書物からの回帰

           [ウイーン・シェーンブルン宮殿/庭園にて]

この間、三島由紀夫の『お嬢さん』という小説を読んだところで僕は夏風邪を引いてしまった。最初はなんとなくだるい感じで声がかすんできて最後は声が出なくなった。熱は無いがお喋りの僕にはちょっと辛いコンディションとなった。

当初、『ヒューマニズムについて』の感想を述べることがなんとなく憂鬱になって 『お嬢さん』 についてを先に書こうかと思っていた。

すると、三日坊主ではないが、田中美知太郎の「生きることの意味」を噛み砕く作業を止めてしまう気がして・・・そんな状況下で猛暑の中を過ごしていると・・・世間の色々なニュース記事が飛び込んできて、思案に耽っている中、渋々筆をとる事にしました。とは言え、PC入力だけど。(笑)

しかし、その風邪もやっと治って声が出るようになり、今日予定されていたコーラスの練習に参加するつもりが、朝起きるとどうも鼻水が少し出たりしておかしい。そして、あまり歌声を出す気にならない。

それで、やむなくコーラスのリーダーであるKさんにレッスンを休む連絡をしました。Kさんは、「無理をなさらないで大事にされてください。」と、言われたけれど、普段、休むことはなかったのでどうも気持ちとして居心地が悪かった。「コーラスのM先生、休んでゴメンナサイ。」

さて、前置きがすっかり長くなりましたが、この『ヒューマニズムについて』を書く気になったのは、最近、朝日新聞の朝刊記事トップ一面に、ホメオパシーというものに対して日本学術会議が「科学的な根拠は明確に否定され、荒唐無稽(こうとうむけい)」という談話を出したことにも一因しています。

日本学術会議は、患者保護の立場からこれ以上無責任な医療行為を許すことはできないという判断からきているようです。これは、人道的対応としての医学界への警鐘として発せられたものです。人道的立場というのがヒューマニズムであるとすれば勇気ある見解の発言ということになります。

多くの医学界とその関係者はこの発言に賛同し、連日、この発言を支持しています。それも、幼い子供がホメオパシー療法による偽薬治療で一命を落とすといった事件があったからだと思います。

しかし、権威ある報道と権威ある学術機関から発せられたものがすべて真理であると考えるにはいささか注意を要します。ここが問題なのです。

確かに、多くの事例としてまやかしの医療行為は、このホメオパシーだけでなく、詐欺的な霊感商法、そして、新興宗教団体による信じれば治るといった事件などがいつの時代にも必ず出てくるものです。それは、どうしょうもなく救われない立場におかされた人の弱みに付け込んでの悪者の行為でしょう。

私も、過去、地域の知っているところでその方は特に悪意はまったくありませんが、電子水を飲めば病気にならないとか病気が治るとか言って、他人に対してそれを勧誘する事に対して、「それは薬事法的に問題がありますから・・・そうした勧め方はお止めになった方がよろしいです。」と、注意をしたことがあります。

これらの問題はとても微妙で、たとえば、「この水を飲めば癌が治る」といえば、根拠が無いとして問題となりますが、「この水を飲めば健康によい」と言えば、間違いではありません。人間にとって水は大切な源ですから。

そこで、日本学術会議が科学的見地でもって、医学に対してすべて科学的に立証できないものは、排除すべきだという発言は少し勇み足のような気がします。ただ有効であったか否かのデータだけでは不十分でそれらの詳しい因果関係をはっきりと証明させなければなりません。

だから、たとえば鍼灸治療なども科学的根拠が解明されていないのにも関わらず、外科医でも治せない症状が鍼灸治療で治せた多くの事実例があったにしても、因果根拠がはっきりしないから排除すべきだということまで含まれてしまう恐れすらあります。

鍼灸治療においては、整骨院と比べると医療保険の適用を受けるのに医者の了解がないと適用にならず、たとえなっても三割負担とまではいきません。どうして同じ医療行為なのにこうした差別があるのだろう。東京都知事の石原慎太郎ですら本人自身の治療において、鍼灸治療は欠かせないという話を聞いたことがあります。

