書物からの回帰-ドレスデン

[ ドイツ/ドレスデン市内 ]

お盆に入る時に図書館からこの本を借りてきて息抜きに読んでみる事にした。田中美知太郎も継続して読んで書かなければならないが、ビール片手に読む本はやはり小説が一番だと思う。

今年の夏は猛暑なので昼寝とビールと読書が一番だと思う。(笑) でも、飲み過ぎは禁物。悪妻がすぐに騒ぎ立てる。「アル中じゃない?毎日飲んで・・・ビールも飲んで焼酎も飲むとは!」と、怒鳴られる。

缶ビール一缶と、焼酎一杯だけで何でアル中というのか?と、酒が飲めない悪妻にほとほとため息がつく。黙っていればよいものをわざわざ傍で言うから酒がまずくなる。

お盆ぐらいお昼にビールを飲んでもよいと思って一缶飲もうとしたら、「真っ昼間からビールを飲んで!」とまた、怒鳴られる。たった缶ビール一杯をお盆に飲んで何処が悪いと思いつつ、悪いやつと結婚してしまったとつくづく反省する。

そうした悪態を無視してビール片手に、三島の 『音楽』 を読み続けた。この本は、結構面白い。推理小説みたいな感じでスラスラと読み進んでいく。

主人公は、精神分析医の汐見和順。その患者として登場するのが冷感症で病んでいる弓川麗子。その女性の恋人隆一と自殺願望の不能者花井も関わって話が面白く展開する。

この小説が映画にもなったのを後で知った。確かにそうだと頷ける作品だと思う。但し、内面の表現をうまく捉えきれないと映画作品として失敗作となるかもしれない。

ここで、この作品についてあらすじを追ってとやかく言うのは、まだお読みになっていない方にとってお楽しみを奪い去るものになってしまうからよしましょう。特に推理めいた小説のストーリーがわかってしまうと読むのも興ざめとなるでしょう。

三島がこうした作品を書く気にしたのは、人の心と肉体との関係についてかねてから興味を抱いていたからでしょう。心には現実と直面して葛藤する意識と、過去の強烈な出来事によって出来た潜在的なstructureの中の隠しファイルによって起動する深層意識とがある。

この作品は、精神分析医の汐見がその隠しファイルを探り当てたところで問題は解決する。

でも、不思議なのは肉体が日頃起動している心よりも肉体がそうした隠しファイルによって突き動かされるというところでしょう。よくあることですが、オリンピックのスポーツ選手にとって桧舞台でここ一番というときに、心の中でためらいと動揺が起きて練習ではうまく行っている確率が高いにもかかわらず失敗を犯すことがあります。

これは、過去の失敗イメージを払拭しきれないで、ここで決めなければいけないときにそれが現実の心を強く拘束してしまうからでしょう。

だから、選手の多くが本番に臨むさい、うまくいったときだけのことをイメージするというイメージ・トレーニングを実行するのは頷けます。それでも失敗するのは個人差として過去の失敗経験よって構築されたイメージに囚われやすいか?練習不足による自信喪失の方が強かったというところでしょうか?いずれにしても、スポーツにおいて肉体と心とのつながりを無視することが出来ないのは皆さんご存知の通りです。

また、潜在的といえば本能もそうです。蛇や爬虫類が嫌いなのは祖先がこれらに随分ひどいめにあったせいだと私は個人的に信じています。そうした古代の記憶が現代の我々の脳の中にインプットされているのは不思議な気がします。DNAによってそうした記録が書き込まれているからでしょうか?(笑)

でも、それがわかっていてもやっぱり怖い、或いは気持ちが悪いというのは、要因が解明されてもなお心的症状は解決できないということですね。

この小説においては、心的要因をつきとめた精神分析医の汐見が麗子にそれを開示したとき、目出度く、麗子の冷感症が治ったというのは何かしら話がうますぎます。

本人に要因を知らされることで心の傷がそんなにカンタンに治るものだろうか?

三島のこの作品は 『性』 というところから出発しています。『性』 という問題を考えるとき、身体、心、本能と、人間を構築しているすべてについての角度から見なければなりません。当然、人間は社会的動物ですから、過去と現在の社会環境が変わればそれらにも大きく影響されます。同性愛が社会的に認知される世の中であれば、社会制度にもそうした枠組みが生まれます。我々が実感している常識というものが必ずしもこの世界を構築しているすべてと一致していないということに気付かされます。

作中の弓川麗子とその兄との関係において、俗世間上におけるタブーな関係を持つということが性の世界では珍しくもなんでもないという認識に立っていたらどうでしょうか?

弓川麗子が苦しんだのが世間との特異な乖離だとすれば、その乖離を生んだのは兄の不道徳行為でしょう。

しかし、世間との乖離があっても偉人が歴史の中で、世間はずれの行為で社会的批判を浴びてもなおかつそれに耐え忍んで行為をなすとき、彼の心が傷つくことなく意気揚々として生きることができるのは、その行為において正しいと思う確信と貫き通す意思があるからでしょう。

そうしたときには、なんら心の病みを背負う事はない。むしろ、生き生きとしているに違いない。と、すれば世間との乖離で心が歪んでしまうとは一概には言えない。

少し、話がずれてしまったがこの三島の作品における結末は、心療医療としての治療、ここでは要因解明とそれをもってして患者の心を開放することにより完治したという話は何度も言うようにいささかうまく行き過ぎている。

精神分析医としての仕事は医療行為であるが、医療行為は科学ではない。科学は解析することで原因を見極める為のひとつの手法である。

しかし、医療は原因を科学的手法によって解明することは出来ても、そうカンタンに元の身体に戻すことは出来ない。

テレビの故障を修理依頼して、もし、故障の原因がわかっても修理し切らなければお金は取れないでしょう。「この箇所が故障していたからです。」と、説明してこれを直しきらないときどうなるでしょう。人間が作ったものだからそれを直すことは不可能ではないと思っている人にとって、直さずに「お金を頂きます」といったらユーザーはきっと怒るに違いありません。

ところが、病気の原因を解明して、「これが原因です。しかし、これは難しい・・・」と言って治療費を請求されても誰しも文句が言えません。

これは、原因が突き止められたからといって完治の道が開けてすぐに治せるとは誰しも思っていないからです。

医療とは人間という一人ひとりの個体差がある身体と心をもった生き物を対象とした治療行為ですから、そうカンタンにうまくいくとは限らないのは皆さんご存知の通りです。

最後の締めがあまりにもうまく終わっているこの小説は、私としては物語の流れとしては面白かったが、何か物足りない結末で終わっている。それは何だろう?

ひとつは、潜在意識によって身体が突き動かされるメカニズムがまったく不明である点。そしてそのメカニズムがたとえ分かったとしても、そのことからその不具合を矯正できる道筋なんて果たしてあるのかしらんと思うその二点の方に気持ちが行ってしまっているからだ。

ひょっとして、医学がさらに進歩してこうした三島の作品事例が可笑しい事例だと判明した時、三島文学としてのこの作品の価値はどうなるのだろう。

そうならない為にも、麗子の冷感症は治らなかったことにして、精神分析医である汐見の不憫な心持を書き記した方が無難だったと思うのだが、何故、三島はこれを敢えて うまく纏め上げたのか?

いずれにしても文学作品においては、作品背景として採用して描いたものが時の流れで陳腐化することをも想定して書く覚悟だけはしておくべきだと思う。

by 大藪光政