書物からの回帰-六月の花


図書館で面白い本を見つけてきた。この本は2009年12月に出版されたものであるから、丁度半年足らずである。読んでいて、同調できる箇所があって、かつ、ものの考え方においては自分と似ているところがあり、少し、変な気分になった。


読み終えてからは相変わらず行動することで、毎日、忙しくてそのままにしておいたが、少し、気になって著者についてネットで調べてみた。そこでは、特にユーチューブにおける彼が出演している動画が面白かった。


経歴は、異色で文系から理系へと仕事をシフトして行っている。これは、別に不思議なことではない。人間の頭は、文系も理系もなく何でもやれるようになっているからだ。それを敢えて分けようとしているのは、好き嫌いの問題であろう。


タイトルの中の 『宇宙』 という言葉を、『脳』 と置き換えることもよしとするということを踏まえると、この本の意味するところがよくわかるはずだ。


しかし、まあ~ユーチューブの録画番組を見て、少し、あきれて考え込んでしまった。彼自身、自分は、天才で頭の回転が早く、多彩ですべてを達観しているといった強い自負がある。周りの人もそれに対してまったく同感して、何も言えない感じである。


そして、最近、月に一冊本を書いていると、これまた、自負している。そして、おまけに、Googleを買収できるのは、自分しかいないと断言している。これには、周りも流石に大風呂敷だと思っているが、彼の言い分としてのGoogleの弱点と彼が唱えるP2Pの今後の展開を聞くと実現はともかくとして、論理として矛盾しているところはない。


苫米地氏の著書の中に、『テレビは見てはいけない』 という本を出しているみたいだが、それを読まずとも彼の言い分はその通りであり、おまけに、面白いことにテレビ出演中の現場で、放送局の連中なんぞみんなレベルが低いと莫迦にした発言をする始末である。


そのテレビに自身がでているから、その点、苫米地氏も同類項と言いたいところだが、彼の場合、顧問となっている角川春樹事務所は映画を製作しているが、その映画も洗脳というツールとしてテレビよりも、もっとも危険なものであると言っているから、まあ、天真爛漫な放言家みたいである。


つまり、言いたい放題の子供みたいな天才だと思ったほうがいい。


彼は、他界された池田晶子さんと年齢的には同じ世代であることに経歴を見て気付き、意地悪にも池田さんとの対談をさせたらお互いのことをなんと言うだろうか?と思ってみただけでも面白くなった。


さて、この本では序章に、「時間は未来から過去に流れる」という断言ともとれるタイトルが掲げられている。このことが頭に最初に印象として残ったせいか?塾生に未来と過去の時間の流れについて問うてみると、全員、「そりゃ~過去から現在そして未来に流れているに決まっているでしょう。」という意見で占められていた。


しかし、この 『時間』 という、人間の感覚では見ることも触ることのできない厄介な代物は難しいところがある。


苫米地氏の説明する、『人間がものを認識する時、脳には認識までに遅延がある』 ところの指摘がそうである。脳が認識するときの遅延は200msということらしいので'(その値が正しいか否か?は別として)、厳密に言えば、認識した途端、そこにいるかどうかはわからないということです。


一瞬の移動が可能である場合、認識したときには、変な話ですがもうそこにはいないことになります。つまり、脳は常に、過去を認識しているから過去に生きているという話です。


これを塾生にわかりやすく説明すると、ものごとを200ms後に認識して、それを説明しょうとしたとき、それは、過去のことを語っているということだという風に語りました。

まあ、こうした話を塾生にしてみると、黙って聞いていましたが小5の元気な読書家のN君は、「先生、未来から過去へと時間が流れているというのは、どうやって証明されたのですか?」と畳み掛けてきました。


それで、「いや、数学や物理学の学問的な形での証明なんてなされていないよ」とだけ言って、ふと、この証明という言葉をそのまま苫米地氏にぶつけて見たくなりました。このことについて、彼は 「唐突と思われる方は分析哲学の本などを参考にしてください。」とだけ付け加えている。


でも、彼がそう断言しているのに分析哲学を参考にせよ、と言うのは少しおかしいと思う。「分析哲学にて、証明されているからそれを読んでください。」と言うべきでしょう。参考にせよ、とは、あなたもそれを読んでそれを感じ取ってくださいといったレベルだと思う。


彼は、科学と哲学と宗教を行き来しているからとてもゼネラリストな知識を有しており、事象に関して統一的な論理を唐突にも創り上げるのは、とても面白いところであるが、それを信じるには何の証明もなしではちょっと飛躍がありすぎると思います。


彼は、断言的に自信を持って言い尽くすのは、恐らく自身の向上心から来ているものだと思う。だから、自慢しているのではなく、知りえたすべての知識と直感で物事をてきぱきと判断して言い切るだけの努力があるのでしょう。


彼が、自慢的に語る饒舌は、ひそかな自身への叱咤かもしれません。


それが証拠に、この本に書かれている作法は、断言を、「こう思っています。」という語尾に変換すれば、とても素晴らしい発想の内容ばかりですし、彼が言わんとしているところは、とても簡潔でわかりやすいものがあります。