現に、私も、産業医大に顔面麻痺で入院しましたが、顔が歪んで大学病院でもうこれ以上は完治しないと言われました。しかし、鍼灸治療で立派に治りました。大学病院では私の顔面麻痺の要因確定は結局できなかった。MRIをはじめとして膨大な検査をしましたがわからないまま。しかし要因がわからなくても治療を病院側は当然行ないます。それは単なる対処療法でした。

そして、もう、治しきらないと判断したら、さっさと退院してくれということになりました。あなたよりも重症な次の患者が待っているということでしょう。だからとても大学病院はヒューマニズムに満ちています。

しかし、そうなると、鍼灸治療のような東洋医学だけでなく、最近読んで感想を書いた、三島由紀夫の「音楽」という作品に出てくる精神分析医のような心療内科の仕事も果たして科学的証明がなされているといえるでしょうか?

心療内科といえば、九州帝国大学病院の池見酉次郎氏が恐らく、最初に手がけた分野だと思いますが、現代の科学がそれらの分野に対して科学でどれだけの検証がなされたのでしょうか?

鍼灸治療が、肉体と神経との間でうまく痛みを抑えたり矯正できたりする治療として、有効であるのと同じように心と身体とが密接に影響していると思われる病に対しては、ホメオパシーやその他の信じる手法で病気を治すという行為などは、母親が幼い子に対しておまじないの暗示を掛けて病気から身体の負担を取り除くという行為にもよく似ています。西洋医学の心療治療もある意味でそれと同じと言えるでしょう。

科学は、定量的、定性的に物事を判断しますから、ヒューマニズムとは無縁です。だから、日本学術会議は、ホメオパシー療法には、その科学的根拠がないから完全否定だ。と言っています。でも、ヒューマニズムもいらない科学が認めるところの医学が果たして我々の心身を完全に救うことができるでしょうか?

今回の日本学術会議の発言は、ホメオパシーという不思議な言葉で、偽りの診療をおこない不当な利益をむさぼる者から患者を守る為、ヒューマニズムを心得た科学者がとった弱者救済の発言だったと庶民が理解すべきとすればわからないでもありませんが、その為に真剣にそうしたことを研究している少数の方々にとっては大変な打撃でしょう。

問題なのは、身体と心の密接な関係がまだ医学はもちろん科学にさえもすべて解明されていない状況下で、そうした病理に対して真摯に取組んでいる少数派の仕事までも完全否定している点にあります。

患者を検査漬けにして、大量の飲み薬や注射、そして点滴までをしている行為で金儲けをしている悪徳な病院を多くの皆さんご存知でしょう。ひどいのになると、悪くも無いのに開腹手術を平気でする病院も過去にありました。

こうした悪徳な病院の経営にはヒューマニズムの精神なんてまったくありません。患者を金蔓としか見ていません。しかし、中には、とても善良な医師がいる小さな医院もあります。そういう医院は、良心的で有りすぎて不必要な検査や、必要以上の注射、抗生物質薬の投与はしません。なるべく本人の体力すなわち免疫力で治すことを基本とします。

すると、近隣の人からは、あそこの病院に行くとなかなか治りが悪いとか、かえってひどくなったなどとつまらない評判を立てます。つまり、色々バンバン検査してくれて、注射や新しい抗生物質薬を投与してくれる病院がよい病院なのです。だから、ヒューマニズムの精神が旺盛な医師の下には患者があまり集まらないから病院経営も大変なようです。

こうしてちょっとしたニュースから『ヒューマニズム』 という言葉が身近で問われることになります。

田中美知太郎の「生きることの意味」から『ヒューマニズムについて』の章は、この本でも多くのページを割いて書かれてあります。ここで、気付いたのは、学者は、言葉の語源から話を辿っていく習性があることに気付かされます。

言葉の語源を辿ると、大抵、現在の言葉の意味とは違っていることがあります。特に、西洋文献を翻訳した言葉など多いように見受けられます。もともと西洋の様々な地域で語源が変遷していったものが海を渡ってきて、今度は異国の人が言葉を訳するのですからまあ同じということにはならないでしょう。まったく反対の意味になってしまったものもあるでしょう。

『ヒューマニズムとは、非人道的行為を指す』 なんてことにはならないでしょうね。(笑)

庶民がこうした哲学書に疎いのは、ひとつにはこうした哲学者の莫迦丁寧さからきているのかもしれません。(笑)

