書物からの回帰-ザルツブルグ庭園

[ ザルツブルグにてミラベル庭園 ]

野内良三氏の本を読み終えようとしたとき、図書館に次の本を借りようと足を運んだら、哲学書棚に、この本が置いてあった。手にすると、これもまた新書で誰の手にもまったく触れられていない新刊本であった。やはり、初めてページを開く紙の感覚は気持ちが良いものだ。

田中美知太郎という方は、僕にとってとても思い出のある過去の方というイメージが強い。それで、この本も、恐らく、新刊本であっても、増刷されたものだろうと思っていた。

ところが、最後のところを開いて確認すると、なんと、2010年3月25日初版第一刷と書かれてある。それに驚いてあとがきを読むと、昭和五十三年と記されている。

つまり、この本は昭和十五年から昭和三十八年までの十五編なるものから、藤森書店から出版した 『生きることの意味』 を底本として学術出版社が、他の著書文献をさらに付け加えて、新刊としてこの世に出したもののようである。

最初に、田中美知太郎の名を初めて知ったのは、大学に入った直後である。教養学科で哲学を取った関係で、「哲学初歩」という本を買わされた。そのときは、授業のテクストとして使うのだろうと思っていたら、まったく買わせた本に触れることも無かった。

担当の先生は、中国哲学の八卦についての話や、自由民権運動の理論的指導者である植木枝盛に関する話を口述筆記として指導されました。

とても、ユニークな先生で、一般教養では一番面白く大学に来た気分になれました。学問とは、高校時代のように教科書に基づいて学ぶということものではないということを暗に知らされたものでした。

さて、ここでいつもだと、この一冊の本を読み終えて感想とか想いとかを書き記すのですけれど今回は、敬意を込めて、この本については丁寧に熟読し、各章についてそれぞれ取り上げて書き記そうと思います。

しばらく、長い連載みたいになるので、本に書いてあることばかりを例に挙げて取り上げるとお互い退屈しますから、読後に派生する考えを書きとめて行きます。でも私がよくやっていることですね。(笑)

ところで田中美知太郎が亡くなられて、丁度二十五年経っていますが、この本はそうした記念的な出版だったかもしれません。そして、ネットで今頃知ったのですがプラトンの翻訳者で有名な藤澤令夫は、美知太郎の弟子らしいということと、福田恆存とは友人だということです。両者については親近感を懐いています。

さて、美知太郎氏は、(田中氏と言うよりもこの方が感じいいですね。名前が四文字もあるからかな?) 序章で、哲学の必要性についてよく意見を求められるがいつもそれに触れるのはわずらわしいみたいで避けておられたが、それについて語り始めることからスタートした。

この序章を読むと、またひとつ美知太郎氏の意外な一面を知った。彼は哲学でもって社会に対してもちゃんと物申しているのです。学者には、直接的にそうした社会批判をやる学者とそうでない学者とがいます。中には、物を申すだけでなく直接、政治家となって活躍する人すらいますから、まあ、人それぞれです。

しかし、哲学者でそういう社会に対して苦言を発する学者は数少ないでしょう。政治学や経済学などを専攻している方とくらべると本当に少ないですね。

この本のタイトルが 『生きることの意味』 であるのと同じように、『哲学することの意味』 を世間が問うことは別におかしいことでもありません。でも、美知太郎氏にとっては、哲学の必要性を問われた時、逆にそういう質問者の考えをおかしく思うようです。

何故、必要性を問いただすのか?ということを考えると、世間は必要性ばかりを追求して生きているようにも思えます。逆に、生きることの必要性を考えている人は、恐らく、数少ないでしょう。自殺をする人あるいは、しそうな人は生きる必要性を失ったと言えるでしょう。

必要でなければ要らないのか?という問いを考えた時、はたと迷ってしまいます。自分にとって必要でないものをこの世から削除したらどうなるか?恐らく、この世の均衡がくずれて自分にとって必要なものが連鎖的に消えてしまう可能性が想定出来ますね。読者のあなたも消えるでしょう。そして、最後には私も消えるでしょう (笑)

