この本は、渡欧の途中旅先で読み上げてしまうつもりでバッグに入れていたが、アイスランドの火山噴火でヨーロッパ中の空港が閉鎖されたお陰で博多にて一泊したものの飛行機の出発が決行されず、やむなく自宅へ引き返してしまったので帰ってからこの本を一気に読みました。
4月16日の火山噴火のニュースのときは、イギリスの空港だけが離発着ができないだけという情報だったが、徐々にドイツ、フランス、スイス、オーストリアと拡大して、ついには、こちらの目的地であるプラハまでもが離発着がストップになってしまいました。
せっかく用意周到で渡欧へ向けた気持ちがいとも簡単にへし折られた気がします。私にとってこの前代未聞の天変地異には、流石に「何故だ!」と叫びたくなるが、どうしょうもありません。
飛び立つのが期待はずれになって莫迦みたいな心になった私は博多の夜を久し振りに再会した親友と酒を飲み交わしながら・・・とは言っても親友は車で会いに来てくれたので彼はノンアルコールのビールを飲んで、僕だけがしっかりと生ビールを四杯ほど飲みました。まあ、自棄ビールでしょう!
しかし、これも何かの因縁だと覚悟してプラス思考で次のステップを踏むしかないとは思って気分を改めた次第です。でも、大きなトランクが宅急便で旅行会社の手配で自宅に返送され、それを現実に見るまではなんとなく、しばし、狐につままれた気がしていました。
さて、永井荷風はこの小説を五十八歳の時に書いています。
内容は、正直言ってどうでもよい内容ですね。
まあ、陋巷の描写を含めて兎に角、風景スケッチ描写と私娼とのまじめなやりとりばかりに字数を費やした小説だから退屈します。恐らく今の若い人たちにとってはつまらない小説のひとつでしょう。
題名は、『濹東綺譚』 と、今の人にとっては気難しい題名のようですが、『濹東』 は先程の場所を指すだけですし、荷風の文人としてのブログみたいなものです。
別に、小説を通しての教訓もありませんし、人生を問うといった野心的な哲学もありませんし、ただ徒然に人間社会の陰をあっさりとデッサンしただけです。
だから、もちろん感動なんかありませんが、荷風の人柄はこの文章に詭弁がないとしたら、謙虚な人だなあ~というのがよくわかります。
ブログのように当たり障りの無いどうでもよい話を綴った書き物だとは思いますが、荷風のような文章力でもってさらりとブログを書いている人はあまりみかけませんね。
でも、荷風はこの小説の後に、『作後贅言』 というタイトルで作者自身のあとがきみたいなのを長ったらしく書き加えていますが、この 『贅言』 という言葉の意味は 『余計な言葉』 という意味ですから、そうかな?と思って読んでいましたら、ハッとするところがありました。
そこを少しご紹介しましょう。以下、『作後贅言』 の箒葉翁との会話における引用文。
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「しかし、今の世の中のことは、これまでの道徳や何かで律するわけに行かない。
何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫も、何があろうとさほど眉を顰めるにも及ばないでしょう。
精力の発展といったのは欲望を追求する熱情という意味なんです。スポーツの流行、ダンスの流行、旅行登山の流行、競馬その他博奕の流行、みんな欲望の発展する現象だ。
この現象には現代固有の特徴があります。
それは、個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている ― その心持です。
優越を感じたいと思っている欲望です。
明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。
あったところで非常に少ないのです。
これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。」
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もうひとつ、引用しますと、下記のくだりです。
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何事をなすにも訓練が必要である。
彼らはわれわれの如く徒歩して通学した者とはちがって、小学校へ通う時から雑沓する電車に乗り、雑沓する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことに能く馴らされている。
自分の名を売るためには、自ら進んで全級の生徒を代表し、時の大臣や顕官に手紙を送る事を少しも恐れていない。
自分から子供は無邪気だから何をしてもよい、何をしても咎められる理由はないものと解釈している。
こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする。
この努力が彼らの一生で、その外には何物もない。
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『濹東綺譚』 の小説で気になったところの箇所がある。
それは、主人公である荷風が巡査の職質に出くわすシーンである。巡査の職質に対して素直に自身の身分について文学者あるいは小説家であることを言えばすんなりと解放されるのに、無職で通したためやっかいな拘束の身となる。
これは、荷風自身の素直な姿勢だとすれば、これは驚きである。
先程の引用文でお分かりになったように、高慢な人間を毛嫌いしているのがわかるし、それ故、徹底して己を抑制して謙虚でいる。いや、謙虚そのものが自然体なのかもしれない。
今日のようにブログだとかに投稿する人は私も含めて上記のような高慢な人間なのかもしれない。
読後感なんてものは、黙って自分の胸に収めておけばよいものかもしれない。
しかし、それを言うと荷風さんだって、こんな小説を書かなくても自分の胸にしまっておけばよいということになる。ましてや、それで生計を立てるとなると・・・如何なものか?ということになるからやっかいな話になる。
文章を書いてこれを公表するということは、文責が生じる。それを逃れようとして誰が書いたのかわからないような匿名やニックネームで投稿する人もいる。それは、ある意味で謙虚な方なのかもしれない。
私の場合は、池田晶子さんが「匿名で書くブログなんて・・・」と、駄目な発言をされたことを読んでいたのでそれならば、と実名ですべてのブログを書いているのだが、そうすると今度は荷風さんのような俺が俺がの自己主張タイプに指定されてしまう。いっそうハンドルネームを沢山使ってあちこちのブログに投稿すればよいものをと思ってしまいがちだ。
確かにブログは公開の場であるが、これを書いている刹那においては自身の思考の場でもある。それが書き終えたとき、初めて公開の場となる。
振り返って昔書いたブログを時々除いて見ると、意外な発見もあるし、自己研磨しているなあ~と感じるところもあるし、自慢タラタラのところもある。
荷風さんは、明治と大正の時代の違いが人間の習性まで影響しているという風に書かれているが、長い歴史の中で見ると、その後の昭和も平成も相も変わらずな市井の人がいるのがわかるはずだ。
欲望による向上心は、人を高揚させるがややもすると醜悪になる。
しかし、生身の人間が欲求を持って向上しょうとする姿勢を否定することは自然でないと思う。
自己満のブログだとしても、そこで 『考える』 営みをしていること自体は向上心そのものだと思う。
問題は、その出来上がった書き物に 『仁』 の心があるか否かのような気がしてならない。
書き物が人の心を傷つけるようなものであればどうであろうか?
その高慢な文章が不愉快さを読者に与えさせたらどうであろうか?
そう思うと、今一度、自身が書いた文章を点検しなければいけない気持ちになってしまう。
荷風さんの苦言は、平成の世にも立派に通用する。
そして、この私にも差し向けられている気がしてならない。
by 大藪光政