庶民としては、新聞やテレビからの受け売りの 『ヒューマニズム』 を身に着けています。だからヒューマニズムといえば、戦争における人間の悲惨さをイメージして、人類愛的なものを感じます。つまり“人への大きな思いやり”といういうのがヒューマニズムであると解釈しています。

これは私の受け止め方ですから、ひょっとすると他人とは異なっているかもしれません。

“人への大きな思いやり”とは、誰が誰に対してそうするのかといえば、たとえば、裕福な人が貧しい人への配慮とか、平和な国の人々が戦争当事国の被災者を見舞う気持ちといった場合ですから、立場としては言葉が適切でないと思いますが、つきつめると幸福な立場にある者と不幸な立場にある者との関係が浮かび上がります。

では、幸福な立場の者が不幸な立場にある者の面倒をみるのは当たり前か?といえばいささか疑問が残ります。たとえば、身近な年金問題で年金を受給する歳になって充分な年金が支給される人と、なんとか生活できる人と、とても足りずに働かなくては生きていけない人と、まったく、貰えず乞食同然になってしまう人とに分かれてしまいます。

これは、若い頃に多くの給与天引きがあったのを公平に配分しているだけです。多い人はそれだけ若い頃に多く取られています。無い人は納めてない人です。これは当たり前です。

ここで、ヒューマニズムの精神でつくられた生活保護という弱者救済システムを利用すると、今度は、支給金額が一部の年金受給者よりもマシになって楽な生活が送れることもあるといわれていますから、薄給の年金者にとっては不公平だ!それなら最初から納めなければよいではないか?ということになります。

となると、このヒューマニズムが不公平なヒューマニズムとなってしまいます。そこで、田中美知太郎の言葉を引用しますと、「しかし、われわれは、高きに人間性を求めるヒューマニズムのあることを知らねばならない。ヒューマニズムは、安価な同情と甘やかしの教えではなくて、厳格に評価し、峻別する精神なのである。」

つまり、『アリとキリギリス』のようなイソップ寓話に出てくるたとえ話からも分かるように人間の習性は現在もまったく変わっていない。「夏に歌って遊んだのだから、冬は踊って遊んだら?」と言って食べ物を分けてあげないというのが原書だったと言われている。これが後に改変され、アリが苦言をいいつつ食べ物を分けてあげたという話になったそうだが、この話にもヒューマニズムの精神が揺れているのがわかる。

安価な同情と甘やかしで、この世にそうしたヒューマニストがいる限り、怠けてもなんとかなるものだという安心感を与えてしまい、そうした連中が蔓延り、畢竟、そのつけが廻って税金で苦しめられるのは真面目に働き納税して貯金と同じようにコツコツと年金を掛けている庶民ということになる。困ったことだ。

美知太郎は、もうひとつ面白いことにヒューマニズムの示すところの平等に関して次のように述べている。

「アリストクラシーの文字通りの意味は、上質のものが上位を占めるということである。価値の差別がある限り、これは当然のことであって、悪質のものが上位を占めたりしては大へんである。上手な画家も下手な画家も、法律上は平等に取り扱われ、経済的にも等しく最低生活だけは、保障されなければならない。しかし、人々が上手な絵の方を喜び、上手な画家の方をより多く尊敬したとしても、それは致し方ないことである。作品の上下については、平等は無意味である。そしてこのような高低が、人間のあらゆる方面に存在することを、認めなければならない。」

つまり、平等という言葉でもって味噌も糞も一緒に考えてはいけないということだということですね。美知太郎は少し遠慮して芸術家を例として説明していますが、もっと厳しく言うと一生懸命働いて年金の掛け金を納付した人と、掛け金を払わなかった人、そして、働かずに遊んだ人とを平等に扱うのは、決してヒューマニズムとはいえないということだと思います。

しかし、人それぞれ細かい事情というのがあります。やむにやまれない困窮というものあるでしょう。そこは、やはり、美知太郎の言う安価な同情と甘やかしの教えではなくて、厳格に評価し、峻別する精神を持つということだと思います。

実際こうした問題は、政治による行政指導の問題ですから、政治家自身がそうした心構えを持つ必要があるでしょう。でも政治家には、一番無理な話かな?(笑)