そうした問いを考えること自体も哲学ですからおかしなものです。

経済の仕組みが高度化されるにつれて現金としてのお金から、目に見えない証券取引がインターネットの発達によりバーチャルな社会を生み出し、限りない利益の追求がグローバルな世界で今日行なわれています。

それが人間にとって、生きることの意味とどう繋がっているか?と思うと、利益を得ることでより良い生活環境が得られるということと、限りない享楽を甘受できるところにありますね。

でも、それが生きることの意味であるかはとても不明ですね。つまり、『生きることの意味』 が常に利益を追求して、限りない享楽を甘受することだと言えるか?ということです。これは、人それぞれでしょう。

それが生きることの意味だと言うのであれば、他の人よりも自分優先にならなければなりません。自分が儲かりそうな時に、他の人にそれを譲るという莫迦なお人よしでは、競争に負けてしまいます。自分だけ限りない享楽を甘受するということは、他の不幸になる人の存在が出来るということを無視できる気持ちをもつことです。

哲学することの意味は、こうした現実に踊らされている社会に対して距離を置いて深く思索して、「そうしたことが人にとって生きることの意味としてどうなんだ?」と、自問することもそのひとつでしょう。

社会は、直接、哲学者が世間に問いかける学者があまりにも少ないので、「時間をかけて本ばかり読んだり書いたりして、一体、哲学っていつ役立つのだろう?」と、いぶかっているに違いありません。

科学系の学者に比べれば、哲学者は、休眠動物みたいです。

そういえば、あの思索家の池田晶子さんが、哲学者藤澤令夫氏との対談で「何故、先生はもっと社会に対して発言しないのか?」と、思われたようです。真の学者は、直接的な発言して他人を傷つけることは好まないみたいなことでした。つまり、哲学者は過激ではなく温厚な学者ということでしょう。

藤澤令夫氏は、文筆家として哲学に携わる池田さんの活躍には目を細めていたに違いありません。

この 『生きることの意味』 というタイトル付けが美知太郎氏ではないところからわかるように、この本を読んでも恐らく、直接的にはその意味を説明してはいないでしょう。

それは、本一冊で語り終えるものではありません。

ただ、序章において少し、こう言われています。「むかし、ソクラテスは、ただ生きているということではなくて、よく生きるということが、大切なのだと言ったが、哲学というものは、そのように考えたソクラテスから、本来の道を歩むようになったのだと言われている。ひとはただ生きるために生きているのではなくて、何か生きがいを求めて生きているのである。哲学の問題とするのは、生きがいのことだと言ってもよいだろう。」これは、池田晶子さんもソクラテスファンだったようで彼女も常に読者にこうしたことを呼び掛けていましたね。

この本を読みながらこのタイトルを振り返って考えることを美知太郎氏は望んでおられるでしょう。
それは、日々の生活をしながら生きることの意味を初心で問うことと同じでしょう。

そして、哲学することの意味も、書を読み、思考し、その思考を書き出し、それを己の心の糧として蓄え、それが心棒となって、いつの日かは己自身や社会に役立つような行動をする時が来るということでしょう。

美知太郎氏は、この序章では、かなり、社会に対して辛らつな発言をされています。最後の締めくくりとして、氏は、次のように結んでいます。

「イギリスのある小説家が、形而上学の書物ほど面白いものは無い。と言っているのを読んだことがある。人間の思想の世界のひろさと深さ、そのいろいろな屈折を、きびしい論理と、思いがけない愛情と、時には人を驚かすパラドックスや、絶望を誘う不安の思いなどをもってどこまでも辿って行く面白さというものは、また格別のことだと言わねばならない。この楽しみを知らない人は、不幸だともいえる。人々が少しでもそういう楽しみを知るようになったらと思う。どうも、わが国には、そういう楽しみを知らない利口馬鹿のような連中が多すぎるようだ。」

この最後の利口馬鹿な連中とは、誰を指すのでしょうね。(笑)


by 大藪光政