あのテレビでの行儀の悪い態度とは裏腹に、この本では真摯な問いかけを読み取ることが出来ます。


彼の仕事のひとつとして洗脳とか催眠に関する研究というものがありますが、どうも、私の場合、そうしたものに対して小さい時分からそうしたものには掛からない性質をもっています。


催眠術で五円玉をゆらさせて僕に術を掛けようとしても、この人何故こんなことをするのだろう?莫迦みたい!僕をどうするつもりだろうなんてと思うだけです。そうした連中の言い分は決まって、「あなたは素直でなく賢くないから催眠術に掛からないだ」 と言われてしまいます。


或いは、嘗て学生運動が盛んな時、色々な変な団体の洗脳的な話を聞いても、何故だろう?と考えるばかりで、それはちょっとおかしいのではないかな?と疑問を持つばかりです。


そうした連中とは、どこまで議論しても平行線を辿るだけです。


洗脳と言う言葉を聞けばなんだか空恐ろしい感じがしますが、要は言葉巧みなペテン師と同じで人を気付かずに巧みに騙す術ですね。そして、騙されるということはそれだけ賢くないということです。


賢くないと言う意味は、物事を深く考える力が無いということです。オウム事件で発覚した高学歴な信者が洗脳されたわけは、学歴と真の賢さとは別なものであることを意味しています。


苫米地氏、曰く、「人は何故洗脳されたがるのか。なぜ脳は洗脳を求めるのか。」という問いに対して、「それは、洗脳されると楽だからです。」という答えを用意していました。



その説明としてたとえ話もうまくされていましたが、これを読んだ時、如何に僕の脳が楽なことを望んでいないのか?ということがよくわかります。これは、性分として人と同じことをやりたくないというところから発していると言えます。


僕が、人が大勢いるお祭りに出かけるのが苦手なのはそのせいかもしれません。でも、町内会のように自分が主催者側になった時は、これが豹変してとても楽しくなります。つまり、自分が企画したものに対して人がそれに乗って来る。という面白さがあるからです。


それは、自身のオリジナリティで周辺を巻き込ませることを好む性分があるのと、突き詰めるといつまでも同じことをやりたくないという新規性を常に求めているからでしょう。今でも、そうした性分のお陰で、日々、僕は新しい僕に生まれ変わっていっているのです。僕の変位は時間の変位でもあります。


それは、宇宙は静止していることはなく、常に変化しているという事実と同じことです。時間とは、そういう意味では現象変位を指すのかもしれません。


この間、塾で統計学の上村英樹教授に講義をお願いした時、先生は子供たちに、『数のブラックホール』 について語ってくれました。ある計算ルールで演算していくと、最後は、一つのある数に固定されてしまう場合と、限られた数での循環で終わる話でした。


つまり、そこから抜け出せないということで、『数のブラックホール』 ということらしいのです。これは、変化が固定されてしまうということになります。これに対してπを計算させるとどこまでも変位していきますから、πは時間みたいなものとして捉えることもできると思います。


πを延々と計算するということは、ストップウォッチのボタンを押してそのままにしておくということと同じことですね。そういう意味では、πは数学的時間現象そのものかもしれません。


パソコンの画面が固まると言う現象は、突き詰めるとパソコンもオンオフの二進数の演算で動作しているだけですから、その演算がブラックホールに落ち込むか?延々と解決のつかない演算(暴走)を続け始めるかのところで、プログラム的にそこから抜け出せない状態に陥っているということになります。


僕が不思議に思うのは、苫米地氏が誇大妄想ではなく、現実としてこの世に自身の先進的な考えを説く意志があるのなら、Googleを買収するようなスケールの大きな太っ腹をお持ちであるのだから、何もこんな薄っぺらい本で1300円もの金額で買わせなくてもいいだろうに?と笑ってしまいます。


このような本は専門書ではなく、幅広い知識を集約して整理した誰にでも理解しやすい内容であるからブログで充分だと思うのですが、何故そうしないのだろう?


それは、角川春樹事務所に稼がせるためといえばそれまでですが、それだと本のビジネスとしてマーケティングの世界に嵌ってしまっているだけのことになります。つまり、現世利益ということですね。


人がどう生きるのも人の勝手であって、ここで気付いたのは、自信過剰な僕が家族からは、「あなたの自慢話は聞きたくない。」と言われる身分でしたが、彼はその僕の数万倍も上を行っているのは事実のようです。


それに、若くして能力も私の数万倍もありますね。でも、孫悟空みたいな苫米地氏が謙虚になった時が、人としての本領を発揮するはずだと思います。


この本には、テレビとは違った謙虚さがありますから、本当は意外と、とても謙虚な人なのかもしれません。つまり、テレビによって視聴者は苫米地氏が大風呂敷で態度がデカイと洗脳されていたのかもしれません。


まあ、悟空が金団雲で遥か彼方のところまでひとっ飛びして山に文字を書いて自慢していたら、何のことはない、お釈迦様の指だったという話は、誰にでも当てはまる話ですね。


by 大藪光政