美知太郎の話にはもうひとつ面白い話がある。それは次の話だ。

「今日においても、官僚といえばあらゆる悪徳の権化のように非難されるけれども、これが労働組合員となって行動すれば、どんな非行も正面から批判することを遠慮するの風が見られたりするが、はなはだ滑稽なことだと言わねばならぬ。わたしたちはそういうものによって、判断を左右されてはならぬ。味方の弱点と悪徳についても、決して欺かれることのない眼をもつと共に、敵の美徳と長所にも、盲目であってはなるまい。そのような美点と欠点が、まさに人間としての価値の差別なのである。人間の不幸は、すべてを社会の罪にしてしまうことのできるものでもなければ、また食えないというような口実で、あらゆることが許されるわけでもない。困難と誘惑があるところに、また人間としてのあらゆる美徳と悪徳とが区別され、英雄と卑劣漢とが判然として来る。あらゆる仕事は、いつもこのような困難と誘惑との戦いからなしとげられて、やがて万人のよろこびともなったのである。わたしたちが真に尊敬し、真にわたしたちの所有として感謝できるものはこれらのものだけであって、このような本当によいものと、制服や名義だけのものとを、わたしたちは厳格に区別しなければならない。」

少し、長くなりました。途中での抜粋を行いますと美知太郎の気持ちを中断させるみたいで出来ませんでした。

でも、哲学者としての美知太郎が、こんなにも過激な発言をするなんてちょっと驚きです。今も、官僚という存在が悪徳の権化みたいに思われていますが、美知太郎が生きている時代でのこの発言は厳しいですね。又、労働組合員の活動に対する厳しい目もしかりです。

美知太郎はこうした物事を峻別するとき善悪の平衡感覚を持てといっているのですね。それと、あらゆる仕事には、困難と誘惑が常に待ち受けており、その戦いからなし遂げられたものが万人のよろこびとなるよう努力せよ!と言っているみたいですね。

最後の結びとして美知太郎は、アリスティッポスの言葉を引用している。

「むかし、アリスティッポスは、無教養であるよりも、むしろ乞食である方がよい。なぜなら、乞食に欠けているのは金銭であるけれども、前者に欠けているのは、アントローピスモス(人間性)だからだと言ったということが伝えられている。」

美知太郎は、ヒューマニズムは、人間性の有無上下によって区別されねばならないという立場と、すべての善美なるもの、すぐれたものを熱心に求める心にほかならないと訴えていた。

話は少し変わりますが、この間、たまたまテレビで近隣の環境事業の話題が放映されているのを見ました。その話題については、以前から大変よく知っている当事者に近い立場にありましたので、そのローカルニュースを自分のことのように見ていました。しかし、その環境話題のニュースは、如何にも良い事尽くめで放映されていたので、こうしたテレビ報道を鵜呑みにすると危険だなと思いました。

如何に不採算な事業であるのか?とか、そのためにどれだけの税金がつぎ込まれているのか?という隠された問題がまったく出てきません。まあ、やっている内容がまだ小さいですけれども、もし、事業仕分けとして取り上げられると、税金の無駄遣いとしてあげられるでしょう。

弱者救済として国が行なう助成金に群がる多くの偽弱者のなんと多いことか!もらえるものなら貰わないと損!といって、個人も企業もあの手この手で偽った申請を行ない、国の血税金を食い物にしている連中が如何に多いことか!

逆に、真面目な真の弱者は片隅で必死に自助努力をしている。
なんと矛盾した世の中だろう。

国が無い金をマジックのように捻出して、ジャブジャブ放出した予算のつけが結局、最後は国民すべてに来るということを皆さんは覚悟しているのでしょうか?

平和な国のお人よしな国民のヒューマニズム精神が、国家の破綻を引き起こさせることになるとしたら、ヒューマニズムの意味の取り違いによって最終的に非人道的な結末を引き起こしたということになりかねません。

そうならないためにも、やはり、マスコミの情報を鵜呑みすることなく、弱者に対しては安価な同情と甘やかしをすることなく、厳格に判断し、勇気を持って峻別する行動を取らなければならないでしょう。たとえ、それが他からヒューマニズム精神に欠けると誹謗されようと断固として貫くことが真のヒューマニズムでしょう。

なんとなく、ヒューマニズムがとても身近でやるべきこととして、辛く、大変な実行力を要することが分かってきた気がします。

by 大藪光政