は滝を説き伏せる時、学問好きの少し暗い百合之助と明るい性格の滝が一緒になれば・・・すばらしい血筋が出来上がるみたいなことを長々と言って、最後の結びが「・・・・人作り、これがなければこの世にさっぱりおもしろ味もなければ進歩もない。学問も学黌も、考えてみれば、みなその大きな花を咲かせる ための肥料なので、その花作りの上手こそ忠義者というのではなかったかと・・・」と滝に語って暗に滝に使命感を抱かせている。
この辺は、荘八の得意な創造力で拵えたものであるのは言うまでもありませんがなかなか味のある説得話です。この太兵衛の言葉は荘八が読者に対する語りでもある。
嫁ぐ話は百合之助が苦労しているのを忍びないと思った太兵衛の気持ちから立ち上がっている。それは百合之助の父、七兵衛の家が全焼し、不憫な生活を強いられ、霜の立つ頃に死んでしまった経緯からきている。そこには火災さえなければという偶然性がある。
太兵衛の話を聞いた滝は戸惑うことなく「滝は、学問好きのお方を大好きでございます」の一言を発する。それは偶然から必然への歴史の道程が始まり、日本史に大変な影響を与えることを孕んでいたことになる。
松蔭の幼名は虎之助である。これは文政13年(天保元年)庚寅の年に生まれ虎の猛々しさからそう名付けたようだ。昔は魚と一緒で男子は出世魚のごとく名前が変わっていく。
これを知り僕は五黄の寅なので同じ寅年生まれだなと気付きました。そして後で、星座も同じだったのでおやおやと思った。だから、松蔭が生まれてから120年後に自分が生まれたことになります。そして、今年は、生誕180年ということになります。それに気付くとますます松蔭を身近に感じるのでこじ付けな関連付は自己陶酔かなと思って笑ってしまった。
松蔭は玉木文之進という厳しい叔父の教育者に恵まれ、名君である藩主の敬親公に可愛がられ学ぶ上においてはとても恵まれた環境にあったのは申すまでも無いことです。
そのお陰で、見聞と学業を極める為に遊学が許可されます。最初に大いに学んだのは平戸で寺社奉行を務める葉山左内という学者のもとでの猛勉強。
しかし、別に葉山左内から手取り足取りで学んだのではなく、本を借りて宿に持ち帰りすべてをあっという間に読破し、読後感を葉山左内に述べるという形式だったようだ。
葉山左内という人物は、とても役人とは思えない腰の低い温和な老人としてここでは描かれている。葉山左内は、松蔭に対して、娘の珠江に色々と指示を出して宿の手配からその他色々と便宜を図っている。昔の人は、知人でも縁故でもなんでもない見知らぬ訪問者を前から知りえた客人のように大切にもてなす。現代では考えられないことである。
論語に「朋遠方より来る」の有名な言葉があるが、荘八はそうした意味合いで葉山左内の気持ちを描いている。朋とは初対面であっても、己の心意気が合う相手であれば、すでに旧知の朋なのである。そうした朋が悠彼方から忽然とやってくるのが嬉しきことなのだという状況を見事に葉山左内のもてなしで描写しきっている。
また娘の珠江と松蔭の関係を、作者は読者を退屈させずに楽しませるためにもしなやかな美談を創り上げている。
松蔭は、その後、江戸からさらに脱藩して東北諸州へと遊学しているが、平戸での遊学ほど引きつける内容にはなっていない。やはり、創作の珠江みたいな存在がいないからだろうか?(笑)
人がものごとを学ぶことにおいて重要なのは、この松蔭を例にとってもわかるように書物を読むだけでなく、自身の考えを書き纏めることが大切ですね。しかし、それ以上に大切なのは、遊学、つまり見聞でしょう。 『書を捨てて外へ出る』 しかし、ここでの松蔭は、外へ出ても書を捨てなかった。彼は新書を得る為に外に出たのかもしれない。
でも、外へ出るのはやはり、若ければ若いにこしたことはない。やはり、体力と吸収力、そしてそれらを活かすチャンスと残された余生を考えれば遊学の時期というものがある。
松蔭にとっては、まさしく、そのぴったしの年齢だからこそ大きなインパクトを得たのだと思う。もし、藩主の敬親公が松蔭に遊学をさせなかったら歴史上には松蔭の名が残っていなかっただろう。それだけ遊学は松蔭にとって重要な成長の要因だった。
さて、第二巻目を借りてきて読んだのだが、どういうわけか?第二巻はどちらかというと、松蔭の歴史解説本になってしまっている。若干の会話としてのやりとりが挿入されているものの、小説としての面白みが落ちてしまっている。
どうも、松蔭の手紙やその他資料の確かさが創作意欲を削ぎ落としてしまったようにも思える。歴史小説において、あまりに資料を表に出すと文章の流れがなくなり、主人公が何処へ行ったのか?といった感じになる。すなわち、主人公が読者の手元にいないということだ。
だから、資料を表立てせずに作家の想像力で主人公を生き生きと描くべきだと思う。いくら正確な資料を手元に持っていても読者が資料ばかりを読まされていると感じたらもう小説としては失敗だろう。
ところで以前、松蔭はオッチョコチョイだと言ってしまったことがあります。松蔭は若いこともあって莫迦正直で、一本気で先のことを考えないで行動する人と思っていました。つまり、臨機応変でなく、莫迦正直で命を落としてしまったオッチョコチョイ。
実際、資料を読んでも、なんと柔軟性がない人物だろうと思ってしまいたくなります。でも、松蔭がいう、「今、やらねばいつやるというのだ」という、時代の節目における決起というのは実に難しいもので、松蔭が言うようにやはり、誰かが踏み台になることが絶対必要で、その時期を決断するにおいて躊躇しないというのも大変重要であることをしみじみ感じました。
結果としては、松蔭の死が長州の若者達を決起させる動機となっていますから、決して無駄な死ではない。こうした己を捨ててものごとを為すというのは、もう、現代ではありえないですね。三島由紀夫も、こうした試みをしたけど、誰一人立ち上がる者がいなかったということを思うと三島の方がオッチョコチョイだったかもしれません。
憂国といえば、昨今、中国のすさまじい圧力が報道され、日本の政治の迷走を目の当たりにしたとき、本当にこの国大丈夫だろうか?と思います。平和な国日本もいいけど、軍事力と経済力をつけてきた専制国家に、日本は最後には止めを刺されるのではないだろうか?と思ってしまいます。高度な生産ラインとハイテックをすべて中国に受け渡して、国内は空洞化してもう、何も残っていないと思えるほど工場を移管してしまった。 (でも最先端技術はまだ日本が上だけど) 残っているのは、唯一、世界に誇る良識ある国民性ですね。(笑)
松蔭は、中国の古典を多く学んだのですが、学識の結論として、日本は神国であるという自負をもっていました。松蔭が生きていたらこの神国をどう思うでしょう。
無良識な国民であるより、貧しい国民の方がまだましだと思う。前者は、世界中で嫌われるが、後者はまだ少なくとも同情される。
だから、腹を括って松蔭のように一途に理を通したらよい。理の無き者はいずれ崩れ去る。
by 大藪光政