書物からの回帰-門司レトロ



四月に、例の火山噴火でヨーロッパに飛び立てなくなった日、宿泊先の博多駅近郊で、友人とお酒を飲むことになった。


このことは、すでに、前回お話したと思います。そのとき、飲むにはまだ明るすぎて喫茶店で時間を潰してもさらに持て余したので紀伊国屋書店に行こうということになった。


もともと、本はなるべく買わない主義なので、見るだけなのですが、哲学書がある本棚に池田晶子さんの本がズラリと並んでいた。


その中で、「あたりまえなことばかり」 という見覚えの無い題に目が留まった。本の帯びには副題として『言葉は命である』と書かれてある。


内容的には、過去の寄稿したものを整理したものである。そこで、衝動的にこれを買うことにした。


普通、図書館から借りる習慣のあるところを、敢えて、本屋さんでこれを買う気になったのは、旅行の中止で何もせずに自宅に引き返す羽目になったせいでしょう。


読んでいくと、校正が甘いなあ~と思う箇所が幾つかあった。トランスビューという会社は、『言葉は命である』という帯を付けてこの本を売ろうとしているのにちょっとそれはないだろうと思う。

(校正をする人ぐらいいるだろうに)


しかし、そうしたミスよりも大切なのは、ここに書かれている、いや、問われていることへの考察かもしれない。書き手はもうこの世にいないのだから、これを読む人が『どのような思索を巡らすか?』 でしょう。

この本は、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと大きく分かれていて、その中に幾つかのテーマに沿って書かれていますが、特に直接的には横の繋がりはない。


つまり、どこから読んでもいいということだが、素直に順番どおりに読んでいった。先月に読んだ本の感想を今頃書くのにはちょっとした理由がある。


旅行に行けなくなって、四月十九日から五月の連休まで、ずっと仕事をお休みにしていたので、その間、今まで出来なかったことを色々と選び出して取り掛かり出したお陰で、逆に、忙しくなって投稿する時間が無くなってしまった。(笑)


最初の一週間は、この本を読みつつ、『無量育成塾』 のホームページとブログを立ち上げるので時間を少し費やした。 そして、後半は日頃出来なかった野暮用を済ませて行った。その中には、自宅前の公園を自分の庭だと思い込んで美化活動をしているひまわりの会の総会準備も含んでいた。


僕は、なかな~か暇になれずいつも多忙になってしまう。これは、死ぬまでそうかもしれない。


これは、宿命だろう。(苦笑)


それで、この本の内容に関する感想といっても何が書いてあったか?もう、記憶に無い。それは、題名通り、「あたりまえなことばかり」 だからでしょう。(笑)


それで、仕方ないから本を傍に置いてちょっと感想を述べて見ようと思う。


まず、『走りながら考える』 というのがある。これには首を捻った。しかし、歩きながら考えるというのは、よくあることでこれはとても大切な手法としてよくこの手を使う。たとえば、町内会の事などで自ら積極的にショルティを連れて出歩いて行くときに用いる。


これは一石二鳥どころの比ではない。


ショルティのウンチとシッコと気分転換といった多くの要求に答えることが出来る。


次に、たとえばこの間のソフトボール試合の時の記念撮影写真を各家庭に届ける。これは、町内の人々に感謝される。


そして、歩いている間、色々と思索が出来る。

これは、うまく行かないところの仕事上の諸問題を解決する糸口を摑むことが出来る。


最後に歩くことで自分の健康の維持が出来る。


数えて見ると、多変量の処理が出来きている。


しかし、池田さんは走りながら考えることが出来るというのはすごいと思う。僕はジョギングが苦手だ。走るときつい。きつくて考えることなど出来ない。


でも、慣れればそうしたことも出来るのはなんとなくわかる。そういえば、学生時代のマラソンの時なんぞ、色々と考えながら走ったものだ。


さて、余談ばかりになってしまったが、副題の 『言葉は命である』 は、この書き込みの最後のところに出てくる。


池田さんは、死刑未決囚との公開往復書簡という取り組みをやった経験を回想しているのだが、これには、ご本人も相当ストレスが溜まったようだ。


これは、本にもなっていてかなり前に読んでいたから池田さんの気持ちがよくわかる。僕としては、池田さんは彼に期待していたからストレスになったのだと思う。


彼の抱えている課題に対して気付かせようとしたとき、池田さんは鏡に写っている相手と対話をすることで、自分が成して来た考えに確信が持てるはずだったと思う。


しかし、鏡の中の彼は池田さんの身振り手振り通りには動かない。そこでストレスとなる。


そういう経験は、やはり、実際にやって見ないとわからない。


吉田松陰が自分の門下生に対して自分の信念がわかっているだろうと確信していたら、そうでなかった。それに激怒して縁を切るとまで書いて認めた手紙が残っている。それと同じだと思う。


僕も、無邪気な天真爛漫な塾生に対して、学ぶために塾にくるのだということがわかっていると確信して入塾させたのにそれが“てんで”わかっていないことがわかるとがっかりしてストレスになる。そして終いには怒ってしまう。


やはり、相手は自分ではないから自分が考えているみたいに相手は思っていないという 『あたりまえのこと』 にやがて自ずと気が付く。


『言葉は命である』とは言っても、語ることのできないイデアの方がもっと深くて大切なはずだ。特に、行動することで人と人との考えの相違に大きなギャップがあるとき、とても言葉では説明しきれないイデアがある。


それを抱えて途方にくれてしまうことがある。


なんとも言葉で言い尽くせないもどかしさに孤立無援な感情すら浮かぶ時もある。


言葉よりも大切なものとは何か?


この本に限らず池田さんが伝えたいことは、『存在』 の不思議さだが、それはもう、僕にとっては小学三年生のときからの謎の課題である。


この謎は、年を追うごとに消えては再び出現し、それを繰り返している。


現在という不可解な時間の中にいる自分の存在は奇跡である。


過去というありもしない時間に自分が居たということは幻影に過ぎない。


未来という存在しない時間にそのうち辿りつくという虚数も想像の限りだ。


こうしたことをまったく考えないほのぼのとした町内会の老婦人のにこやかな笑顔に出会うと、なんだかホッとするのは何故だろう。


by 大藪光政